第百八十話 未練断ちだと思ったのが間違いだった
その日の夜――夢を見た。
どこまでも広がる緑の草原で、一人の男が目覚めた。
男は困惑した。それまで親方の工房で働いていたはずだからだ。
空を見上げる。陽はすでに地平に沈み、星が出ている。
しかし見慣れた星空とは様相が異なる。知っている星座が一つもない。いつも空を巡っている十二の月の姿もない。
代わりに見えるのはたった一つの青白い月だけ。
そこが自分の暮らしていた世界ではないと気づくまで、そう時間はかからなかった。
その地は島国で、一つの家系で王位が継承される君主制国家だった。
使用されている言語は彼の母語と違ったが、ある程度の意志疎通はすぐにできるようになった。
男は地頭がよく、愛想もよかった。また幸いなことに手に職をつけていた。
そのためすぐに仕事にありつけたし、半年ほどで十分な旅費を貯められた。
旅費――そう、男は旅に出た。当時の最新鋭であった大型帆船に乗り、遥か西を目指した。
そうした理由は男自身にも分からない。ただその島国は自分の求めていた地ではないと本能が告げていた。
太洋を越える一月半にも及ぶ航海の末、男がたどり着いたのは独立して間もないという新大陸と呼ばれる地だった。
その国の開放的な空気は男に大いにインスピレーションを与えてくれたが、やはりここも彼の求める地ではなかった。
新大陸のさらに西へ探検航海を行うという遠征隊に持ち前の愛想で紛れ込んだ男は、二年を超える長い冒険の末、西の大陸へとたどり着いた。
その地の異国情緒な空気もまた男を大いに刺激した。だが、この地も違う。
翌年の春、男の乗る船はその大陸の東に存在するという島国に向けて出港した。その島国は長く鎖国体制を続けていたが、それは裏返せば貿易のライバルがほぼいないということでもある。独自の密貿易ルートを確保できれば大きいと遠征隊は考えたのだ。
二月ほどの航海ののち、船はその島国にたどり着いた。
しかし最初に訪れた地での交渉は失敗に終わった。その理由は分からない。男は船に居残っていたので、交渉の現場を見られなかったのだ。
遠征隊は簡単には諦めなかった。長い航海をしてきたのだから当然である。
船はその国の別の地で交渉するため再び出港し――そしてその日の夜、嵐に遭った。
本当に大きな嵐だった。男が旅に出てから遭遇してきたどの嵐よりも激しい波と風だった。
男は船の甲板で仲間の船乗りたちと力を合わせて懸命に操船作業をしたが、船はただ海に弄ばれるだけだった。
ひときわ大きな波が、船を撫でた。
荒れ狂う海に男は飲み込まれた。
気が付いた時、男は見知らぬ船の船底にいた。粗末な寝台の上に寝かされ、麻を編んだ物を毛布代わりに被せられていた。
また別の異世界にでも飛んだのかと一瞬だけ考えた。たが船底の様子をうかがうに、それはなさそうだった。どうやら通りがかったその島国の船に運よく救助されたらしい。
命はつないだものの、体の損耗は甚大だった。
寝台から起き上がれずにいると、反りのある剣を腰に帯びた男が、横から顔を覗き込んできた。
具合はどうかと聞いてくる。
それを耳にした時、男はこの世界に来てしまった時以上に驚いた。彼の母語――故郷の世界の言葉だったのだ。
返事をすると剣士もまた驚いた。まさか異人がこんな流暢に自国の言葉を喋るとは思っていなかったのだろう。
母語はその剣士だけでなく、船に乗る者すべてに通じた。その島国で使われている言語と男の故郷の言語は多少の差異こそあれど、明らかに共通の物だったのだ。
異人を助けることは、鎖国中のその国では重罪だった。
それでもなお船が男を助けたのは、最初に声をかけてきた剣士がそうするように強く主張したからだという。その国の身分制度では戦闘を生業とする者は高い社会的地位を持っていたため、船員たちはその意見を無視できなかったのだ。
船は北東に向けてしばらく航海し、剣士の故郷に近いというある港で二人を下ろした。
剣士は男を己の館に招いた。
男はその館でボロボロになった体を癒す傍ら、剣士の家の家伝の剣術を学んだ。
もちろん異人を匿うことも重罪である。しかし剣士は男を大層気に入ったらしく、衣食住すべての面倒を見た。
この地こそ自分が求めていた場所だと男は当初考えた。
だが暮らしている内に、ここも理想とは僅かに違うという想いが胸に芽生え、それは日増しに強くなっていった。
数か月後、そんな男の心情を見透かした剣士は、国の都への移住を勧めた。
無論それは危険極まりない行為だった。だが男は迷うことなく飛びついた。
剣士とその妻子に別れを告げ、徒歩にて一人、南へ向かう。
街道を歩く際は剣士が用意してくれた衣服を身に着け、僧に化けた。顔をすっぽり隠せる笠もかぶったので男が異人であると気づくものはいなかった。
問題は街道の要所要所に設けられた関所だった。正式な手形を持たぬ男は、そこを避けて通るために険しい山道を選んだ。
その旅はこの国に至るまでの船旅にも劣らぬ過酷な道程だった。時には賊に囲まれ、時には獣に襲われ、時には役人に追われた。
しかし男は諦めなかった。
通常の倍以上の日数がかかったが、ついに男は都までたどり着いた。
僧衣のまま男は都を歩いた。そこはこの世界で見てきたどの都市よりも大規模で洗練されており、繁栄を極めていた。いや、男の故郷の世界でもこんな素晴らしい都市は見たことがなかった。
男はすぐにその都市を気に入った。
都の東には洲があり、そこに築かれた街で剣士の友人が男を迎えた。
その剣士の友人は舞台役者で、剣士と同じかそれ以上に男によくしてくれた。剣士と同じかそれ以上に、男のことを気に入ったからだ。都でも男は衣食住に困ることはなかった。
舞台役者の伝手で仕事も得た。男が身に着けていた技術を生かす仕事だ。
それからのおよそ半年は、この世界に来てから最も充実した日々だった。
顔と肌を隠し、演劇を見た。巨漢たちが舞台でぶつかり合う格闘技を見た。
祭りを見て、花火を見た。
仕事は好評とは言えなかったが、自分の表現はできた。
喧嘩と火事を見た。まるで華のように刹那に生きる人々を見た。
粋という美意識を知った。
ああ、まさにここだ。ここに来るために自分は世界を渡ったのだと男は確信した。
男は本懐を成就した。
しかし同時に予感もしていた。
この街での――いや、この世界での生活が、もう長くは続かないことを。
世界に危機が迫っていた。
二百年ぶりの世界蝕の時が、すぐそこまで来ていたのだ。
この地に未練はある。
だが戦いと別れを選ぶのに、躊躇いはなかった。
☆
目覚めると俺は見知らぬ天井を見上げていた。
一枚の毛布に包まって床で直接寝ていたが、それほど体は痛くない。タタミとかいうのが敷き詰められているためだ。
上半身を起こし、寝ぼけ眼をこする。自分が今どこにいるのか思い出すのに、多少の時間を要した。
ここは……そうだ、ナガレの部屋だ。あちらの世界にいた頃に彼女が住んでた家の、彼女の部屋。
背中を誰かに軽く蹴られる。誰かと言っても一人しかいないが。
「なーに寝ぼけてやがんだ」
「……おはよ、ナガレ」
「おう、おはよ」
ナガレはもう起きていて、薄手のティーシャツに七分丈のレギンスを履いていた。湯気の立つマグカップを片手に持っている。出前で出したのだろう。リモコンでテレビをつけながら、メニュー表を俺の方に放り投げてくる。
「朝飯どうする?」
「エッグトーストのセット。アイスコーヒーで」
「あいよ」
ナガレは自分の分とまとめて注文をしてくれた。それらの品はすべて一瞬でドアの前に現れる。
昨夜の夕飯と同じように、ローテーブルを挟んで二人で食事を取る。
その間、テレビに流れていたのはナガレのいた方の世界のニュースだ。よく分からん単語が飛び交うが、とにかく興味深い。そちらに目を奪われながらだったので、俺の方が食べ終わるのが遅いかと思いきや、食器が空になったのはほぼ同時だった。
ナガレはなんだかずっと上の空で、テレビはほとんど見ていなかった。
「ひょっとすると……ひょっとするとなんだけどよ。オレ、アレの答え分かったかも」
食器が消えてきれいになったローテーブルを見下ろしたままナガレが指さしたのは、天井に張られた横断幕だ。『××××しないと出られない部屋』と書かれている。
「アレさ。“未練断ち”しないと出られない、なんじゃねぇかな」
「未練って?」
「笑うなよ? 絶対に笑うなよ?」
ナガレは念押しすると机まで歩いていって一番下の引き出しを開けた。例の避妊具が入ってるらしい引き出しだ。取り出したのは紙の束。
愛の告白でもするかのように顔を真っ赤にして、ナガレはそれをこちらに向けてきた。人物が描いてある。鉛筆で描かれた下書きのようだ。
「オレな。……実は漫画家になりたかったんだ。少女漫画の漫画家に」
「へえ! だから絵が上手かったのか。めっちゃ納得した」
すぐに背中の方に隠してしまったのではっきりは見えなかったが、彼女が持っていたのは漫画の原稿だった。昨日も含めナガレが絵を描くところはこれまで何度か見てきたが、やけに手馴れているなと思っていたのだ。
「笑うなとか言うから何事かと思った。いい夢じゃん。笑うわけないよ」
「いや、夢なんて大層なもんじゃなくてよー。なれたらいいなーって漠然と思ってた程度のもんでさー」
「それを夢と言うんだと思うんだけど」
「や、でも具体的な行動とかしてたわけじゃねーし……。この原稿も漫画雑誌の賞に応募するかもって描いてはいたけどクソ手間取ってたし、その内にあっちの世界に転移しちまったせいで結局応募できなかったし」
らしくなく、うじうじと言い訳めいたものを並べるナガレ。
いや、この女は意外とこういうところがある。ぶっきらぼうに見せているのはフェイクで、この繊細な方が素だ。
「まぁナガレが言いたいことは分かった。つまりその原稿を完成させて、この部屋に残してきた未練を断ち切ることがアレの答えだと。未練を断つことでナガレが訪問者として一皮むけられると」
「かもしんねーなーって話。……いや、冷静に考えるとちげえわ。二人じゃないとできないことでもないしな。わりぃ忘れてくれ」
「いや!」
俺はローテーブルに手を突いて立ち上がった。
びくりと体を震わせるナガレに、ずいっと詰め寄る。
「これありそうだよ! やってみる価値あるって!」
「そ、そうか?」
「他にそれっぽいのもないし、とりあえず進めてみようよ。途中で他に候補が思いついたらそれも試してみればいいしさ。な! やるだけやってみよう!」
「お、おう、分かった。そこまで言われちゃしゃーねーなー」
口ではそんなことを言っていたが、ナガレの口元は明らかに緩んでいた。何を求めているか実に分かりやすい奴である。
「で、その漫画はどれくらいでできそう? 俺に手伝えることがあるなら何でもするけど」
「じゃあ出すつもりだった賞の規定通りに描くけど……三二ページなんだよな。で、現状はネームが半分くらいまでできてる」
「ネーム?」
「漫画の設計図みたいなもん。よーするにこのすげー荒い下書きみたいな状態」
ナガレは再び原稿をちらっと見せてきた。それから自らそれをパラパラと読んで顔をしかめる。
「……今読み直すと、かなりきついな、これ」
「読ませてよ」
「いや、ダメだ! 最初から全部描き直すから……三日! いや、二日くれ!」
有無を言わさぬ要求だった。
まぁ未練を断つことが条件なら、ナガレが納得いくようにやらせるしかあるまい。俺に選択肢は存在しなかった。