第二百十四話 諦めたのが間違いだった
………………ここは……どこだ?
一瞬とも永遠とも思えるような時間が経過した頃、俺はようやくそれだけ考えることができた。
体の感覚はどこかふわふわとしており、まるで夢の中のよう。
瞼を開けて、自分の体を見ようとする。
だが見えない。手も、足も、何もかも。
いや、そもそも俺は瞼をきちんと開けただろうか。
……まぶた?
まぶたってなんだったっけ? ……思い出せない。
意識は朦朧としており、油断するとどんどん霧散していく。
酷い睡魔に襲われているようだ。極度の疲労と安らぎがあり、このままここで何もせず、何も考えずに永遠を過ごしたくなってくる。
しかし、いずこからか警告のささやきが聞こえる。
このままではいけない。考えろ、と。
どうしてこんな状態になっているのか。
必死に思い出し、思い出し、再び一瞬とも永遠とも思えるような時間が経過した頃、ようやく思い出した。
俺は滅びの女神を未来へ飛ばすのに成功したが、一瞬の油断のせいで道連れにされてしまったのだ。
だとすると、ここは遥か未来の世界なのか。あるいはその未来に向かう途中の状態なのか。
星の寿命も尽きるほどの未来へ飛ばしたわけだから、そこに出現した瞬間に俺は死ぬだろう。星の海にいきなり放り出されるわけだから。
と、すると俺はすでに死んでいるのかもしれない。一瞬で死んだから気づかなかったのだ。
もしそうなら、ここは色んな宗教の司祭が説く、死後の世界とやらなのか。
いずれにしても、もう帰れない。
みんなのいるウィズランド島には。
――そうか。
まぁ…………いっか。
戦いには勝った。円卓の騎士の責務は果たした。世界は護れた。
俺一人の犠牲で済むのなら安いものだ。
自分を犠牲にしすぎだと、前にシエナやリクサに怒られたのを思い出す。
たしかにそれは俺の悪い癖だ。だがそんな癖ができたのも、しょうがないことだろう。これまであまりにも死にすぎたし、痛みにも慣れすぎた。俺が体を張ることでしか乗り越えられない場面もたくさんあった。今回のように。
帰る方法もない。
しょうがない。
しょうがないんだ。
そう自分に言い聞かせて、俺は眠りについた。
滅びの女神と俺がいなくなったあの島でみんなが幸せに暮らしているのを夢に見られるように祈りながら。
そしてまた長い長い時間が経った後、まどろみの中で――。
声がした。
『……に……で……』
女の声だ。
『……本当に、それでいいんですか?』
その問いに導かれるように、瞼を開ける。
今度ははっきりと自分の瞼というものを意識できた。
目の前にいたのは小柄な美しい少女。
灰色の一枚布の服を身に纏い、白と黒のまだら模様の長い髪をたなびかせている。
見覚えがある。
というよりも、ここに来る寸前まで向き合っていた女によく似ていた。見かけの歳も体の大きさもまるで違ったが。
――ひょっとして……ウィズ……か?
『はい。わたしは女神ウィズ。ようやく応えてくれましたね、ミレウス』
少女はにっこりと笑った。天真爛漫な感じだ。
先ほどの警告のささやきはこの少女のものだったようだ。
考えるべきことは山ほどあったが、ひとまず俺は周囲を見渡した。
何もない、空間すらない場所だった。近くにも遠くにも何も見えないが、そもそも遠近の概念すらないように思える。
相変わらず俺の体はない。瞼や眼球といったものを動かしてる感覚はあったが、声は出ない。
ただ思ったことは言葉になって相手に伝わっているようだ。
目の前にいる少女だけははっきりと実体を持っており、口を動かし、言葉を発していた。なんだかあたふたと両手を動かしている。
『ええと、混乱してると思いますけど、まず一つ。ここは時の狭間。一瞬であり永遠。簡単に言えば、君が先ほど考えたように、遥か未来へ向かっている途中といったところです』
――ふぅん。
『そ、それでですね。先ほど君をここに引きずり込んだのはわたしではありません。信じてもらえるか分かりませんけど』
――いや、信じるよ。……なぜかな。信じられる。信じるけど……じゃあ、いったい誰が俺を引きずり込んだんだ?
『ウィズです』
――君じゃん。
『いえ、わたしじゃない方のウィズなんですよぉ』
少女は泣きそうな顔で首を左右に振った。どことなくブータとシエナを足したような印象を受ける。
俺はどういうわけか、再び少女の言うことを信じる気分になっていた。少女がこれから話すことを多少ではあるが予期できるような、そんな気もしていた。
こちらが黙っていることに一抹の不安を覚えたのか、ウィズは勝手に話し始める。
『わたしのことは大地精霊くんから聞いてますよね? 第一文明の絶頂期にウィズランド島を創生するために生み出された大地創生の女神で、それが終末戦争の際、空民によって滅びの女神へと作り変えられたって』
――ああ、聞いた。
『それは半分合っていて、半分間違ってるんです。空民に作り変えられそうになった時、わたしは激しく抵抗しました。大地創生の女神たるわたしが破壊の行為に手を貸すわけにいかないですから。そしたら空民は邪魔になったわたしの霊体を、わたしの肉体から強引に追い出しました。そして別の従順な人格を作り出し、わたしの体に縫い付けました。それが君たちが戦った滅びの女神の正体です』
――へぇ?
『体を追い出されたわたしは神の座にたどり着き、そこですべてを見ていました。終末戦争の終わりも、それからの長い長い暗黒期も、魔術師たちが興した文明――第二文明期も、真なる魔王と魔族の第三文明期も。もちろん、始祖勇者から始まる第四文明期のことも。特にわたしの創り出したあの愛しい島――ウィズランドで起きたことは、何一つ漏らさずに見てきました』
――なるほど。色々と合点がいった。……ずっと俺たちを守護していたのは君だったんだな?
少女は目を丸くして、嬉しそうにこくこくと頷いた。
俺の脳裏にここ三年間の様々な場面がフラッシュバックする。
――今まで運が良すぎると思ってたんだ。偶然で片付けるには無理があることがいくつもあった。その辺は全部、君が後ろから助けてくれていたからなんだな?
『いやー、気を悪くしないで欲しいんですけど』
ウィズは両手の指を合わせてもじもじした後、申し訳なさそうに上目遣いで俺を見た。
『全部ということはありません。わたしは神の座では末席でしたから、できたのは本当に僅かな助力だけです』
――そうなのか?
『はい。例えば、必要そうな時に君の運を操作して階層移動の罠に落とすとかそのくらいで』
――あれ、君の仕業かよ! 偶然にしちゃ落ちすぎると思ってたんだ!
『お、怒らないで』
――怒ってないよ。どの場面でも助けになったしな、結果的に。……でも、そうか。
妙な安心感が胸の内から湧いていた。
しばし考えてみたが、その理由はたぶんシンプルだ。
――俺たちは別に、君の駒として動いてたってわけじゃないんだな?
『も、もちろんです。君たちが世界を救うことができたのは君たち自身が行動した結果であって、わたしが裏で操ってたからとかじゃありません。そもそも、そんなことわたしにはできません。肉体を失った神というのは自力じゃたいしたことはできないんですよ、本当に。おかげでずっと、もどかしかったです。……あ、でも』
ウィズは薄い胸に右手を当てて、得意げに微笑む。
『君たちがもう一人のウィズを未来送りにしてくれたおかげで、隙を突いて体を取り戻すことができました。なので今は神の座にいた頃よりもずっと大きな力を振るうことができます。……例えば、君を元の場所に帰すとかね』
――え?
思わずぽかんとしてしまった。
期待していたリアクションではなかったのか、ウィズはなんだかがっかりした顔で肩を落とす。
ややあってから、ようやく俺はウィズの言ったことを理解した。
――帰れるのか? あの時間の、ウィズランド島に?
『それは君次第です。まずは体を取り戻さないといけません。この圧縮された時間だけが存在する空間では、意志を強く持たなければ先ほどの君のようにすぐに肉体も意識も失います。さっき自己正当化していましたが、君の自己犠牲の精神や自身への過小評価が悪い方向に作用してしまっているわけですね』
――どうすればいい?
『自分の価値を、もう一度自身に問い直してください。君は自分一人の犠牲で世界を救えたのだから安いものだと考えてましたけど、世界を救えても君が犠牲になったら意味がないと考えてる人も大勢いるんですよ』
それは……そうだ。
きっとあの仲間たちはそう考えてくれているだろう。
ウィズは諭すような顔で、人差し指を立てる。
『ミレウス。君自身はどうですか? 本当に、こんな終わり方でいいんですか?』
――いいわけない。戻れるなら戻りたい。いや、戻れないとしても……戻りたい。この気持ちは諦めきれない!
心の内に残っていた希望を吐露したその瞬間、頭を覆っていていた酷い睡魔が一気に晴れていった。
眼球を動かし、自分の体を見る。
そこに体があるという感覚を信じる。
よく見慣れた俺の手が、足が、胴がそこにあった。
腰には聖剣も帯びている。鞘におさまった俺の愛剣がそこにある。
『次は耳を澄ませてください。聞きたい声を思い浮かべれば、聞こえるはずです。君が今、必要としている声が』
言われるまま、仲間たちの姿と声を思い浮かべる。
俺が女神に道連れにされた後、みんなはどうしただろう。きっと俺とは違い、簡単には諦めなかったはずだ。あらゆる手を尽くして、俺を助けようとしてくれたはず。
これは自惚れなんかじゃない。この世の何よりも確信をもって言える。共に過ごした三年の日々が、俺にそう思わせてくれていた。
ハッと気づいて、振り返る。
この空間ではどちらを向いても何もない。
だが、そちらから聞こえた気がした。俺を呼ぶ、いくつもの声が。
すぐにでもその声の方に向かいたかったが、その前に一度ウィズの方へ向き直る。
「君はどうする?」
『もう一人のウィズ――滅びの女神のウィズはこの肉体の中で眠っています。わたしはこの子と未来へ行きます。この子も空民によってそう創られてしまっただけの可哀想な子なんです。一人にはしておけません。わたしたちなら遥か未来の星の海でも生きていけると思いますしね。……ということで、ここでお別れです。大地精霊くんと不死鳥くんによろしく』
ウィズは片目をつぶって簡単に言うと、俺の両肩に手をやり、声が聞こえた方に方向転換させてきた。
そしてぐいっと背中を押してくる。
俺の体は声のする方に向かって、ゆっくりと進み始めた。
『ありがとうミレウス、もう一人のわたしを止めてくれて。ありがとう、わたしの島を護ってくれて。できたら、わたしたちのことを忘れないでください。わたしの島の王さま』
ウィズが遠く離れていく。
そちらは未来だ。星すら息絶える遥か未来。
彼女の姿はすぐに見えなくなった。
振り返る。俺が行くのは未来じゃない。
十二の声のする方へ、泳ぐようにして進んでいく。
生きたいと願うほどにそちらに近づいていく気がした。
俺は期待されればそれに応えたくなるお調子者だ。その性格のせいで王になり、世界の滅びを止めるなんていう無茶苦茶な戦いに身を投じるハメになった。
その性格は変わっていない。
俺に生きてくれと願う人がいるのなら、それに応えなくちゃならない。
視界に光が広がる。
そちらに向かって、目いっぱい手を伸ばす。
生きたい。君たちと生きたいと強く願いながら。
――たくさんの手が、俺の手を掴んだ。




