第五十八話 存在否定したのが間違いだった
リクサとヂャギーがグウネズと近接戦を繰り広げるのは、これで三度目。
だが今回は、過去の二度とはまったく異なる様相を呈していた。
全開となったリクサは迸るオーラを身にまといながら、流れるような動きでグウネズを翻弄している。
どうやら全能力値が爆発的に向上しているらしい。
ラヴィの魔神殺しが潰している右目の死角を上手く使いながら、更に鋭さの増した剣技で魔神の漆黒の肉体をズタズタに切り裂いていく。
その圧倒的な戦いぶりは、討伐権限者とも呼ばれる勇者の血族として、実に相応しいものだった。
一方、ヂャギーは負傷を恐れず前に出る愚直な戦法を採った。
グウネズの三叉槍を幾度も喰らいながら、全力を込めた斧槍の一撃をお見舞いする。
ヂャギーが受けているダメージは、すでに致死量を超えているようにしか見えない。
しかし【宣誓】が効いているためか、死ぬことだけはなかった。
まるで不死騎のように、ヂャギーはひたすらに戦い続けた。
グウネズの無尽蔵の再生能力はいまだ健在であり、やはりこの状態の二人でも仕留めることはできない。
だが、確実にその場に足止めしてくれていた。
これなら、いける。
「やるぞ、ブータ!」
「はい!」
迷い無く答える天才少年。
その背後に俺は立ち、聖剣の剣先を天に向ける。
【超大物殺しの必殺剣】を初めて使ったときと同じように、やり方は自然に理解していた。
聖剣に秘められた技能拡張の力を解放し、ブータと精神を同期する。
途端、世界が一変した。
それは既存の五感が塗りつぶされていくような、奇妙な体験だった。
色が変わり、音が変わり、匂いが変わる。
たぶん、味覚や触覚も変わっているのだろう。
ブータの途方もない量の内蔵魔力と接続したことで、俺の魔力に対する感覚が鋭敏になったのだ。
周囲の物質に宿る微弱な魔力が、はっきりと感じ取れる。
俺は暫時、唖然として辺りを眺めた。
これが普段、ブータが見ている景色なのか。
魔力というのは万物に宿る可能性因子だ。
魔術とは、自身の内蔵魔力で周囲のそれを操り、望んだ事象を引き起こす技術のこと。
当然、内蔵魔力が多いほど、起こせる事象の種類は増え、規模も比例して大きくなる。
やがて凄まじい全能感が胸の内から湧き上がってきた。
身の回りのものすべてを自分の自由にできるかのような、そんな高慢な気分になってくる。
だが、これは錯覚でも思い上がりでもない。
事実、ブータはやろうと思えば、そうできるのだ。
――なるほど。
ようやく俺は合点がいった。
これだけの力を持てば、それを振るうのが恐ろしくなるのも無理もない。
彼が感じていたプレッシャーは、つまりは彼自身が無意識のうちにかけていたブレーキだったのだろう。
俺も聖剣を抜いて王になり、大きすぎる権力を手に入れた。
だから、少しだけだが気持ちが分かる。
なんでもできるということは、何をするべきか、何をしないべきか、選択する責任を負うということだ。
ウィズランド島の全魔術師の極致に立つ、この小さな亜人の少年の、その心の一端に初めて触れられたような気がした。
そのうちブータとの精神同期は更に深化していった。
彼の思考がダイレクトに伝わってくるようになる。
それは同時に、俺のこの思考も、彼に伝わっているということだ。
自分の背丈ほどの大杖を両手で構え、グウネズを見据えて、ブータが声高に叫ぶ。
「いきます!」
もちろん俺は《存在否定》の呪文なんて、聞いたこともない。
だが、思考まで同期している今、それは障害にはならなかった。
ブータと俺の声がぴったりと重なる。
「来たれ椋鳥。暗澹たる夜は終焉を告げ、黎明の時は間近――」
先ほど【超大物殺しの必殺剣】でいくらか消費してはいたが、恋愛度の合計はまだ十五程度残っている。
つまりは《存在否定》を十五回重ね掛けできるということ。
ブータが未来に使うスキルを前借りするのに、彼以外の恋愛度も使えるのは疑問ではあったが、この際気にしてはいられない。
とにかく十五回分、すべてぶちこむ。
ブータも持てる内蔵魔力すべてを使って、魔術の効果拡大を行っている。
俺は聖剣を抜くことがなければ王になることも、こうして戦場に出てくることもなかった、ごく平凡な人間だ。
魔術師としての才能も当然ないし、内蔵魔力もブータのものと比べれば無きに等しい。
だがそれもすべて注ぎ込む。
全賭けだ。
どれくらいの成功率があるかは分からない。
計算したところで仕方がないだろう。
今はただブータと聖剣の力を信じて、呪文を唱えるしかない。
そのとき、前方の戦況に変化があった。
二人に押されていたグウネズが、徐々に盛り返してきたのだ。
先ほども突如、本気を出したかのように、ヤツの動きが変わった。
あの時はなぜだか分からなかったが、今回、ようやくその理由が分かった。
街のあちこちから、ひっきりなしに黒い影が地面を這うようにしてやってきて、ヤツの足元から吸収されている。
『影』なのだろうが、この数は尋常ではない。
これまでのように後援者に倒されたから戻ってきたわけではないだろう。
『影』と本体はあくまでも同一個体。
展開していた破壊されていない『影』を戻すことで、本来の力を振るえるようになる――そういうことなのだろうか。
『影』の帰還はすぐに止まった。
おそらく街に展開していたすべてを戻し終わったのだろう。
完全体となったグウネズは、ここで初めて殺意以外の感情を見せた。
けたたましい笑い声のようなものを上げたのだ。
その力は俺の想定を遥かに超えていた。
出し惜しみの一切ないリクサとヂャギーの猛攻も、完全に凌ぐようになったのだ。
俺たちの呪文はすでに終盤に差し掛かっている。
だが、その前に前衛の二人に限界がきた。
リクサは勇者特権が切れかかっているのか唐突に動きが鈍くなり、肩で息をするようになった。
ヂャギーの《宣誓》はまだ継続しているようだが、血を流しすぎているためか、大きくふらつき始めた。
無論、そんな状態では今のグウネズを抑えてはおけない。
二人は三叉槍を腹に深々と突き刺され、ついに膝をつく。
グウネズは彼女たちにとどめを刺すことなく、後方へと大きく跳躍した。
逃げたわけではない。
ブータを指差しながら、何かの呪文の詠唱をしている。
こちらの呪文に、ただならぬ気配を感じたのだろう。
完成を妨げるつもりだ。
しかし、そのグウネズの動きを更に妨げようとする者がいた。
魔神の背後、民家の屋根の上に、夜空に輝く孔雀月を背景に立つ人影が見えた。
先ほど、投げ槍を受けて生死不明となっていたナガレである。
彼女は拳銃に素早く何かを装填すると、それをグウネズへと向けた。
「とっておきだ」
口元がそう動いたようにも見えたが、それは錯覚だったかもしれない。
銃口の前に魔法陣が現れ、そして乾いた破裂音が夜の街に響く。
まるで見えない何かに上から押しつぶされるかのように、グウネズの体が石畳と共に深く沈み込んだ。
重力を操っているのだろうか。
相変わらず、訪問者である彼女の攻撃手段の正体は分からない。
ともかく、『一回だけならグウネズの体勢を崩すくらいはできる』という作戦会議の際の発言は正しかったと証明してみせた。
ここ一番で最高の仕事をしてくれたと言える。
俺たちの詠唱は、最終節を迎えた。
普段のブータなら、ここで噛んでいたことだろう。
だが今の彼は、頭の天辺から足の爪先まで、立派な騎士のそれになっていた。
失敗するはずがない。
声を揃え、二人で叫ぶ。
「今こそ絶望に終止符を打て――《存在否定》!」
呪文は完成し、グウネズの周囲にこぶし大ほどの光の球がいくつも現れる。
それらは急激に膨張していくと、身動き一つ取れぬ魔神の体を飲み込んだ。
なけなしの魔力をすべて使い切ったせいで、俺の視界は暗転していく。
地面へと倒れ伏す寸前。
光の球の中で、グウネズの肉体が跡形もなく崩れていくのが見えた気がした。
しかしそれが現実だったのか、あるいは俺の願望が見せた幻だったのかは、定かではない。
☆
魔力切れの昏睡の中で。
夢を見た。
どこか物悲しさを感じさせるような波の音が聞こえる不思議な夢だ。
そこは南港湾都市の街の南端。
突き出た防波堤の先――現代では大灯台が建っているその場所に、左手に義手をつけた女性が一人、佇んでいた。
その姿には見覚えがある。
この街へやって来た日に見た夢にも出てきた女性だ。
初代円卓の騎士の一人、海賊女王エリザベスだろう。
彼女が憂いを帯びた瞳で見つめる先には、根城にしていたあの隠し島がある。
これは統一王の一行が、グウネズを未来へ飛ばした後の事なのだろうか。
彼女は野に咲く花で作った素朴な花束を、海へと投げた。
それは手向けだった。
島と大陸の民の心胆を寒からしめたウィズランド海賊。
数奇な運命により、率いることになった、その一団への。
自分の意志で長になったわけではない。
彼らの悪行を許したわけでもない。
だが彼女にとっては、残虐非道と呼ばれた彼らもまた、大切な仲間だったのだろう。
涙を流し、その死を悼んでいた。
背後から、彼女を呼ぶ声がする。
涙をぬぐい振り返ると、そこにはグウネズとの戦いを経て、新たに仲間となった者たちが立っていた。
魔術師マーリアや統一王、精霊姫オフィーリアと見られる人物や、リクサの祖先であるロイス・コーンウォールらしき姿もある。
海賊女王エリザベスが統一王の仲間になったのは、統一戦争の初期のことだと伝わっている。
つまり、これから彼女は長く苦しい戦いに身を投じることになるのだ。
だが魔術師マーリアは語っていた。
『統一戦争の戦いの中でも、仲間たちと共に過ごす時間は楽しいものであった』と。
それがほんの少しだけ、救いであるように俺には思えた。
エリザベスはもう一度だけ南海の方へと目を向けてから、新たな仲間たちのもとへと駆け出した。
その背中には、強い決意のようなものが滲んでいるようにも見えた。
結局、彼女は統一戦争を戦い抜き、ウィズランド王国の建国後は南港湾都市の復興にその生涯を捧げることになる。
あの女性の波乱の人生の先に、俺たちは立っているのだ。
波の音に紛れて、俺を呼ぶ声が耳に届いた気がした。
いや、気のせいではなく、確かに聞こえる。
俺を信じて、何度も何度も、呼ぶ声が。
俺も戻らなければならないだろう――あの仲間たちのもとに。