第四十七話 海精霊の頼みを聞いたのが間違いだった
南港湾都市の近海、テーチスの大渦のそばの海底で。
俺とヤルーは、水精霊と風精霊の作り出した球形の空気を身に纏い、大渦の根元と、その下で横たわる統一王の沈没船が、視界の奥に見え始めたところで足を止めていた。
渦の生み出す海流は確実にこの距離まで影響を及ぼしていたが、まだ飲み込まれるほど強くはない。
『帰りなさい。陸の者よ』
その穏やかな女性の声は直接、頭の中に響いた。
『ここは海の底。あなた方、鱗を持たぬ者が訪れるべき場所ではありません』
ヤルーと顔を見合わせる。
声の主は、沈没船の船首像に腰掛けている、海精霊のようだった。
瞳孔の開いた魚のような双眸が、俺たちを捉えている。
その容貌は、輝く虹色の鱗や、吸盤を持つ触腕の髪などを除けば、かなり人間に近い。
精霊というより、亜人のように見える。
あるいは魔族の一門である人魚の亜種か。
分厚い魔導書――優良契約を手に、油断なく海精霊を視界におさめて、ヤルーがぽつりと漏らす。
「気をつけろよ、ミレちゃん。この手の人型の上位精霊は知性も人並みにあるし、性格も人間みたいに様々だ。下手なことを言うと、海の藻屑にされるかもよ」
以前、この男が下位精霊である土精霊と契約する場面に立ち会ったことがあるが、完全に舐めきった態度だった。
だが今は、こちらにはっきり伝わるほどに緊張している。
「しっかし聞いてた話と、だいぶちげーな。普通に正気じゃねーか。半分狂ってるって噂はなんだったんだよ」
「おい待て、ヤルー。それ、聞く人が聞くと、気を悪くする内容だぞ」
恐る恐る、海精霊の様子を窺うが、特に気にした風ではない。
精霊は[精霊使い]が声をかけない限り、滅多に姿を現さないし、人間と会話をしようともしない――と、聞いていたが、どうやらこの海精霊は俺も話すことができそうだ。
横の精霊詐欺師に任せるよりかは、と声をかける。
「海精霊、君はいつからここにいる? 二百年前に、この海で起きたことについて聞きたいんだ。君の座る、その船が沈んだときのことなんだけど……」
ざわっと、海精霊の、吸盤を持つ触腕の髪が波打つ。
『それは忌まわしき記憶。思い出したくもありませんし、話したくもありません』
海精霊の口調は穏やかなままだったが、強い身の危険を感じた。
一瞬で鳥肌が立った腕をさすり、心を落ち着ける。
しかし今の言葉に反応するということは、こちらが知りたい情報を持っている証拠でもある。
そういえば、と思い出し、辺りを見渡す。
少なくとも見える範囲では、統一王のもの以外に、沈んでいる船はない。
あの伝説じみた話は本当だったのか。
「その大渦を生み出してるのは君だよな。そばを船が通りそうになると、大渦が消えるって話があるけど、本当か?」
『ええ。もし沈没してきたら邪魔になりますから、いつも通り過ぎるまで消しています』
そんな利己的な理由なのか。
人を傷つけないように気を使ってくれているのではと、予想していたのだが。
「海精霊の役割の一つは海の浄化だ。わざわざゴミを増やすようなマネはしねーよ」
ヤルーが補足を入れてくる。
ならば、と別の疑問が湧いた。
「それじゃあ何のために、ずっと渦なんて作ってるんだ?」
『それは……』
海精霊は初めて言いよどんだ。
触腕の髪をうねらせ、瞼のない黒い瞳を、海底へ向ける。
『それを話そうとすれば、忌まわしい記憶を思い出さねばなりません。ゆえに話すことはできません』
ギュルギュルと。
実際に音がしたわけではないが、海精霊の頭上の大渦が、その回転の勢いを増した。
辺りの海流の動きが活発になり、俺とヤルーの体も、身を包む空気の層ごと、ぐらぐらと揺れる。
『もういいでしょう。早く陸に戻りなさい。もし警告を無視して、それ以上近づこうとするのであれば、私はあなた方を攻撃せねばなりません』
パチン、と。
これは実際に聞こえたが、ヤルーが指を弾いた。
「お前、誰かと契約してやがるな? その船に近づくやつを攻撃するように命令されてるだろ」
海精霊は沈黙を貫く。
しかしそれは消極的な肯定のようでもあった。
「読めたぜ、ミレちゃん。統一王の船、それを守るよう命令された上位精霊、導き出される結論は一つだ」
あっ! と俺は思わず口に出していた。
そうだ。なぜ今まで思い至らなかったのだろう。
「精霊姫オフィーリアか! 初代円卓の騎士の一人……」
精霊を愛し、精霊に愛されたとされる、心優しき、伝説の[精霊使い]。
その名を俺が口にした途端、大渦の勢いが弱まった。
上を向いていた海精霊の触腕の髪が、一斉に海底の方を向く。
その表情に怒りは見えない。
代わりに諦観のようなものがある。
『……ええ、そうです。私の現契約者はオフィーリア。あなた方は彼女を知っているのですね』
「陸じゃ有名人だよ。知らないやつは一人もいない」
話の潮流に変化が見られた。
彼女の気が変わらないうちに、核心の部分に切り込む。
「君は、二百年前、この海でオフィーリアと共に、魔神将と戦ったんだな?」
『その答えはイエスでもあり、ノーでもあります。彼女に使役され戦ったのは事実です。しかしそれを、共に……と表現していいかは、疑問が残ります。私はずっとそれを考えていたのです』
謎かけのような彼女の返答に、次の言葉を見失う。
だが海精霊は促されるまでもなく、話を続けた。
『あの日、彼女は仲間達と共に、この船に乗り、海を滑るように現れた漆黒の魔神と戦いました。しかし、その不死身の肉体と、苛烈な攻撃を前に、撤退を余儀なくされました。私はその時、オフィーリアに、ここに一人残り、最後まで船を守るようにと命じられたのです』
「……完全に捨て駒にされてんじゃねーか!」
声を上げたのはヤルーだが、俺も同感だった。
海精霊も、そう感じていたのだろう。
悲痛な顔をしただけで、否定はしてこなかった。
『死力を尽くしましたが、私は魔神に破れました。それから、どれほどの時間が経過したのかは分かりません。体が再構築し、意識が戻ったときには、この海底に、この船と共にいたのです』
前にヤルーから聞いたが、精霊には死の概念がなく、どんなに破壊されても、時間が経てば元の形に復元されるのだという。
再構築というのが、それを示しているのだろう。
『オフィーリアとの契約は、なおも有効でした。しかし、いくら待てども彼女は戻ってこなかった。私のことを――あるいは、この場所を忘れてしまったのかとも思い、目印として渦も出しました。その意味がなかったことは、もう、お分かりでしょうが』
契約者へのシグナル。
それが、南港湾都市の観光スポット、テーチスの大渦の正体だったわけか。
しかし、二百年もの間、待ち続けたとは。
契約により、そうせざるを得なかったのは分かるが、ずっと渦を維持し続ける、その気力はどこから湧いてきたのだろう。
そうだ。彼女は二百年前のことを、忌まわしい記憶と呼んでいた。
「……もしかしてだけど。怒っていたのか? 自分を捨て駒にしたオフィーリアのことを」
『ええ。激怒していました。もし彼女が戻ってきたら、八つ裂きにして魚の餌にしてやろうとも思っていました』
悪びれることもなく、彼女は白状する。
オフィーリアも、それを分かっていたから、戻ってこなかったんじゃないか?
とも思ったが、口にするのは、さすがに憚られた。
今の彼女には、そんな様子は微塵もないが、再構築した直後は相当荒れていたのだろう。
半分狂っているという例の噂は、その頃にできたものなのではなかろうか。
彼女は、自身の作り出した渦を見上げ、一人ごちる。
『長い間、ここでオフィーリアを待っているうちに、怒りは薄れていきました。彼女はもう亡くなっているのでは、とも思いましたが、渦を作るのをやめることはできませんでした。ただ、彼女がどういう気持ちで最後の命令を下したのか、そして、どうすれば自分がそれから自由になれるのか……それだけを考え続けました』
海精霊は俺に目を向け、初めてあちらから問いかけてきた。
『オフィーリアは、あの後、どうなったのですか?』
「……しばらくは戦いの日々が続いたらしい。けど平和になってからは、のんびり幸せに暮らしたらしいよ。[精霊使い]管理の国営団体作ったり、精霊技術の特許を色々とったり」
それを聞いても、海精霊は何の反応も示さなかった。
いや、触腕の髪を僅かに、ゆらゆらと動かしたようにも見えたが、それがどんな感情を示しているのかは、俺には分からなかった。
話の切れ目を狙って、ヤルーが割って入ってくる。
「オフィーリアとの契約のせいで、その船に近づけねーのは、よく分かった。でも俺っちたちは、別にそれに用があるわけじゃねえんだ。お前が戦ったっていう魔神将の情報が手に入ればなんでもいい。お前がもし知ってるっていうなら、洗いざらい喋ってくれや」
相変わらず高圧的な態度だが、そこは海精霊は気にならないらしい。
首を捻って彼を見る。
『今更なぜ? もう、二百年も経ったのでしょう。あの魔神は、まだどこかで暴れているのですか?』
彼女の疑問に、俺が答える。
「オフィーリアたちが、一度は封印したんだ。でも、もうすぐそれが解かれてしまう。俺たちにはそれを倒す使命があるんだ」
手短に伝えるために、やや表現は工夫したが、大まかには間違っていない。
海精霊は俺の顔をじっと見つめ、次に腰に帯びた聖剣を指差した。
『その剣……見覚えがあります。オフィーリアに付きまとっていた男の剣ですね。あなたが、なぜそれを?』
「その男は陸で王になったんだ。この剣は、王の証として、それから代々受け継がれている」
『では、あなたは現代の王なのですね』
海精霊の頭上の渦が霧散する。
うねるようであった海流が穏やかになり、海底に静寂が訪れた。
『王よ。少しこちらへ』
彼女の招きに応じるまま、数歩分、前へと進む。
海精霊が先ほど警告した範囲の内側だが、彼女は反応しなかった。
次に届いた声は、僅かだが嬉しそうな響きがあった。
『どうやらオフィーリアとの契約では、その剣を持つ者は私の敵と判断しなくていいようです。あなたであれば、この船に入っても、攻撃せずに済みます』
頭を下げてくる。
『頼みがあります。それを果たしてくれたなら、あなた方の望む、すべてをお話しましょう』
☆
海精霊の頼みは、ごく簡単なことだった。
統一王の船の中から、オフィーリアが精霊との契約の媒介として使っていた物品を拾ってきてほしいという、ただそれだけ。
彼女自身には触れることもできず、かといって他の誰かを船に近づけるわけにもいかず、打つ手がなかったらしい。
船内は荒れ果てていたが、おおまかな位置は聞いていたので、目当てのものはすぐに見つかった。
飾り気のない、銀の櫛。
それを片手に、外へ出る。
『ありがとう、王よ。それを破壊すれば、私は自由になれるはずです』
待っていた海精霊の目の前で、俺は聖剣を使い、櫛を真っ二つに切った。
表面上の変化はない。
しかし彼女には分かったようだ。
感謝を示すように、俺の頬に口づけをしてきた。
さらに、親愛の情の表現なのか、触腕の髪で、ぺたぺたとこちらの全身に触れてくる。
「よっしゃ、オフィーリアとの契約が切れたな!」
と、ヤルーが寄って来ても、海精霊は反応しなかったので、船の防衛の命令が効力を失ったのは確かだった。
しかし完全なる自由は長くは続かない。
「そんじゃ次は俺っちと契約だな!」
信じられないことを言って、ヤルーは魔導書、優良契約を開いて、海精霊に突きつける。
俺が唖然としていると、ヤツは得意げに説明してきた。
「ミレちゃんが中で探しものしてる間に交渉してたんだよ。無期限の拘束を解いてやるのに、その対価が情報だけじゃ、つり合わねえってな」
「……勝手に交渉してんなよ。その拘束を解いたのは俺だぞ」
「海の底を歩けているのは誰のおかげかな? だいたい俺っちが強くなるのは、ミレちゃんに得こそあっても損はないだろ」
それはそうだが、せっかく自由になった精霊に、また契約を強いるというのはいかがなものか。
「安心しろって。召喚可能回数は三回だけだから。困ったときに、ちょいと助けてもらうだけさ」
それなら、まぁ……いいか。
海精霊はヤルーが差し出したペンを、その触腕のような髪で受け取ると、優良契約に署名をした。
そして、俺たち二人を見据えて、ゆっくりと語り始める。
『それでは、あの魔神について、お話しましょう』
☆
海精霊はすべてを話し終えると、いずこかへと泳ぎ去っていった。
俺たちはそれを、統一王の船の上で見送った後、海上に向かい浮上を始めた。
《水中散歩》の効果時間の終わりが近いらしい。
「しっかし、上位精霊に、死んだ後も拘束力のある契約を交わさせるとは、やっぱやべえヤツだよ。オフィーリアってのは」
浮上の途中、ヤルーが、しみじみと漏らした。
「精霊を愛し、精霊に愛された[精霊使い]――って、オフィーリアへの賛辞。前半はホントかどうかわかんねーけど、精霊に愛されるタイプだったのは確かだろうよ。精霊使いにゃ色んなタイプがいるけど、結局そういうヤツがつえーんだ」
海精霊が去り際に、俺に頼んだことを根拠に言ってるのだろう。
『その半分に切れた櫛を、いただけますか』
と、彼女は言ったのだ。
そしてそれを大事そうに胸に抱いて泳いでいった。
結局、彼女がオフィーリアのことをどう思ってたのかは、よく分からない。
もう怒ってはいないとは言ってたけれど。
遠ざかる統一王の沈没船を見下ろし、そこでの彼女の二百年間に思いを馳せた。
「ところで、だ」
先を行くヤルーが振り返る。
「俺っちたちは図らずして、南港湾都市の貴重な観光資源を一つ、消し去ってしまったわけだが、領地の税収が減るってんで、ラヴィが怒るよな」
「……このことは、俺とお前だけの秘密にしておこう」
無言のままヤツが頷く。
陽の光に溢れた海面は、もうすぐそこだった。
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【第九席 ヤルー】
忠誠度:★
親密度:★★★★[up!]
恋愛度:★★★
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