第百九十五話 地獄だと思ったのが間違いだった
腕をゆっくり十回ほど切断されるとか、大爆発に巻き込まれるだとか、即死の魔術を受けるだとか、全身をこんがり焼かれるだとか、凍死するだとか、猛毒で死ぬだとか。
これまで散々酷い目にあってきた俺だが、精霊界での修行の過酷さはその比ではなかった。
精霊たちは二、三体ずつ、かわるがわる、かつ絶え間なく俺を攻撃してきた。
焼かれ、切り裂かれ、砕かれ、凍らされ、ありとあらゆる感情を揺さぶる精神攻撃を受け続けた。
オフィーリアの話したとおり、ここにいる精霊の力は十二の月が巡る大地にいるものとは段違いで、ただの下位精霊でさえ容易に人を殺せるような威力の攻撃を仕掛けてきた。
上位精霊ともなるとその強さは絶大であり、神にも匹敵するという触れ込みどおりの力を振るってきた。
精霊界には時の経過を示すものは何一つない。
永遠とも思えるような時の中、ただの人間であれば即座に死に絶えるような攻撃の嵐を憑依させた三体の不死鳥の自動再生で耐えながら、俺は無我夢中で剣を振るって経験値を稼ぎ続けた。
『やっほー。調子はどう?』
最初、その声は幻聴だと思った。精神攻撃を受けているのか、あるいはついに俺の気がふれたのか。
だがどうやら本物らしい。周囲の精霊たちの攻撃が止んでいたからだ。
見上げると、オフィーリアが海精霊を伴って俺のそばまで下りてくるところだった。
「……何日経った?」
『ふた月。六十日くらいね。どう? 調子は』
「下位精霊ならどうにか戦えるようにはなったよ。ホント、戦えるってだけだけど」
俺は聖剣を鞘におさめ、その場にへたり込んだ。本当に、二か月ぶりの休息だった。この精霊界では睡眠も食事も必要ない。ひたすらに攻撃を受け続け、ひたすらに反撃し続けていた。
『よかったわ。まだ正気を保ってるなんて正直意外だった』
「頭がおかしくなりかけた瞬間は何百回もあったよ。けどまぁ、ギリギリのところで戻って来られた」
『これまでの滅亡級危険種たちとの戦いで、痛みや精神攻撃にかなりの耐性ができてたみたいね。……それにしたって普通は耐え切れないと思うけど。円卓が王を選ぶときに、そういう才能も加味されたってことなのかしら。うん、才能ね、才能』
「……あんま喜べる褒められ方じゃないな」
誰からも攻撃を受けないというのはこんな感じだったか――と、もはや忘れかけていたニュートラルな状態を思い出す。
俺自身、よくもまぁ今まで正気を失わずにいられたものだと驚いてはいる。
「もし俺の気がふれていたら、どうするつもりだったんだ?」
『精神系の精霊魔法の中には人を正気に戻す類の物もあるのよ。それを使おうと思ってた。ただ必ず成功するものでもないし、発狂度合いが強いと効かないから、できれば正気でいて欲しいとは思ってたけどね。……実は様子見ついでに、アンタのモチベーション維持のためにご褒美あげようと思ってたんだけど、この様子だといらなかったかしら』
「ご褒美?」
『あっちの世界の様子よ』
オフィーリアが俺の方にひとさし指を向ける。すると、目の前に円形の空間の裂け目が生じた。
そこに十二の月が巡る大地の――現在のウィズランド島の様子が映る。
季節は実りの秋。
大穀物地帯やコーンウォールなどの農作地帯をはじめ、島の各地で作物の収穫が行われている。
しかし作業は捗っていない。働き手が足りていないからだ。
場面は移る。
王都の大通りに、食料の配給にならぶ人の列ができている。食料の備蓄自体はまだまだ枯渇していないはずだ。恐らく流通の問題で配給制度を始めたのだろう。
列にならぶ人たちの中に子供や老人の姿はまったくない。大通りの往来も平時より遥かに少ない。
どうやら滅びの女神の魔の手――永続睡眠現象は子供や老人を捕えつくし、いよいよ労働世代にまで及び始めたようだ。
場面はさらに移る。
今度は円卓の騎士の面々の姿が順々に映しだされた。
リクサは南港湾都市にいた。大陸との交易船の乗組員を中心に、デモ活動が起こったため、それが暴動に発展しないように諸侯騎士団や街の治安維持隊と共に監視に当たっているのだ。
幸い、武力での鎮圧が必要になりそうな気配は今のところない。
騎士団や治安維持隊の動きは慣れたものであり、落ち着いてもいたが、それはけっして喜べることではなかった。同じような事態が何度も、それも島のあちこちで起こっている証拠だからだ。
東都では国王である俺が、広場に集まった民衆に向けてスピーチをしていた。大げさな身振り手振りを交え、この永続睡眠現象と島の隔絶は来年の春には必ず解決すると力説している。
もちろんそれは俺本人ではない。スピーチが終わり、俺がルフト家の邸宅に引っ込むと、その正体が分かった。
俺の姿がぐにゃりと歪んだかと思うと、疲れた様子のラヴィの姿に変化する。
そばにはブータとナガレがいた。どうやら演技が上手いラヴィを、ブータが《変身》の魔術で姿を変えて、ナガレがあちらの世界のアイテムで声を変化させていたらしい。
これもすでに島のあちこちでやっているのだろう。この非常事態に王が不在では混乱が加速するだけだ。先ほどのようなデモが危険な物に発展していないのには、この三人の働きが大きく寄与しているに違いない。
王都ではデスパーやヂャギーが新たに眠りについた人々を担架を使って、大通りに並んだ何台もの馬車へと運んでいた。
馬車の行き先は郊外に作った療養所だ。毎日何往復もするらしく、やはりこの作業も手馴れていた。“現象”はその対象範囲を拡大するだけでなく、対象人数も加速度的に増やしているようだ。
アザレアさんやシエナは眠りについた人々の家族への説明に追われていた。東都でラヴィがスピーチしていたような内容を繰り返し、残された者たちの不安を少しでも和らげようとしている。
レイドとスゥ、それとイスカの三人は王都の下にある旧地下水路の探索をしていた。今は厳重に入り口を封鎖されているあの地下道だ。
滅びの女神が眠るのはここの更に下だ。決戦の際には必ず通る必要がある。千年、いやそれ以上に渡って増築を繰り返され続けたこの複雑極まる地下道のマッピングに挑んでいるのは、その時のためだ。
それは非常に危険で、時間のかかる作業だった。かつて俺がラヴィと冒険した時に敵性遭遇したような異質魔神が地下道のあちこちを徘徊しているからだ。
こいつらは滅びの女神が生み出しているものだ。復活を阻もうとする者が近づかないよう、周囲に展開しているらしい。
かつて俺が出くわしたのは下位魔神だったが、レイドたちは上位魔神とも遭遇し、戦闘になった。異質魔神の数と質もまた、飛躍的に向上している。
この事実もまた、滅びの女神の復活がそう遠くないのだと示唆していた。
二か月ぶりに仲間たちの姿を見て、自然と目じりに涙が浮かんできた。もう何年も会っていないような気さえした。
『これ、読んでみなさい』
そう言ってオフィーリアが投げてよこしたのは、ごく普通の紙の束だった。
活版印刷のような均質な書体で書かれているのは、簡潔な報告。
眠りについた島民の割合、三十二パーセント。
そのうち安全な場所へ移動が完了した割合、九十六パーセント。
小規模デモの発生回数、十六回。
食料備蓄残量、八十四パーセント。
そんな感じのデータの記述が延々と続く。
『精霊界にいる大地精霊につけさせてたウィズランド島の記録よ。知識の蓄積が仕事だってヤルーから聞いたでしょ』
「そういやそんなこと言ってたな、アイツ。……しかし向こうは、いよいよ本格的にって感じだな」
『そうね。これからしばらくが混乱のピークだと思う』
俺にできることは何もない。
いや、強いて言うならここでの修行を頑張ることだけだろう。ここでほんの少しでも強くなれば、滅びの女神を討伐できる可能性は上がる。
モチベーションがどうのとオフィーリアは言ったが、確かにいいご褒美だった。
「そういえばすっかり忘れてたけど」
足元の方を見やり、そちらにある亀裂の一つを探す。
「ヤルーの奴はまだ生きてるか?」
『どうにかね。あっちもあっちで苦戦してるみたいだけど、全然成長はしてないわね』
正直俺も成長できた実感はまったくない。
「今までで、どれくらいの経験値が入ったんだろう」
『さぁ。でもまだ一体も倒せてないんでしょ? ならそんなでもないんじゃない?』
「……本当に意味あるのか、この修業」
『うーん、どうだろ。精霊を倒せるようになれば違うと思うけど。ま、円卓の未来予知を信じなさい』
オフィーリアは気楽に言うと手をひらひらと振って、海精霊と共に上の方に飛んでいく。
『じゃ、またしばらくしたら様子見に来るから。頑張ってねー』
再び俺を攻撃するために、精霊たちが動き出す。
立ち上がり、聖剣を鞘から抜きながら、罪人が死ぬと行くことになるという地獄という場所は、まさにここみたいなところなんだろうなと、ふと思った。