第百八十三話 ××××しないと出られないと思ったのは間違いだった
お笑い番組はすぐに別の話題に移った。もはやそれを流している意味はない。
ナガレがローテーブルの上のリモコンを手に取り、テレビを消した。それから俺の方を見ないようにしながら、独り言のように呟く。
「い、言われてみると納得ではあるよな。……避妊具も用意されてたし、この部屋で二人でできることだし……二人いないとできないことでもあるしな」
彼女の声は気の毒になるくらい震えていた。
確かに納得ではある。文字数も合っている。なぜ思いつかなかったのだろう。
「ふぅー、なるほど。なるほどな……」
ナガレはまた何やら呟いて立ち上がると、部屋の中をぐるぐると歩き始めた。漫画的表現をするならば、その両目もぐるぐるしているように俺には見えた。
「シャナクのやつはマジでオレたちのことを見てねえ。オレたちの存在を完全に忘れてる可能性もあるし、そもそもアイツの時間感覚がぶっ壊れる可能性もある。二百年以上生きてんだもんな。何年も経ってから、そろそろ終わったか? なんつって覗いてくるかもしれねぇ。だから滅びの女神が復活する前に確実にこの部屋から出るためには、条件を達成するしかねえ。つってもさすがにこの条件を直接達成するのは無理だから、どうにか誤魔化してヤったってことにするしかねえな。オメーはオレとなんかしたくねえだろうし」
「俺はしたいよ?」
ピタリと。
ナガレが足を止めた。愕然とした顔でこちらを振り返る。
「……マジかよ」
そのまましばらく固まった。
テレビも消してしまったので、部屋の中は本当に静かだ。
夜の静寂の中、ナガレの表情は百面相のように変化した。
顔をほころばせたかと思えば軽蔑したように俺を見下ろし、最後は腕組みをして目をつむり、うんうんと唸り始めた。
「さすがに……いや、でも仕方ねーし……」
ずいぶん苦悩しているようだ。
どんな答えが出たかは知らないが、ナガレは瞼を開くと出前のリストを手に取った。そして注文したのはこれまで一度も頼むことのなかったアルコール類。
ドアの前に麦酒が詰まった缶がいくつか現れる。
ナガレはキンキンに冷えているらしいそれを一本手に取り、やけくそ気味に呷った。一息で飲み切り空き缶を放り捨てると、またもう一缶飲み干してそれも捨てる。それからティーシャツに手をかけ、迷うことなく脱ぎ捨てた。露わになったのは、サラシとかいう白い布で覆われた豊かな胸部。
明後日の方を向いたまま、アルコールと羞恥心で血行がよくなった顔でナガレが吠える。
「よっしゃ、やるか!」
「お、おう。……やるかって言い方はどうかと思うけどな」
けっして酒に弱い方ではなかったはずだが、さすがにあの量を一気には無理があったのだろう。ナガレはおぼつかない足取りで、ベッドに腰かけた俺のところまでやってきた。
「寝ろ!」
「お、おう……」
命じられるまま、ベッドの上に仰向けになる。
俺の腰のあたりに、ナガレが馬乗りになった。
「よ、よし、オレが全部するからな。お前は動くなよ? 絶対に動くなよ?」
と、ナガレは威勢よく言ったが、相変わらずぐるぐるした目で荒い呼吸を繰り返すだけで、何も行動を起こさない。
無理もない。この女は攻めるのが得意な方ではない。というか間違いなく苦手だ。ここまでの行動を取れたのは、徹夜の疲れやら漫画完成の達成感やらアルコールやらこの理不尽な状況への怒りやらが混ぜこぜになって頭がおかしくなっているからに過ぎない。ここから先は彼女主導では何もできまい。
俺は嘆息し、部屋の中を見回した。この部屋からは、彼女がこちらの世界に来る前にどんな人物だったのかが窺える。
ナガレは俺が王となった日に出会った円卓の騎士の一人だ。なのにいまだに、どこか捉え切れていない感覚が残っていた。その感覚の正体を俺はずっと探していた――。
「ようやく分かったよ、ナガレのことが」
「は?」
ナガレはいぶかしむように首をかしげた。
俺は上半身を起こし、彼女と至近距離で向き合う。
「ナガレ。お前、ここに入れられた時、オレの世界の方の部屋だって言ったよな。それからもずっと、月が一つしかない世界の方を、こっちの世界だって言い続けた」
「そ、それがなんだってんだよ」
「そっちの世界への未練は漫画だけじゃないって言ってんだ。今もナガレにとってはそっちが自分の世界で、俺の世界――十二の月が巡る大地は腰掛けの世界だと認識してるって言ってるんだ」
「んなわけ!」
あるわけない。
そう言い切る前に、ナガレは口をつぐんだ。
別にナガレも自覚していたわけではないだろう。その腰掛けの世界の住人のために、命をかけた戦いにまで身を投じているのだから。
だがこう問い詰められてはっきり否定できないあたり、やはり心の奥底ではそういう意識があったようだ。自分はあくまで一時的な訪問者で、いつかは元いた世界に帰る存在であるという意識が。
そう確信すると、なんだか無性に腹が立ってきた。俺も頭がおかしくなっているのかもしれない。アルコールを除けば状況は彼女とまったく同じだ。
「ナガレ、こっちの世界に転移してきたとき、ゲームの世界に入ったと思ったって言ってたよな。その感覚がまだ抜けてないんじゃないか? 俺やみんなのこともゲームの登場人物だとでも思ってるんじゃないか?」
「そ、そんなわけねえだろ!」
「……それは否定できるんだな。俺も、ナガレたちをゲームの攻略対象みたいに思ったことは一度もないけど」
「はぁ?」
ナガレは今度こそ意味がまったく分からなかったようだ。怪訝そうに眉をひそめた。
俺はここ二年、仲間の好感度上げをしてきたが、とてもじゃないがゲームのようだなんて思えなかった。
人の好感度を上げるというのは、あの乙女ゲーのような簡単な作業じゃない。どいつもこいつも一癖も二癖もあるし、計算通りには動いてくれない。一見、チョロそうな奴らもだ。
毎回面倒な要求をしてくるし、手ごたえを感じても好感度が上がらないこともあるし、逆に思わぬところで好感度が上がることもある。同じ行動を取ってもリアクションは毎回違う。
相手は同じ人間なのだから当たり前だ。人間はそれだけ複雑だ。簡単にすべてを理解できるはずがない。
不意を突き、俺はナガレをベッドの上に押し倒した。
ちょうど先ほどと逆に彼女の腰の上に乗り、両手の手首を掴んで押さえつける。
「帰るなよ、ナガレ! もしそっちの世界に帰れたとしても帰るな! 俺にはお前が必要だ!」
ナガレはほんの一瞬俺の手を振りほどこうともがいたが、すぐに諦めて顔を背けた。
これはゲームじゃないし、ナガレはゲームの登場人物でもない。
だがナガレの“好み”はさすがにもう把握していた。
この女性はこう見えて、こんな感じにぐいぐいと強引に迫られるのが好きなのだ。
これまでの彼女の好感度変化を見ればそれは明らかだった。無断で部屋に押し掛けるなんていう非常識な行動を取っても好感度は下がらなかったし、東都の喫茶店で恥ずかしいドリンク――ハート型のストローがついてるようなやつを一緒に飲もうと迫った時は嫌そうな顔をしてたくせに逆に上がった。
実際、今も押し倒されているというのにナガレはまんざらでもないように、頬を赤く染めている。ちょうど俺がそうすべきだと指摘した漫画の主人公の表情のように。
ちらりとこちらに目を向けて、ナガレが震える声を絞り出す。
「オレが必要って、戦力としてだろ?」
「違う。好きだからだ」
ナガレが目を見開いて、呼吸を止めた。
彼女の右耳に手を伸ばし、そこについた銀の耳飾りに触れる。海賊女王エリザベスの根城を二人で冒険したときに見つけたもの――ではなく、魔神将グウネズ戦で壊れてしまったそれの代わりに、俺が南港湾都市の開港祭で買ってやったやつだ。
思えばこの女性とも色々な冒険をしてきたものだ。めんどくさいところはあるけども、それもいい刺激になる。この女性がいない生活なんてもう考えられない。
「ナガレ、お前が好きだ。俺が王を辞めても、お前が円卓の騎士を辞めても、ずっと俺のそばにいてくれ」
「……お前も、だろ。いつも他の女ばっか見やがって」
拗ねたようにナガレは再び俺から視線を逸らした。
二年間、修羅場をくぐり続けてきたのだ。もうこの程度で動じるほど俺のメンタルは弱くない。
「否定はしない。俺はリクサが好きだし、シエナが好きだ。ラヴィもイスカもスゥもアザレアさんも大好きだ」
「開き直りかよ!」
「悪いか? 俺は王様だぞ。好きになった奴のことは全員諦める気はない。もちろんナガレのこともな」
軽蔑したように口元を歪めるナガレ。さっきの百面相の中でも見た表情だ。俺と他の女性陣との仲を考えているときに出る顔なのだろう。
悪いかと言いはしたものの、やっぱり普通の倫理観からすれば俺は悪い。そんなことは分かってる。
しかし聖剣の力の解放条件のためでもあるし――いや、そんな言い訳をする必要もないか。悪かろうがなんだろうが、諦めるつもりは毛ほどもないのだから。
「他の奴のこと見てるのはナガレの方だろ。今この部屋にいるのは俺とお前だけだ。今、俺はお前のことしか見てない。他の女の話はすんな。俺を見ろ。俺だけを。ここにいる俺だけを」
彼女の右の頬に触れる。
ナガレが濡れた瞳をこちらに向ける。
最後の口説き文句は自然と口を突いて出た。
「お前が生きてる世界は一つの月の世界じゃない。俺と同じ世界だ! 俺は言ったぞ! ナガレもはっきり言えよ! お前は俺のこと、どう思ってんだ!」
意識したわけじゃないが二人で完成させた漫画のクライマックスと重なった。
男が告白し、主人公に返答を迫るシーン。
あの漫画の主人公のように、ナガレの表情は揺れた。
息が詰まるような、僅かな静寂。
そののち、ナガレはか細い声で囁いた。
恋する少女の表情で。
「す……好き」
ナガレが瞼を閉じた。
にわかに胸が熱くなるのを感じる。
この女性の態度からその好意はバレバレだったし、何より俺には聖剣の好感度表示もあった。
しかし半ば強引に引き出した彼女の本音の言葉は、俺の理性をぶっ壊すのに十分すぎる破壊力だった。
他のことは何もかも忘れ、唇を重ねる。
そのままナガレの体を抱いて優しく髪を撫でると、彼女も俺の背中に手を回してきた。
体を離し、しばし見つめあう。ナガレはにへらと笑っていた。こんな柔らかい表情もできる人だったのか。
そんな甘い空気がどれくらい続いただろうか。
ナガレはふいに元の不良のような顔に戻り、軽蔑の眼差しを俺に向けた。
「ミレウス、てめぇキス慣れすぎだろ。今まで何人としてきた?」
「他のやつのことは、今は忘れろって」
「そういや前にイスカとしてたな? あとスゥとも。さては他の奴らともしたな?」
「さて、何のことやら」
「不潔だ!」
「今からするってのに、口からアルコールの匂いさせてる女に言われたくない」
「うるせー!」
「ぐえ」
ナガレのボディブローが刺さり、俺は体をくの字に曲げた。さすがにこの至近距離ではかわしようがない。
一発ぶちこんで気が済んだのか、ナガレは豊満な胸を覆うサラシに手をかけ、頬を赤く染めた。
「あ、あんな、意外かもしんねーけど、オレ、は、はははは初めてだから、や、優しくしろよな」
「いや、思ってたとおりだけど。全然意外じゃないけど。逆に聞くけど非処女だと思われてると思ってたのか? 本気で?」
「うるせー!」
「ぐえ」
再び腹に刺さるナガレの拳。さすがに今のは茶化すべきではなかった。
「ご、ごめん。まぁできるだけ優しくはするよ。こっちも初めてだし上手くできるか分からないけど」
「……はぁ!? お前も初めてなの!? マジで!?」
「マジで」
「そ、そうか。ミレウス、お前もか。……そーかそーか、他の奴らとはまだか。いや、なんかわりー気がするけど仕方ないよな、こんな状況なんだから」
「顔がにやけてるぞ」
「うるせー!」
三度、俺の腹にナガレの拳が刺さる。来るかなと思って腹筋に力を込めていたので今回は無様な声を出さずに済んだ。
気が抜けたようにナガレがため息をつく。
「ったく。最初に会った時はお前がこんなやつだなんて思わなかったぜ。軟弱っぽかったし、流されまくりだったし……」
「好みの真逆に見えた?」
「ああ。いや、違うぞ? 別に今は好みだとかじゃねーからな?」
「ハハハ。まー、その辺はどうでもいいや」
出会った頃、この女性に決闘を申し込まれたのを思い出す。『なんだか気に入らないので勝負しろ、オレに勝ったら王として認めてやる』。この女が渡してきた果たし状には、たしかそんなことが書いてあった。あれは要するに好みの真逆だったからムカついていただけなのか。
「そういやナガレ。二年前のあの決闘騒ぎの後、俺が言ったこと覚えてるか?」
「あ? 後って、いつだよ」
「ほら、ナガレが王都の近くの丘に逃げたのを俺が追いかけたとき」
「あー、そんなこともあったな。なに言ってたっけ?」
「『王として認めてくれなくていいから協力してくれ』って言ったんだよ」
「ああ……」
覚えがあるようで、ナガレはこくこくと頷いた。
あれはその場しのぎのつもりで発言したものだ。しかしそれが影響したのかこの女性の忠誠度はいまだにゼロのままである。
訂正するなら、この場以外にありえまい。
「アレね、やっぱなし。俺のこと、ちゃんと自分が仕える王だって認めてくれ」
「はぁ? なんでいまさら?」
「なんでもいいだろ。認めろ、ナガレ」
「わ、分かった。……分かったよ」
この女、やはり押しに弱い。
俺はなんだか嬉しくなって、ナガレの頬に軽く口づけをした。
ナガレはくすぐったそうに目を細めたが、暴れないし逃げたりもしない。ごく普通の少女のように、今は本当に素直だった。
「それじゃ、しよっか。えーと、このまま俺が上でいい?」
「ま、任せる。ていうかそういうのはわざわざ聞くなよ。恥ずかしいだろ」
「ああ、ごめん。いや、謝るのもよくないな。よし、全部俺に任せろ。ふっふっふ」
ガチャリ。
「あ、ミレウス。電気だけ消してくれ」
「おお、了解。そうだ、避妊具は……って」
二人、顔をしばし見合わせてから、この部屋の唯一の出口だというドアを見る。
見かけに変化はない。しかし幻聴ではない。
「いま、開かなかったか?」
声が揃った。
俺はナガレの上から、退いた。
ナガレはベッドから降りると、ティーシャツを床から拾って手早く着た。それからローテーブルの上に置いてあった原稿を手に取り、ドアの前まで歩いていってドアノブを回して押す。
ドアは開いた。あっけなく。