第百七十一話 少女を見つけたのが間違いだった
夢は続く。
灼熱の太陽が照りつける不毛の荒野。そこに白骨化した巨大な砂土竜の亡骸が横たわっている。そしてその肋骨の一本から垂れ下がった鋼線で、一人の少女が逆さにつるされていた。
鋼線が絡まっているのは左足だけだ。どうやら跳ね上げ式の原始的な罠に引っかかったらしい。丈の短いスカートを履いているため当然のように下半身が露わになっているが、十代半ばと思われるその年頃には似つかわしくない大人びた黒の下着をつけていた。
「下ろしなさい! 下ろしなさいよー!」
逆さのまま喚いているこの少女は精霊姫オフィーリアだ。虹色のグラデーションに染めた美しい髪がゆらゆらと揺れており、その下には一冊の本が開かれた状態で落ちている。現代ではヤルーが所持しているあの魔導書、優良契約だ。
「うーむ。さんざん手こずらせてくれたってのに、最終的にこんな狩猟用の罠に引っかかるとは」
黒い革鎧を身に着けた巨漢がオフィーリアの前に屈みこみ、呆れたように彼女がかかった罠を調べた。この男は黒騎士ビョルン。ということは、ここはウィズランド島北東部に広がるガラティア荒野のようだ。
ビョルンの背後には危険種の皮でできた独特の衣服を身にまとった戦士の一団がいた。彼の部族の者たちだろう。
「腹減ってたのか、お前」
ビョルンは誘き寄せるために置かれていたのであろう干し肉を起動済みの罠から拾い上げ、オフィーリアの前にちらつかせる。
オフィーリアは体を揺らして反動をつけ、その肉に噛みつこうとしたが、ビョルンにひょいと避けられてしまった。
「下ろしなさい! でなけりゃそこの本をよこしなさい!」
「これ、精霊との契約用の魔導書だろ? 渡したらまた風精霊使って逃げるだろ」
オフィーリアは舌打ちすると、再び反動をつけて今度はビョルンに噛みつこうとした。しかし身をそらされて躱される。
「ま、とりあえず街まで運ぶか。勝手なことすると長老たちにドヤされそうだしな。おい」
と、ビョルンは部族の者たちに、オフィーリアを運ぶよう顎で指図する。
はつらつとした声が頭上から降ってきたのはその時だった。
「待てえい!」
その場にいた全員がそちらを見上げる。近場にあった直立した岩の上からだった。
眩い太陽を背にしたその声の主は、のちの統一王、アーサーである。
「とうっ!」
ぽかんと見上げる者たちの前にアーサーは着地した。そして例の蛇腹剣を鞘から抜き、ビョルンの方に突きつけて告げる。
「覚悟するんだな、悪党ども!」
「悪党って。言っとくが悪党はこの嬢ちゃんの方だぞ。うちの聖地に侵入して祀ってる大精霊様を盗んでいったんだ」
アーサーは少し黙り込んだ後、気まずそうにオフィーリアの方を向いた。
「そうなの?」
「ちょっと借りただけよ! それなのに罰として首を落として生け贄にするとか野蛮すぎ! ド田舎の島のド田舎部族らしいっちゃらしいけどね!」
アーサーが再びビョルンを見る。
ビョルンはオフィーリアの挑発を毛ほども気にした様子はない。
「借りただけって、嬢ちゃん。返す気あんのか」
「ないけど」
「ねえのかよ!」
豪快に笑うビョルン。
そのうちにアーサーの後方から彼の仲間たちが息を切らせてやってきた。
「突然走り出したと思ったら、今度は何に首突っ込んだんだお前!」
先頭で来て憤慨した様子を見せたのは双剣士ロイスだ。それに帰還者シャナク、狂人ジョアン、魔術師マーリアと続く。先ほどの場面では一緒だった赤騎士レティシアの姿はない。
「あれはガラティアの民です。また厄介な連中と揉めてますね」
だいたいの状況を察したのか、ため息をついて杖を構えるマーリア。
「ヒヒヒ! ま、今回は一応人助けみたいだぜ。あのお嬢ちゃんも一般人じゃなさそうだけどな」
シャナクは見物を決め込んだらしく、腕組みをして煙管をふかし始めた。マーリアとは対照的だ。
アーサーは駆け付けた仲間たちのことは無視して、オフィーリアに取引を持ち掛けた。
「お嬢ちゃん、助けてやるから俺とデートしない?」
「は? 普通に嫌なんですけど? っていうか助けてくれなんて誰も頼んでないんですけど?」
「いいね、気が強い女は好きだぜ」
白い歯を見せて笑うアーサー。
そこにビョルンが年代物の片手半剣で上段から打ち込んだ。完全な不意打ちだったが、アーサーは蛇腹剣の腹で難なく受け流してみせた。
ビョルンは続けざまに下から剣を振るう。その刀身はアーサーのところに到達する寸前に、目の錯覚のように巨大化した。現代では剣覧武会の賞典となっているあの魔剣、殻砕きだ。
アーサーは横に転がって巨大化した刃を躱した。まるでその剣の魔力を知っていたかのような冷静さだ。
「ヒュー、やるねぇ。初見でこれを避けられる奴はそうはいないぜ」
刀身のサイズが元に戻った殻砕きを肩に担ぎ、嬉しそうに目を見開くビョルン。
転がった時に口に砂でも入ったのか、アーサーは唾を横に吐き捨てて立ち上がった。
「手加減しといて何言ってやがる。オラ、野蛮人。本気でこいよ」
「いいね! 最高だぜ、お前!」
挑発に応えて再び襲い掛かるビョルン。
二人はそれから激しく何度も打ちあった。
豪放という点で、どことなく雰囲気の似ている二人であるが、その力量も伯仲しているように見えた。両者の剣はなかなか相手の体を捉えない。
アーサーの仲間たちとビョルンの部族の者たちは互いにけん制しあうこともなく、二人の一騎打ちを遠巻きに眺めていた。実際それはあらかじめ打合せした剣舞のようでもあり、見物であったからだ。
その場にいた全員がなかなか異変に気付かなかったのは、それが理由だろう。
「ねえ、なんだか揺れてない?」
騒動の元だというのに逆さのまま放置されていたオフィーリアが、ふと口に出した。
それで戦っていた二人はぴたりと手を止め、他の連中も地面を見た。
確かに荒野の大地が揺れていた。その揺れは徐々に激しくなっているようでもある。
「逃げろ!」
ビョルンが叫んでアーサーに背を向け、全力で走り始める。他の連中も手練れ揃いだ。身動きが取れないオフィーリアを除いて、全員が即座に四方八方に駆けだした。
次の瞬間、彼らがいたあたりの地面が割れて、巨大な土竜が姿を現わした。白骨化して横たわっているのと同じ、特大の砂土竜だ。
「や、やっぱりここは魔の島さー!」
泣きながら逃げるジョアン。
その背中を砂土竜の鋭い爪が襲う。ジョアンは血潮を盛大にばらまきながら、ボロキレのように吹き飛ばされていった。
「あー、大精霊様連れてったから怒ってるみたいだな」
退避した岩の影から、ビョルンが砂土竜の巨体を見上げる。ロイスとマーリアが砂土竜に攻撃を仕掛けているが、簡単には倒せそうにない。さすがに滅亡級危険種ほどのモンスターレベルはないだろうが。
「さっきの続きはこいつを倒してからにしようぜ。ここまで怒ってると逃がしてくれなさそうだ」
ビョルンはたまたま近くに逃げ込んでいたアーサーに提案した。
「いいけどな、別に」
アーサーは鼻を鳴らして答えた後、砂土竜を見て、ごくりと喉を鳴らした。
「しかしなかなか美味そうだな、こいつ」
「お、分かるか? そうなんだよ。こいつの肉、バカうめーんだわ。よっしゃ分かった。そんじゃ続きはこいつを倒して食ってからだ」
機嫌をよくしたらしいビョルン。
アーサーもにやりと笑う。何やら意気投合したらしい。
二人は並んで砂土竜の前に立ち、剣を構える。
砂土竜はロイスとマーリアから背を向けて、二人に襲い掛かろうとして――唐突にピタリと動きを止めた。
「アンタら全員、私のこと置いて逃げたわね……?」
怒りに震える声はオフィーリアのものだった。砂土竜が出てきたときの衝撃で、鋼線が足から外れて自由の身となったらしい。優良契約を広げて片手で持ち、憤怒の形相で仁王立ちしている。
砂土竜を拘束しているのはオフィーリアが使役している無数の土精霊だった。
「そこのモグラも! アンタたちも! 全員ぶっ飛ばしてやるから覚悟しなさい!」
オフィーリアはよく通る声で叫んだ後、優良契約のページをめくった。
「契約に従い――自己責任で――我が呼び声に応えよ、大地精霊!」
彼女の目の前に、どちらの性器も持たない全裸の子供が召喚される。
その子供が微笑んだかと思うと、周囲の大地が波打つように隆起を始め――場面は移る。
夕暮れ時、小さな村が燃えている。オークの森に囲まれた山間の村だ。
この場所はよく知っている。現代では我が故郷オークネルが存在する、ウィズランド島西部のあの土地だろう。
もっとも二百年前のこの時点では、ここには敬虔な魔神崇拝者たちの村があったはずだ。村を挟むように流れる二つの川にも剣豪ガウィスの名はまだつけられていない――。
「あーしも戦うっスよ」
炎上する村の端、まだかろうじて原形を保っている家屋の影で、その剣豪ガウィスこと我が母スゥが斬心刀の柄を固く握りしめ、舞い上がる火の粉をその瞳に映していた。彼女のそばにはアーサーとシャナク、それと赤騎士レティシアが、彼女を護るように立っている。
村の広場では激しい戦闘が起きていた。他の仲間たちが半魔神化した数十人の魔神崇拝者と戦っているのだ。
魔術師マーリアは《火球》を連発しており、精霊姫オフィーリアは火蜥蜴を使役して熱線を撃たせている。双剣士ロイスと黒騎士ビョルンは二人を護るように剣を振るっており、狂人ジョアンも鉤爪のような武器を両手につけて必死に戦っている。
「やめときなさい。あれでもアンタを育ててくれた人たちなんでしょ?」
赤騎士レティシアが戦場の方を見ながら諭した。その赤い軽鎧には夕日の赤と燃え盛る火の赤、そして返り血の赤が混ざっている。
スゥもまた戦場を見やる。歯を食いしばりながら。
「ここの人たちはあーしを家畜以下にしか扱わなかったっスよ。あーしと同じように飼われていた仲間もいたっスけど、全員あーしの前に生け贄にされて死んだっス。だからあいつらには育ててもらったなんて気持ちはこれっぽっちもないっス。恨みこそあれど恩なんて一つもないんスよ」
スゥの瞳に宿るのは暗い復讐の炎だ。それだけでこの少女がここでどんな目にあってきたか想像はできた。
アーサーが少し困ったような顔をして頭を掻き、斬心刀を顎で指す。
「使えんのか、それ。その身長じゃ厳しいだろ」
スゥの持つ鞘も鍔もない漆黒の刀は、彼女の背丈と同じくらいの長さがあった。現代のスゥは[剣豪]であるが、この時点では違うのだろう。普通の少女に扱い切れる代物ではない。
答えがないのを確認したアーサーは戦場に目を向け、首を振った。
「戦うのはもうちょい大きくなってからにしな。けっこう強いぞ、こいつら」
「たぶんあーしはもう大きくならないっスよ。半魔神になっちゃったっスから」
「ああ、そうか。……残念だ。実に残念だ。あと何年かしたら美人さんになると思ったんだけどな」
アーサーは心底がっかりした様子でスゥの頭の上に手を置いた。さすがにこの年齢は対象外らしい。
「ま、ここは俺たちに任せとけよ。スゥ、お前の悪夢は今日で終わりだ。お前を傷つける奴は、俺たちが一人残らずぶっ殺してやるよ」
スゥの感情を吸い上げたかのように、アーサーの表情が怒りのそれへと変わっていく。逆にスゥは彼の怒りを見て、少しずつ落ち着きを取り戻していき、やがて不思議そうな顔になった。きっと自分に同情してくれる人間に会ったのは初めてだったのだろう。
アーサーは蛇腹剣を手に咆哮を上げながら、戦場となっている村の中心に向けて駆けていった。
「ヒヒヒ。つくづく粋な漢だねぇ。いい主題になりそうだ」
帰還者シャナクがアーサーの背を見て煙管をふかし、彼と同じようにスゥの頭に手を置く。
「今はここでおとなしく待ってな、嬢ちゃん。そいつの使い方は後で俺が手ほどきしてやるからよ。……レティシア、この子は任せたぜ」
シャナクはそれだけ言うとアーサーを追いかけた。腰に帯びた刀を鞘からすらりと抜き放ちながら。
――場面は移る。
広大な球形の地下空間をアーサーたちが歩いている。一行は八名だ。スゥが増えたが、今度はまた赤騎士レティシアの姿がない。
無数の光精霊の放つ光を頼りに先頭を行くのはビョルンだった。辺りをきょろきょろと見渡しながら、我が家のごとく緊張感なく歩いている。
「第一文明人ってのはホントに地面掘るのが好きだったんだなぁ。こんなとこにも馬鹿でけえ穴掘ってよぉ」
「ちょっと、ビョルン。そんなズンズン前に進まないでよ。アンタ前衛なのよ? 私たちを守るのが役目だってわかってるんでしょうね」
「めんどくせぇこと言うなよオフィーリア。こんなとこ、どうせ何もいやしねーよ」
「どうしてアンタはそう能天気なのよ。脳みそまで筋肉でできてんじゃないの」
二人の口論には聞きおぼえがあった。以前イスカと共に最貧鉱山の地下で眠ったときに、まったく同じ状況の夢を見たからだ。
あの時はスゥの姿が認識できなかったが、今ははっきりと見えている。彼女の斬心刀による記憶の封印が解かれたからだろう。
これはアーサーたちが、最貧鉱山の地下で眠っていたイスカと出会ったときの記憶だ。
そこからも以前夢で見たときとまったく同じように場面は進行した。
まず地下空間の奥の方をマーリアが指さし、そちらを見てロイスがいぶかしがる。
「あそこ、何かが横になってませんか?」
「魔神……いや、人か?」
一行は警戒しつつ、倒れている水色の髪の少女――イスカの元へと歩いていった。
「息はあるさー。寝てるだけっぽいさー」
「お、可愛い子じゃないか! あと二、三年もすりゃ別嬪さんになるぞこりゃあ!」
ジョアンがイスカの横に屈みこんで様子を確かめ、アーサーが顔を覗き込んで歓喜の声を上げる。
「けっけっけ、アーサーはホント女に目がねぇな。でもよく見てみな、こいつぁふつーのガキじゃあねえ。頭に角なんて生やしてやがる。もしかすると鬼かもしれねえぞ」
シャナクが距離を置いたところでシニカルに笑う。
「別に鬼でも神でも魔王でも、可愛けりゃなんでもいいんだよ俺は! 可愛いは正義! 可愛い女の子は世界を救う! 俺は可愛い女の子だらけのハーレムが作りたくてこの島に来たんだよ!」
握りこぶしを作って頭を振り、熱弁を振るうアーサー。
その後ろでロイスとマーリアが呆れ顔で溜息をついた。
「あー、やっぱダメだわ、こいつ」
「ダメダメですね……」
アーサーがいつもこんな調子なのは、これまでの場面でよく分かっていた。予定調和のような空気がその場にはあった。
「あ、起きるっスよ!」
スゥが注意を喚起すると、全員の視線が眠れる少女へと集まった。
聖イスカンダールはゆっくりと瞼を開けると目をこすり、もっとも近くにいたスゥを最初に認識して口を開く。
「お……おかーさん?」
イスカは酷く震えていた。まるで恐ろしい夢でも見ていたかのように。
――場面は移る。




