第百七十七話 その絵を見たのが間違いだった
シャナクの異形館に入ってすぐに、俺たちは揃って首をかしげた。
そこにはごく普通のエントランスが広がっていた。特に美術品らしき物はない。もちろん例の“絵”に該当しそうな物もない。広さはネット越しにボールを打ち合うあの六人制球技のコートが一面丸々取れるくらいはあった。
ナガレがきょろきょろと辺りを見回してから、俺が抱いたのとまったく同じ感想を口にする。
「広くね?」
「……確かに。おかしいな」
この館は小さな小屋がいくつも連結したような構造をしていた。俺たちが通ってきた正面扉のあったところもだ。こんな広さの部屋が存在できるスペースは絶対になかったはず。
「魔術で空間を歪めてるとかかな?」
「オレに聞くなよ。分かるわけねーだろ。お前がブータのスキル借りて調べりゃいいじゃねーか」
「ごもっとも」
言われるがまま、ブータから【能力解析】を借りて部屋全体を調べる。結果はすぐに出た。
「魔力の痕跡はある……けど一切解析できないな。どうなってるんだろう?」
「訪問者の力を使ってるとかじゃねーの」
「あー、ありえそう。冴えてるな、ナガレ」
ガチャリ。
「同じ訪問者なんだから、なんか分かったりしないの?」
「分かんねーよ。そもそもオレ自身の能力さえ、どういう原理で使えてるかわかんねーんだから。こっちきたら勝手に使えるようになってんだ。……ってか、待て」
二人して通ってきた扉の方を振り返る。そして声を揃えた。
「今、鍵閉まらなかったか?」
そもそも扉自体、閉めただろうか。記憶にないが今は閉まっている。
二人で扉まで戻ってドアノブを回し、押す。やはり鍵が閉まっている。
「ってか、この扉、こっちからじゃ鍵開けられなくね?」
ドアノブを見てナガレが顔をしかめた。確かにノブには開錠するためのつまみがない。
「エドワード! おーい、エドワード!」
俺は扉をどんどん叩きながら声を張った。が、返事はない。あの老勇者はすでにこの扉から離れたのだろうか。
「ちょっとどいてろ、ミレウス」
俺が横に退くと、ナガレが扉に向かって何度も何度も蹴りを入れた。不良がよくやるケンカキックだ。しかしビクともしない。
しばらくやって疲れたのか、ナガレは舌打ちをして扉を離れた。
「あー、クソ。なんなんだ? あのおっさんが閉めたのか? 何のために?」
「いや、そんなわけないと思うけど……」
俺は扉に耳を近づけてみた。しかし外の音はまったく聞こえない。単純に外では何も音がしてないのかもしれないし、あるいはこの扉がまったく音を通さない仕組みになっているのかもしれない。
見た目は何の変哲もない片開きの木の扉だ。念のためこれにも【能力解析】をしてみたが、やはり魔力の痕跡が見つかるだけで、解析はできなかった。
「先進んでみようぜ。最悪、扉をぶち壊すか、《瞬間転移》使うかして出りゃいいだろ」
エントランスから前方に続く扉を、ナガレが投げやり気味に顎で示す。
俺は対案が浮かばず、素直に頷くほかなかった。この調子だと彼女の言う脱出法も成功しないのではないかという懸念は胸に秘めて。
扉を進んだ先はエントランスと同じくらいの広さの部屋だった。違うのはエドワードの話のとおり美術品が展示されている点だけ。
左の壁には額縁に入った絵画がいくつも飾られ、右の壁際には陶芸品や彫刻が置かれた台座が並んでいる。
富豪の館に見られるような『とりあえずちょっと置いてみました』という程度ではない。美術品を展示するためだけに作られた空間――そう、美術館のようだ。それぞれの作品に作品名や解説なんかはついていないが。
「うげー……趣味悪りぃな」
ざっと見渡して、ナガレがうんざりした顔をして赤い舌を出した。俺も同じ感想だ。
飾られているのは見るだけでも吐き気を催すようなものばかりだった。
巨人が逃げ惑う人々を捕まえて口に運んでいる絵画、巨大なタコのような怪物が古代都市を破壊する様が刻まれた壺、蠅と人をかけあわせたような男の胸像――。
スゥによれば例の“絵”は見れば分かるとのことだったが、それはつまり絵画は全部見るしかないということでもある。
俺たちは他の作品はすべて無視して、絵画だけを見ていった。その部屋にも先に続く扉があったが、それを抜けてもほぼ同じ構造の部屋が続いていて、やはり同じ類の作品が飾られているだけだった。
そんな展示室がいくつも続く。もはや外から見たときと館の構造が違うのは明らかだったが、その点は考えないことにした。
「頭痛くなってきた……」
五つ目か六つ目か。数えてないが、それくらいの展示室を見ていたあたりで俺は気分が悪くなってきた。確かにこんな館に長時間いたら頭がおかしくなりそうだ。
この先どれくらい部屋が続くか分からない。例の“絵”を探すのはとりあえず保留にして、先に外に出る方法を考えないかとナガレに声をかけようとしたところ、彼女は俺の少し前の方で足を止めていた。
壁に飾られている一枚の絵を食い入るように見つめている。
「ん? もしかして見つかった?」
途中の美術品はすっとばして、ナガレのそばまで行く。
ナガレが見ていたのは変わった髪型をした男の上半身を描いた絵だった。いや、線や色の感じからして版画かもしれない。サイズはそれほど大きくはない。渋い色合いで描かれた物であり、デフォルメが効いていて表情が生き生きとしている。
独特で奇抜ではあるが、ここまで見てきた美術品と違って気持ち悪くはない。むしろ芸術としてまっとうというか、素人の俺から見ても面白い作品である。
ナガレも同じような感想を抱いて凝視しているのかと思ったが、どうも違うようだった。俺の方など見向きもせずに、ぶつぶつとなにやら呟いている。
「なんでこんなもんがここにあるんだ? ……シャナクが召喚したのか? ……いや?」
その自問自答の意味は分からない。
これが例の“絵”なのだろうか。【能力解析】をかけて調べてみるかと俺は再びその絵に向き直った。
絵の表面全体に真っ黒な渦が生じたのはその時である。
驚きの声を上げる間もなかった。その渦は凄まじい不可視の力で俺とナガレを引き寄せ始める。咄嗟に足で踏ん張ったが、とてもではないが対抗できない。
そして俺たちは物理法則を完全に無視して、二人揃って絵の中に吸い込まれた。
☆
気が付いたとき、俺は地べたに這いつくばっていた。
シャナクの異形館の床は板張りで絨毯が敷かれていた。いつの間に外に出たのか。
顔を上げる。すぐ目の前にナガレの足が見えた。
彼女は立っており、呆然と辺りを見渡していた。
周囲はシャナクの異形館――ではなく、やはり屋外。
しかし北方交易街でもない。見たこともない木造家屋が左右に建ち並ぶ広い通りの真ん中に俺たちはいた。
周囲では大陸東方風の衣服を着た奇妙な髪形の人々が大勢行き交っている。しかし誰も俺たちに反応を示していない。明らかに異質な外見をした者たちが突然現れたというのに、目も向けてこないのだ。
行き交う人々の会話は活気が良すぎるせいではっきりとは聞き取れないが、第三文明語を喋っているのは分かった。かなり独特な方言ではあるが、意思疎通が不可能なほどではなさそうだ。
方言、そしてこの衣装。ひょっとして俺たちは大陸の東方にでも転移してしまったのだろうか。
「……エドだ」
「え? 誰だ、それ?」
ナガレの呟きに反応すると、彼女は俺の方を振り返り、立ち上がるのに手を貸してくれた。普段はそんなことしてくれないだろうに。どうもかなりテンパってるらしい。
「エドだよ、エド。いや、人の名前じゃねーよ。エドって時代があったんだよ、オレの方の世界で。……ここはその時代の街並みにそっくりだ。ってかホントにエドじゃねーのか、ここ」
ナガレが視線を向けたのは遥か彼方に見える巨大な建造物だった。傾斜のついた屋根を乗せた三角錐に近い形状の建物で、緑と金の配色が美しい。この都市の中心にあたる城館のようだ。
「え。じゃあ俺たち、ナガレのいた世界に転移したのか?」
「まさか! それはありえねえよ、こんな景色あっちにももう残ってねーし。百年……いや、もっと前に失われたはずだ。エド城のテンシュがあるからな。アレが火事で燃えたのはええと……クソ、もっと日本史の授業ちゃんと聞いときゃよかった」
ナガレはまたなんだかよく分からないことを言って苦い顔をした。
とりあえず異世界転移したわけではないらしい。
裏付けはすぐに取れた。通りを歩いていた男が俺の体を通り過ぎたのだ。
驚きのあまり『ヒエッ』と声を出しそうになったが、どうにか我慢できた。すぐに同じ現象がナガレにも起こる。女が、男が、老人が、子供が、俺たちの体を通り過ぎていく。街を行く人々は俺たちの存在を一切認識しないだけでなく、物理的にもまったく干渉しないようだ。
まるで亡霊だ。俺たちが亡霊なのか、街を歩く人々が亡霊なのかは分からないが。
試しに家屋などにも触ろうとしてみたが、それらもすべて俺たちの体をすり抜けた。どうなっているのか、さっぱり分からない。
「……とりあえず歩いてみようぜ」
半ば諦めたようなナガレの提案に、俺は乗るしかなかった。
このエドというのはウィズランド王国の王都を遥かに凌ぐ規模の大都市のようで、人口密度も凄かった。経済も上手く回っているらしく、商人が客を呼び込む声がそこかしこから届く。
海が近いのか、魚を入れた桶を担いで売り歩く商人がいたかと思えば、やたらデカいが寿司のようなものを売っている露店もある。蕎麦や団子など馴染みの深い食品を売る店もある。どうやら飲食物はウィズランド島とそこまで変わらないようだ。
子供向けの塾のような施設や公共浴場と思われる施設もある。インフラもしっかりしているらしく、井戸もたくさん見受けられた。
俺はすぐにエドの街を気に入った。
「いい街だな、ここ。平和っぽいし」
声をかけてみるも、ナガレはだんまりである。眉間に皺を寄せたまま辺りを警戒している。
俺は嘆息し、辺りを再び見回した。すると一つ面白いものを見つけた。
人物を描いた版画を並べて売っている店だ。その中に、先ほどシャナクの異形館で見つけたあの絵もあった。
「あー、さっきナガレが言ってた『シャナクが召喚した』っていうのはそういう意味か。元々こっちの世界の物品だったんだな、この絵」
ナガレはやはり俺の言葉には答えない。ただちらりとその店を一瞥はした。
それから一言呟いた。
「おかしい」
「なにが」
「全部だよ。なんだこのちぐはぐ感。まるで誰かが作った理想のエド時代の箱庭みたいだ」
「箱庭ねぇ。それにしちゃリアルだけどなぁ。……あ!」
今度俺が見つけたのは馬屋だった。
構造自体はウィズランド王国に見られるものとほぼ同じだ。俺を驚かせたのはそこで飼育されている馬の方だ。
そこにいたのは純白の装甲を全身に施された、見事な体躯の軍馬たちだった。
「この子たち、みんながたまに【瞬間転移装着】で召喚してる聖馬じゃないか。たしか、実際は馬でも生物でもないっていう」
「ああ……そうっぽいな」
これにはナガレも驚いたようで、ひーふーみーと指を折りながら馬の数を数えていた。
「十三頭いる。ってことはやっぱそうだわ、これ」
「異次元から召喚してるとか前にナガレが言ってたけど、ここから召喚してたのか。……じゃあやっぱりここは初代の奴らが作った空間なのかな」
「どうだかな」
ナガレは鼻を鳴らして空を見上げた。
俺も釣られて見てみたが、そこには北方交易街にいた時と同じ、雲一つない真昼の空が広がっているだけである。太陽もあちらにあったものとよく似ている。
ただ、いつでも等間隔で並んでいる十二の月の姿はない。恐ろしい違和感を覚える。
「確か、ナガレのいた世界は月が一つしかないんだよな」
「ああ。……あれ、それお前に話したっけ、オレ」
「いや、スゥから聞いた」
正確にはスゥと技能拡張で精神同調した際に、彼女の思考の中からその情報を拾った。彼女が剣術の師であるシャナクから教わった知識である。
「ってかどうやって帰ればいいんだろうな、これ。スゥが言ってた“しばらく”いろってのは、ここにしばらくいろってことなのかな。しばらくって、どれくらい? 食べ物にも触れないから飲まず食わずになるんだが?」
「知らねーよ」
ナガレからすれば見慣れた空だろう。しかし彼女は何かを探すように、視線を空のあちこちへ投げかけていた。
「……誰かが笑ってやがる」
「え?」
「視線を感じんだよ。どこかから今のオレたちを見ながら笑ってるヤツがいる」
ナガレは吐き捨てるように言ってから、ただでさえきつい目つきをさらに尖らせ、ドスの聞いた声で叫んだ。
「オイ、誰だ! 出てこいやオラァ!」
一瞬連想したのは先ほどのエドワードとの会話にも出た神、リクサを[天意勇者]にしたという上位存在。
だがたぶん違うだろう。もう一つの心当たりの方がずっと有力だった。
ナガレの叫びが引き金になったのか、エドの街並みが砂時計の砂が落ちていくかのように消えていく。
後に残るは円卓の中のあの空間のような、無重力の暗黒空間のみ――。
いや。
「よっ。いい勘してるねぇ。さすがワシが選んだ騎士だぜ」
声は頭上から降ってきた。
大陸東方風――ナガレが言うにはエド時代風の衣装を着た男が斜め上から俺たちを見下ろしていた。胡坐をかき、煙管を口に咥えている。
見間違えるはずはない。俺の予想の通りでもある。
初代円卓の騎士の一人――帰還者シャナクその人だった。