第百六十話 運悪く発症したと思ったのが間違いだった
六百年前にこの世界に突如現れた一人の男――真なる魔王。
一説には異世界から来た訪問者とも言われる彼の血肉には膨大な魔力が宿っており、当時世界で覇を競っていた数多の魔術同盟のすべてを、彼はその力で塵へと還した。
そして以降、三百年の長きに渡って世界に君臨し続けた。彼と交わり、同じように魔を宿した女たち――魔女と、その子孫である魔族たちと共に。
彼らの支配を終わらせたのもまた突如現れた一人の男だった。
現在では始祖勇者と呼ばれているその男は、三百年前に勃発した大戦の末に、多大な犠牲を払いながらも真なる魔王を討ち果たした。
その戦いの過程と結末については諸説ある。が、いずれにしても現在まで続く第四文明期と呼ばれる時代が始まったのが“その時”からなのは確かだ。
新たな災厄が始まってしまったのも。
魔王化現象。
それは真なる魔王がかけた最後の呪い――世界規模魔術だとも言われている。
人間、エルフやコロポークルなどの亜人、勇者や魔族、妖魔に幻獣、果てはただの動物まで含めたあらゆる生物の中から無秩序に個体が選ばれ、真なる魔王と同質の力を持った存在、『魔王』に変質する現象であり、これによって力を得た者は真なる魔王と区別するために拡散魔王と呼ばれる。
拡散魔王の中には真なる魔王の力だけでなく、その攻撃性をも引き継ぐ者がいる。元の人格を塗りつぶされて冷酷かつ残虐になり、殺戮と破壊を好むようになるのだ。
そうなった者は悪性魔王、そうならなかった者は良性魔王と区別される。
現在、世界で存在が確認されている拡散魔王は二十名あまり。
マガラニカ島の諸王国を滅ぼし、かの地を第三文明期の惨状へと戻した悪性魔王、“復讐の業火”アイーダ・ネグサ。
発症から僅か十年で大陸に一大勢力を築いた召喚術師の魔王、“奈落の呼び声”ヤショウ・クロフォード。
契約に従い、小国をたった一人で二百年以上守護し続けている良性魔王、“盲目の”クリスティアナ・ホワイトゲイト。
アルパネス山脈を支配し、大陸を分断する、“竜王”ヴァネルボルト。
魔族の名門、吸血鬼の出であり、マーラマロシュの森に居城を構える、“宵闇の君”ラドゥ・シェゲシュヴァール。
始まりにして最強の拡散魔王、“混沌の後継者”シリル・ブラッドリー。
特性も支配領域も様々だが、拡散魔王たちが――特に悪性魔王たちが――魔女や魔族と並んでこの第四文明期における最大の戦乱の種となっているのは間違いない。
魔王化現象を発症した者が悪性となるか良性となるか。
その確率は五分五分だと言われている。
☆
魔神将ギルヴァエン討伐戦から数刻後、俺たちはアーサマ山を下り、麓の村落のそばに設営しておいた大型天幕へと戻っていた。
天幕の中には丸い木の卓とそれを囲む十一の折り畳み椅子。卓の上にはアーサマ山の山頂付近の地図が乗っている。
ここで最後の作戦会議を行ったのは今朝のことだ。あの時と違うのは紅茶や茶菓子をみんなに供してくれたアザレアさんがおらず、代わりに円卓騎士団第四席のレイドがいることだけ。
今はそのレイドが一人だけ立っており、沈痛な面持ちで卓を囲む仲間たちに向けて、相変わらず感情の薄い声音で魔王化現象について説明している。かつて出身地である地の底で拡散魔王の一体を討伐した経験を持つというこの男は、ここに着くなり前置きもなく話し始めたのだ。
現象の発生経緯、悪性と良性、世界にいる主要な拡散魔王たち。
それらを一通り説明し終えると、レイドはようやく本題に入った。
「我が最初にアザレア・アンソールに会ったのは二年ほど前だ。その時点ではまだあの少女は未熟な魔術師に過ぎなかった。それが今日の戦いが始まる前の段階で、後援者でも指折りの使い手になっていた。稀有な才能の持ち主ならば、あり得ない成長速度ではない。……だが魔王化現象が進行していたからだと考える方が自然だろう。二年間、あの少女の中で“それ”はひっそりと進んでいたのだ。それが先ほど魔神ギルヴァエンの短剣を胸に受けて瀕死となったことで急速に進行した。いや、意識的か無意識的かは不明だが、急速進行させたというべきだな。彼女が起き上がる前に、体温が急激に低下しただろう。魔王化現象が進行しやすいように自らを仮死状態にしたのだ。それが証拠だ」
ここまで全員、レイドの話を黙って聞いていた。
だが、そろそろ口を挟むべきだろう。あまりにも衝撃的なことが続いて聞きそびれてしまっていたが、そもそも山を下りる前にたずねておくべきだった疑問はいくつもあった。
レイドが再びそのザリガニのような口を開こうとするのを、手を挙げて静止する。
「お前、どうして突然現れたんだ。どこかから見てたのか?」
「ああ、《覗き見》の魔術を使っていた。いつでも動けるように」
禁止指定魔術を使っていたと堂々と自白したレイドは、険しい表情をしているリクサへと目を向ける。
「リクサ嬢がアザレア・アンソールに攻撃を仕掛けた件だが、あれは無意識の行動だろう?」
「ええ、そうです、私の意志で戦ったわけではありません」
リクサは悔しそうに唇を噛む。
「意識を超える衝動に突き動かされた、と言うべきでしょうか。あんな感覚は初めてでした」
「勇者の血が魔王の力に反応したのだ。アザレア・アンソールがリクサ嬢に応戦したのも恐らく反射的なものだろう。魔王と勇者というのはそういうものだ。殺しあうようにできている」
淡々と語るレイド。
聞きたくない。
聞きたくないが、それでも俺はたずねた。
「レイド、お前はなぜアザレアさんを攻撃したんだ」
「言っただろう。手遅れだからだ。魔王化現象は一度発症すると治ることはない。殺す以外に手立てはないのだ」
「良性かもしれないだろ! 良性魔王なら――人格が歪んでいないなら、殺す必要なんてない!」
冷静でいようと努めていたが、声を抑えきれなかった。
こいつに怒ったところでしょうがない。しょうがないと、分かってはいたが。
「リクサに応戦したのは反射的なものだってお前が今言ったじゃないか。お前と戦ったのだって攻撃されたからだ。彼女が望んでそうしたはずがない。彼女が悪性だなんて証拠はどこにもない」
良性であるという証拠もどこにもない。それも分かっている。
ラヴィが席から立ち上がり、レイドに厳しい視線を向けた。
「あの子が使った《大火球》、凄い威力だったけど巻き込まれた人はいなかったじゃん。ちゃんと配慮して撃ったんだよ。悪性だったら周りの被害なんて気にしないでしょ」
「たまたま避難が間に合っただけとも言える。良性である証拠にはならない」
「そもそも! あの子はミレウスくんを護るために立ち上がってギルヴァエンと戦ったんでしょ! だったら悪性なはずないじゃん!」
「魔王として力をつけてからゆっくりと攻撃性を持つ者もいる。今の時点では本来の人格を保っていたとしても、これから別人のようになる危険性は十分にある。だからこそ中央神聖王国は魔王化現象が僅かでも見られた生物はすべて問答無用で殺している……と、この話は前にもしたな」
去年の夏だったか。王都の旧地下水路をラヴィと冒険している時に、こいつと遭遇して確かにそんな風な話をされた。しかしそれをまさかこんな形で再び聞くことになるとは思ってもいなかった。
「残念っスけど、あーしは現時点で悪性になっているか、いずれ悪性になると想定して動くしかないと思うっス」
横から割って入ってきたのはスゥだった。
ラヴィが激昂して卓を両手で叩く。
「どうして!?」
「……ラヴィさんにはもう見てもらってるっスけど」
スゥは苦虫をかみつぶしたような顔で懐から管理者の卵を取り出し、みんなに見せながらその役割を説明した。
それからその卵に映っている人物が、つい先ほどまでは黒い靄で覆い隠されて正体が分からなかったこと、一人で半年かけて探したこと、ここ一月はラヴィやブータ、後援者の一部にもそれを手伝ってもらっていたことを話した。
禍々しい赤い光を発しているその卵の中に映しだされているのは、アーサマ山の山頂で見せられた時と変わっていない。アザレアさんの姿だ。
それを見て、ラヴィが崩れ落ちるようにして折り畳み椅子に背中を預けた。
スゥは感情を押し殺したような声で告げる。
「これに映っている以上、アザレアさんがこの島を滅ぼしかねないほどの危険人物であることは間違いないっス」
これまで俺たちは時を告げる卵を――さらに言えば、それを作成した魔術師マーリアの未来予知の力を信じて、円卓の騎士の責務を果たしてきた。こんなときだけ、彼女の予知が間違っていると考えるのは都合が良すぎる。
レイドが再び話し出す。
「アザレア・アンソールは魔神ギルヴァエンを単身で屠った上に、我とリクサ嬢を同時に相手にして終始優勢に立ちまわった。魔王として覚醒した以上、魔族への絶対命令権もすでにあるだろう。この島を滅ぼすだけの実力は十分に備えていると言える。……ただしそれは完全成長すればの話だ。先ほどの戦闘で見せたあの強さ。あれは生存のために一時的にステータスを成長した状態まで引き上げたに過ぎない。現時点のモンスターレベルはあれよりはかなり下で落ち着いているはず。時が経ち、成長すれば先ほどの状態よりも強くなるのは確実だが、今ならばまだ倒せる」
重苦しい沈黙が天幕の中を漂う。
レイドが口にしたモンスターレベルという言葉はあまりにも残酷で、到底受け入れがたいものだった。
「なぁ、ところでよ」
空気をまったく読まずにレイドにたずねたのは、卓に頬杖をついているヤルーだ。
「アザちゃんの怪我治ってたよな。治癒阻害の暗殺者の短剣で刺されたところもよぉ」
「ああ。魔王は魔神将や決戦級天聖機械のように呪いや毒に対して完全な耐性を持つ。無論、治癒阻害の魔力も影響を受けない。その後のギルヴァエンとの戦いでも重傷を負っていたがそれも今頃は完治しているだろう。魔王があの程度で死ぬなら苦労はしない」
レイドの答えを聞き、ヤルーはいつもの二ヤつき顔で俺の方を見て、肩をすくめる。
「よかったじゃねーか、アザちゃん死んでなくてよ。あの時のミレちゃん、ひっでえ顔してたぜ」
気を使ってくれているのは、さすがに俺にも分かる。
そうだ。忘れていたがアザレアさんは死ぬところだったんだ。いや、魔王化現象がなければ本当に死んでいた。彼女が生きているという事実、それ自体は喜ぶべきだ。
でも魔王化現象を発症していなければあんなに強くなることもなく――必然、戦場に立ちもせず、ギルヴァエンに刺されもしなかったんじゃないか。
頭を抱えて、絶望的にうめく。
「どうして……なんでよりにもよってアザレアさんなんだ。この国じゃ建国以来、魔王化現象を発症した者は出てきてないって話なのに」
ただの愚痴だ。答えが返ってくるとは思っていなかった。
しかしレイドが答えた。空気の読めない早さで。
「魔王化現象を発症する個体は無秩序である――というのはあくまで世間一般にそう信じられているというだけだ。サンプル数が少なすぎるが、これまでに世界に現れた拡散魔王のデータを集めれば傾向のようなものは見えてくる」
傾向。
そうだ、それも前に旧地下水路で遭遇したときにこいつは話していた。
レイドはその顔から生えているヒゲのような触角を鋏でいじりながら、授業中にうんちくを垂れる教師のように話す。
「まず一つ。訪問者だ。現存する拡散魔王の中に訪問者が複数名いる以上、これは信憑性が高い。真なる魔王自身が訪問者であったという説もこれを裏付ける要素だ」
レイドは言葉を切り、天幕の天井を見上げた。まるでその遥か先を見通すように。
「この世界の外には魔力で満たされた海のような空間が広がっている。世界に空いた穴からそこと接続することで、魔力を得られるようになるのが魔王化現象なのではないかという説もある。訪問者はその魔力の海を渡って異世界からやってくるわけだから、当然そこと接続しやすいという理屈も成り立つわけだ。もっともこれはアザレア・アンソールには当てはまらない。あの少女が当てはまるのは残りの二項目だ」
レイドは俺たちの方に視線を戻し、ザリガニの鋏を広げる。
「二つ目。発症候補者が心から」
「――強く力を欲すること」
レイドに代わってそれを言ったのは、それまでずっと黙って震えて俯いていたブータだった。
突然のことにレイドを含めた全員が驚いていたが、どうやらそれは間違いではないらしい。
レイドは感心したように頷き、話を続ける。
「そうだ。よく知っていたな、ブータ少年。マガラニカ島の魔王アイーダは元は平凡な貴族の娘だったが、無実の罪を着せられて処刑される寸前、自らを陥れた者たちすべてに復讐するために力を望み、そして魔王化現象を発症してそれを手に入れた。他にも似たような事例はいくつもある。力を欲するとき、魔の魅了は訪れる」
「アザレアさんが力なんて――」
望んだはずがない。
言いかけて、俺は口をつぐんだ。
アザレアさんは学校に通いながら女中の仕事をこなし、魔術師として訓練を受け、実戦経験を積むために冒険者業までしていた。病的なまでのハードワーク。それは何のためだった?
強くなり、俺と共に戦うためだ。
レイドはアザレアさんが魔王化現象を発症したのは二年前だと言った。
そう、二年前だ。俺の元に女中として現れた彼女が『いつか[大魔術師]になって円卓の騎士の一員になる』と冗談を言ったのは。
あれは本当に冗談のつもりだったのか?
王都に帰還したブータに魔力を測定してもらったとき、飛び跳ねるほど喜んで彼に頭を下げて弟子入りしたのは何のためだ?
彼女は、どこまでの力を求めていた?
「心当たりがあるようだな」
レイドが俺の顔を見て、何もかも見透かしているかのように言った。
「……俺と対等でいたいっていう彼女の願いが、魔王化現象を引き起こしたって言うのか」
「その要因の一つとなった可能性は高い。実際のところ、どのような理由で力を望んだかはさほど問題ではないようだがな。重要なのは当人の性質。つまり力を望む純度。意志が強く、こうと決めたら何があっても己を曲げない。そういった者が一番危険なのだ」
レイドが話した人物像はアザレアさんそのものだ。普段は常識人のように振舞っているのに、ここと決めた場面では行動力を見せ、法律すら破り、我を通す。己の死すら恐れない。だからこそ、彼女は先ほど俺を庇って致命傷を受けたのだ。
いや――その人物像に合致する別の人の話を、最近誰かから聞かなかったか?
「魔王化現象を引き起こす三つ目の要因。アザレア・アンソールへの疑いを確信に近いレベルまで引き上げたのはこれだった」
レイドが語る。
「拡散魔王の血を引く人間であること。アザレア・アンソールは初代円卓の騎士の一人、狂人ジョアンの末裔だ」
天幕の中が静まり返った。
俺もレイドが何を言っているのか理解できずにぽかんとしていた。文脈がおかしいように思えたからだ。
ややあってから、口元に手を当てて息を呑んだのはスゥだった。
レイドはそのスゥと視線を交わして頷きあい、何かの認識を共有する。
それからさっぱり理解のできていない他の面々を見渡して、再度口を開いた。
「狂人ジョアンは統一戦争の最中、第三文明の最初期に作られた儀式装置を使用した。真なる魔王に滅ぼされた魔術同盟の残党たちが造った装置だ。我はその装置がある迷宮へ実際に足を運んで調べてみたが、どうやらその魔術同盟の残党たちは、自らを滅ぼした真なる魔王への崇拝の念を抱いていたようだ。現在まで続く魔王信仰の原初の姿と言えるだろう」
レイドは再び天幕の天井を見上げる。
「その儀式装置は世界に穴を開け、発動者を魔力の海と接続させる働きを持っていた。すなわち、真なる魔王と同質の力を与える働きを。造られた時点からすると三百年も後に発生するようになる魔王化現象を人為的に起こすための装置だと言える」
今度は俺が息を呑む番だった。
およそ一月前、時を告げる卵にギルヴァエンの姿が映るようになった日の前夜――つまりは俺が里帰りから王都に帰還した夜に見た夢を思い出す。狂人ジョアンが登場するあの奇妙な夢のことを。
迷宮の最奥で仲間であるロイスやアルマと対峙していたジョアンの背後には、割れた窓を模した不気味な図柄が彫られた石壁があった。
どうして気づかなかったのだろう。“アレ”は地上世界のすべてで禁忌とされているが、同時に誰もが知っている図柄だ。
俺は実際に一度、この目で見たこともあった。人狼の森の、アルマの里のアールディア教会で。
あれは真なる魔王のシンボルだ。