第百八十二話 漫画を完成させたのが間違いだった
俺の作業はずっとあったわけではない。ナガレのペン入れの調子が悪い時は手が空いたので、テレビゲームをやったり漫画を読んだり、ベッドで寝そべって休んだりした。
食事と風呂と睡眠時間を除けばナガレはひたすら描いていた。その表情は真剣そのもので、俺が横で踊りだしてもしばらくは気づかないんじゃないかと思うくらい集中していた。
少女漫画と漫画づくりが本当に好きなのだろう。そんなに打ち込める物があるというのは、流されてばかりの俺からすると少し羨ましくもあった。
これが彼女の未練だというのには納得できた。これを断ち切れば彼女が訪問者として一皮むけるという話にも。たぶんあちらの世界に残してきた想いがあるから、今のナガレは完全な訪問者ではないとかそんな理屈なのではないだろうか。
ベッドの上で横になって彼女の横顔を見ながらそんなことを考えていると、ケースに入った大型の本が一冊、机の横に隠すように立てかけられていることに気がついた。
ナガレの邪魔にならないように気配を消して、それを手に取る。どうやら小学校の卒業アルバムらしい。あちらの世界にも似たような文化があるとは驚きだったが、あるいはこれもあちらの世界が発祥で訪問者によってこちらに持ち込まれた文化なのかもしれない。
ケースから本を取り出し、中を見る。やはり構造もこちらの世界のものとほぼ同じだった。
前の方のページにはクラスごとに生徒一人一人を写した擬似投影紙が整然と並んでいる。後ろの方のページには学校行事や部活動の際に撮影した擬似投影紙が載っている。
俺は当然のごとくナガレを探した。しかし意外なほどに時間を要した。これがそうだと確信を得るまでにアルバムの最初から最後までを三回見なければならなかったほどだ。
「なぁ、これがナガレだよな?」
「あん? ……あ! テメェ、なに勝手に見てんだよ!」
椅子を立ったナガレはアルバムをふんだくろうと手を伸ばしてきた。
俺はベッドから飛び降りて、それを軽々とかわす。
彼女の怒りの表情とアルバム内に見つけた一人の少女の顔を見比べる。六年三組のページだ。彼女と造形の一致する顔の少女が、ぎこちなく微笑んでいる。
成瀬流々。
その擬似投影紙の下には、そう名前が書いてあった。
「ひょっとしてナガレって偽名だったの?」
「いや、偽名っつーか……エムエムオーアールピージーするときに使ってたキャラネームだよ」
ナガレはもう諦めたらしく、脱力しきった様子で椅子に腰を下ろした。
「ほら、乙女ゲーやったとき、主人公の名前決められただろ? ああいう時に使うんだよ」
「なんでゲームで別名使うのさ。本名でやればいいじゃん」
「そういうわけにもいかねーんだよ。なんつーかな、赤の他人と一緒にプレイするゲームもあんだよ」
「よく分からん」
「……あっちに転移した当初はなんかのゲーム世界に入り込んだのかもと思ったからな。本名で動くのに抵抗があったんだよ」
結局よく分からんが、“ナガレ”というのが本名でないことは理解できた。
再びアルバムに目を落とす。
流々という少女は十一歳か十二歳だろう。今と同じように艶のある美しい黒髪だが、今よりはずっと短い。肩に触れるか触れないかくらいだ。彼女のトレードマークである猛禽のような鋭い目つきも、心なしか今より緩いように思える。
クラスのページ以外にも少女は写っていたが、そのどれもが同じような表情だ。つまりは弱気――というより内気に見える微笑。
美術クラブに所属していたらしい。漫研のようなもののない小学校だからだろうか。
「今とはまるで別人だな。うーむ可愛い」
「ちっ、悪かったな。今は可愛くなくてよ」
喜んでいるとも怒っているとも取れない複雑な表情でナガレは吐き捨て、今度こそ俺からアルバムをぶんどった。
それからその複雑そうな顔のまま、過去の自分をまじまじと見る。
「やっぱテメーもこういう方が好きなんだろ。シエナとかスゥとか、あんな感じの可愛い系がよ。じゃなきゃリクサみたいな正統派の美人か、ラヴィやアザレアみたいな愛想のいいのか」
ふてくされている。
面倒な女だ。そんなところも嫌いじゃないけど。
「俺は今のナガレの容姿も好きだぞ。そのロリナガレもいいけどな」
「う、うるせえ! 恥ずかしいこと真顔で言うんじゃねえよ!」
茹で蛸のように顔を真っ赤にして蹴りを見舞ってくるナガレ。
俺はそれも難なく避けた。
「避けんじゃねえよ!」
「くくく、最近はスゥに鍛えられてるからな。もはや肉弾戦で負ける気はしない」
「クソ、木刀が出せりゃあよ」
ナガレは武器になりそうなものを探してこの部屋を見渡したが、該当しそうなのはスクリーントーンを切るためのデザインナイフくらいだ。さすがにそれを手に取って投げてきたりはしなかった。
「そういや、ナガレ。この家って誰と住んでたの? 確か妹さんがいるんだったよな」
「あー、妹と叔母さんと三人でだよ。両親が早くに亡くなったからな。それからは叔母さんとこで面倒みてもらってたの」
ナガレは部屋を出るためのドアと床を順に指さす。
「廊下挟んで向こうが妹の部屋で、一階に居間とキッチンと叔母さんの部屋があって……まぁこの空間じゃ同じようにはなってねーんだろうけどな。二人とも元気してっかな」
そう話すナガレはどこか遠くを見るような目をしていた。地の底のことを話した時のレイドのような、二百年前のことを話した時のスゥのような目だ。
「帰りたい? あっちの世界の、あっちの家に」
「ん? ……考えたことねーな。転移した直後は生き抜くのに精いっぱいだったし、それからも帰れるだなんて思ったことねーしな」
「今は?」
「妹には会いたいし、叔母さんにも無事でいるって伝えてーとは思う。たぶんオレ、原因不明の行方不明者ってことになってるだろうからな」
ナガレの返事は答えになっていなかった。
少なくとも一度は戻りたいというのは分かったが、その後はどうしたいのか。
「そういやオレの国――ニホンじゃ失踪してから七年経つと死亡扱いにできるんだった。ひょっとして葬式とかやったのかな。まさかな」
窓の向こうの景色に目をやりながら、ナガレが呟く。
その憂いを帯びた表情を見ていると、今の問いにはっきりした答えをくれとはどうしても言い出せなかった。
そんなこんながありつつ迎えた漫画の完成予定日――つまりはこの部屋に入ってからちょうど三週間となる日の深夜。
俺とナガレは揃って腹から声を出して、両手を天に突き上げた。
「できたー!」
近所迷惑などまったく考えない声量だったが、この空間ではそんなこと気にする必要はない。いや、仮に普通の空間でも同じように叫んだだろう。最後の二日は完全に徹夜だった。溜まった疲労と眠気で完全にハイになっていた。栄養ドリンクとかいうのを多量に飲んでいたのも原因だろう。
ナガレは完成した原稿を興奮で震える手で持つと、俺の方に差し出してきた。
「じゃ、じゃあまずは編集のオーケーをもらわないとな」
「ずっと一緒に作業してたから、完璧に内容分かってるけどね」
とは言ってもペン入れが完了した原稿を一から読むのは初めてである。俺は一コマずつ時間をかけて読んでいった。
一コマ一コマ、線の一つ一つからナガレが費やした時間と労力が感じ取れる。俺が手伝った箇所を見ると、そのときの記憶が蘇る。
漫画をこんな真剣に読んだのは生まれて初めてだった。何とも言えない感慨が湧いてくる。
「ど、どうだ?」
じれったそうなナガレに急かされるも、もう一度最初からゆっくりと読んだ。
だが一回目で俺は確信を抱いていた。自然と口がほころんでしまう。
「うん、面白いよコレ! 受賞狙えるって!」
「そ、そうか!?」
原稿を返されたナガレは自分でも最初から読み始めた。
その表情には確かな手ごたえが感じられる。
「できた! できた! 終わった!」
涙目のナガレが両手を広げたので、俺は迷うことなく飛びついた。
二人で硬く抱擁しあう。達成感と充実感で、恥ずかしさは互いに微塵も抱いていなかった。
「はぁーやったな、ナガレ」
「ああ、やった。やり遂げた。……本当に嬉しい。こんなに嬉しいことって他にないよ……」
体を離してからも、しばし二人で同じ感情を共有して幸福感に浸った。ナガレは涙目になっていた。
それがどれくらい続いただろうか。
俺たちは顔を見合わせ、二人揃って冷静になった。
「オレたちなんで漫画描いてたんだっけ」
ナガレがドアへと向かう。
ドアノブを握る。ドアノブを回す。
ドアは開かなかった。
☆
「クッソ! おい、シャナク! 本当は聞いてんだろ! わかんねーよ! ギブアップすっからこっから出せ!」
叫びながら、ナガレが何度もの何度もドアを蹴りつける。しかしそれが物理的に壊せる類のものでないことは初日に確認済みだ。
この部屋に俺たちを閉じ込めたあの男からの返事も当然ない。
これまでの疲れがどっと出たのだろう。ナガレはその場にへたりこんで、うなだれた。
俺もベッドの上に腰を下ろした。
天井に張られた横断幕をなんとはなしに見上げる。
××××しないと出れない部屋。
“未練断ち”――漫画制作がその答えではないかとナガレが言ったとき、ありえそうだと俺は答えたが、正直確信していたわけではない。しかし約三週間、彼女と共同作業をするうちに、これに違いないという気持ちになっていた。
あるいはそれは費やした時間と労力がまったくの無駄であったと思いたくない心理からきたものだったのかもしれない。いずれにしても、ナガレもこれ以外に正解はないと確信していたはずだ。
俺たちは黙り込んだ。もう打つ手がない。
つけっぱなしになっていたテレビから流れる陽気な音声だけが、訪問者の部屋の中に響く。
『ギャハハ! マツヤマさん、マジですか!?』
『いや、ホントですってハマタさん』
その声につられて、俺とナガレはテレビの画面に目を向けた。
その時流れていたのは多数の芸人が登場するお笑い番組だった。子供が起きてる時間帯にはできないような下品なネタやトークなども繰り広げられる番組である。
今は大喜利をやっているようだった。大御所と見られる二人が司会をしており、若手芸人が回答者として並んでいる。
『それでは第二問! 現在エスエヌエス上で流行っている××××しないと出られない部屋。××××の中に入る単語はなんでしょーか!』
息を呑んだ。ナガレも同じように息を呑んだのが、音で分かった。
テレビ画面の中では若手芸人たちがあれやこれやと絶対に正解ではないと分かるバカみたいな答えを板に書いて回答している。
俺たちは笑えなかった。
『もー、ホントしょうもないな、君らは』
『正解は! セッ○スしないと出られない部屋、でしたぁ!』
「これか!?」
俺とナガレは声を揃えた。
そして顔を見合わせた後、それの意味するところを理解し、完全に固まった。