第百五十九話 やはり彼女を女中にしたのは間違いだった
アザレアさんが激しく咳き込んで大量の血を吐く。
それを見たギルヴァエンの小さな口が左右に吊り上がり、顔の端まで裂けていった。
嗤っているのだ。殺意以外の感情を持たないと言われる魔神が。
ギルヴァエンはその表情のまま、アザレアさんの胸に刺さった暗殺者の短剣の柄に手をかけた。しかし抜けない。アザレアさんが深紅のオーラで覆った右手でその短剣の刃をしっかりと握りしめているからだ。
短剣の両側から力が加わったことでアザレアさんの胸の傷はさらに広がり、出血は絶望的な量になった。それでも彼女の右手は刃から離れない。
近接戦闘型ではないとはいえ、魔神将の膂力に真っ向から対抗している――それも瀕死の状態で。魔術で力を補っているのだろうが、それでも俄かには信じがたい光景だった。
ついにギルヴァエンの方が諦めて、単眼から白い光を放って姿を消した。再び《光学迷彩》を使ったのだろう。
アザレアさんはそれを確認すると刃から手を放した。それから俺に向けて満足そうに微笑み、糸が切れたように倒れかかってくる。
俺は茫然自失のまま、両手を広げて彼女を抱きとめた。
その華奢な体には、もうどこにも力が入っていなかった。
「ど……」
どうしてと俺がたずねる前に。
血に染まった彼女の唇が動いた。喉に血が詰まっているからか、あるいは肺が損傷しているからか声は出ないけれど。
よかった。
彼女がそう言葉を紡ごうとしたのは分かった。
「じ、慈悲深き森の女神よ――」
震える声で呪文を詠唱し、シエナから借りた《治癒魔法》をアザレアさんにかける。
だが、まるで効果がない。暗殺者の短剣の治癒阻害の呪いのせいだ。
そのうち、はっきりと分かるほどの早さでアザレアさんの体から温もりが失われていった。僅かに続いていた呼吸も止まってしまう。
彼女の細い手首を握る。
脈拍が、なくなっていた。
俺は蘇生魔法を借りることはできない。使ってるところを見たことがないからだ。
気づけば半狂乱になって叫んでいた。
「シエナ! 来てくれ、シエナァ!」
呼ぶまでもなく、状況を見ていたシエナはこちらへ来ようとしていた。しかし無数の精霊たちに囲まれて身動きが取れなくなっている。
前衛班がシエナのためにどうにか道を開けようと奮闘しているが、すぐには来られそうにない。
医療本部のヌヤを呼ぶべきか? いや、それも時間がかかりすぎる。
「ミレちゃん落ち着け! 技能拡張切れてんぞ!」
《闇の帳》の影響を抜けたのか、ヤルーが焦りを含んだ声で叫んできた。
ほんの少しだけ冷静になって周囲を見渡す。ヤルーとスゥが辺りの闇精霊たちと戦っていた。
召喚した三体の光精霊に指示を出し、ヤルーが俺の方を向く。
「落ち着けって! まだそばにギルヴァエンがいるかもしれねえんだぞ!」
「で、でもアザレアさんが」
「このままじゃミレちゃんまでやられちまうぞ! ってか、おい……」
冷や汗を垂らしてヤルーが指さしたのは、俺の腕の中で眠るアザレアさんの胸元だった。そこに突き刺さっていたはずの暗殺者の短剣がなくなっている。
スゥが闇精霊のうちの一体を斬心刀で斬りつけてから、こちらを見て叫んだ。
「ミレウスさん、前っス!」
アザレアさんの胸元から、視線を上げる。
攻撃体勢に入って《光学迷彩》が解除されたのだろう。今まさに暗殺者の短剣を俺に向けて振り下ろさんとするギルヴァエンの姿が目の前にあった。
俺には聖剣の鞘の絶対無敵の加護がある。どんな攻撃も通用しない。だからか妙に冷静で、まるで時の過ぎる速度が何十分の一にでもなったかのように、暗殺者の短剣が迫ってくるのがゆっくりに見えた。
体は凍り付いたように動かなかったけど。
ああ、でもそうか、暗殺者の短剣の攻撃を喰らったら、ダメージが戻ってきたときに死んで蘇生できなくなるってスゥが言ってたっけ。
そうだ。だからアザレアさんは俺を庇ったんだ。
これも、俺は、避けなきゃいけない。
そう頭では分かっていても体はやはり動かない。
そのうち、短剣の刃は無慈悲に俺の胸に迫り――。
少女の手に掴まれて、その動きを止めた。
「私の」
声がした。
「ミレウスくんに」
怒りに震える声。
左手で暗殺者の短剣の刃を掴んだまま、アザレア・アンソールだったものが上半身を起こし、深紅のオーラで右の拳を覆う。
「手を出すな!」
“それ”は二本の足で大地を踏みしめると、血を吐きながら絶叫し、右の拳を全力で振るった。
巨岩が砕けるような音がして、ギルヴァエンが地面で何度も跳ねながら、ぼろきれのように吹っ飛んでいく。
死んでいたはずのアザレアさんがそれを追いかける。両足に深紅のオーラを集めて、恐ろしい速度で。
ギルヴァエンは俺のいるところと前衛班がいるところの中間あたりでようやく止まった。胸にぽっかりと大穴が空いているが、まるでダメージを感じさせぬ素早さで身を起こす。しかし追いついてきたアザレアさんに蹴りを見舞われて、再び仰向けに倒された。
アザレアさんはさらに追撃しようと拳を振り上げた。だがそれが振り下ろされる前に、ギルヴァエンが下の無理な体勢から暗殺者の短剣を突き出す。その刃はアザレアさんの首を貫通し、うなじから飛び出た。首の動脈、気道、脊椎のいずれか、あるいはそのすべてが損傷しただろう。
それでもアザレアさんは動きを止めなかった。短剣を持つギルヴァエンの腕を掴み、握力だけで握りつぶす。それからギルヴァエンに馬乗りになると、自身の首に刺さった暗殺者の短剣を無造作に引き抜いて、魔神の首や胸に何度も何度も突き立てた。
ギルヴァエンもまた動きを止めない。攻撃を受けながらも鋭利な爪でアザレアさんの腹を切り裂き、臓器を潰す。さらに単眼を様々な色に変えて周囲の精霊に命令を出し、炎や水撃、真空波をアザレアさんに浴びさせる。
不死身としか思えない驚異的な生命力を見せつけて、両者は戦い続ける。
勝敗を決したのは執念、あるいは攻撃性か。
アザレアさんは深紅のオーラで包んだ右手を限界まで広げると、ギルヴァエンの顔面を掴んでその単眼ごと握りつぶした。
なおも動こうとするギルヴァエンの首を左手で押さえつけ、右手を空に向けて呪文の詠唱を始める。
「燐を集め、吐息とせよ。其は竜の猛り――」
最上級難度の魔術だ。
空へ掲げた手の平の上に火球が生成され、呪文が続くほどに膨張していく。
《大火球》。
別の術者が使用しているのを何度か見たことがある。しかしその火球の規模は過去に見たいずれのものよりも巨大だった。王城すら一撃で消し飛ばしそうな、馬鹿げたデカさ。
「そ、総員退避! 退避ぃ!」
上空で飛んでいるブータが叫び、姉弟子であるネフと共に全速で火球から離れる。周囲で精霊と戦っていた後援者たちも、戦闘を放棄して逃げ出した。火球は戦場のどこからでも見えていたから、ブータの声を聞くまでもなかったかもしれないが。
何の対応も取れていなかったのは、茫然と戦いを眺めていた俺一人だった。
「ミレウスさん!」
「ミレちゃん!」
スゥとヤルーが俺を押し倒し、庇うように覆いかぶさってくる。
直後、アザレアさん自身を巻き込む形でギルヴァエンに火球が着弾して爆発し、恐ろしい熱線と光が全方向に向けて膨れ上がった。続いて爆音が耳を襲い、最後に黒煙混じりの爆風が到達する――その寸前。
目の前で空間が歪み、そこから何者かが現れて、俺を護るように立ちふさがった。
緑のマントをはためかせ、大盾を構えた直立するザリガニのような異形の人物。
見間違えるはずもない。円卓騎士団第四席、赤騎士レイドだ。
濁流のように流れる爆風と煙が大盾によって切り裂かれてできた、ほんの僅かな空間。
その中でレイドは俺に告げた。
「少年よ、あれは魔王だ」
「……は?」
「魔王化現象を発症している。死に瀕したストレスが引き金になって急速に進行したのだろう。残念だが、もう手遅れだ」
淡々と口にするレイド。そのザリガニのような二つの目は油断なく煙の壁の向こうを見つめていた。
いつも要領を得ない話ばかりするフリーダムなマイペース野郎だが、今ほど何を言っているのか分からないことはなかった。
魔王――魔王化現象。
この第四文明期における最大の災厄。拡散魔王。
もちろん言葉は知っている。
それがどういう意味なのかも。
だがあそこにいるのは俺の友人で、元同級生で、ただの女の子だ。
魔王なんかじゃない。
爆風が収まるとすぐに、この山特有の気まぐれな強風が煙を晴らす。
火球が着弾した地点には、硝子化した土がキラキラと輝く巨大な爆発跡が残っていた。しかしそのどこにもギルヴァエンの姿はない。灰すら残さず焼き尽くされたようだ。
爆発跡の底ではアザレアさんがこちらに背を向けて、ぽつんと立っていた。女中服はところどころ焼け焦げてはいるが原形を保っており、ロングスカートに空いた穴からは黒いスパッツが見える。……本当に履いていた。
アザレアさんは可視化されたどす黒い魔力を全身に纏っていた。《大火球》の爆発から自身を守ったのはそれだろう。
俺はよろよろと立ち上がり、アザレアさんの方に歩いていこうとした。
だがレイドに腕を伸ばされ、制止される。
反射的に聞いた。
「なんで」
「殺されるぞ」
誰が、誰に。
レイドの返答は相変わらず何を伝えたいのか分からない。
そうこうしている内に、向こう側から誰かが爆発跡に飛び込んだ。
リクサだ。彼女は飛び込んだ勢いそのままに、天剣と地剣を振り下ろした。
無論、爆発跡内に対象は一人しかいない。
「アザレアさん!」
叫ぶ。
この声が聞こえたかどうかは知らないが、アザレアさんは右手の暗殺者の短剣で天剣を、深紅のオーラで包んだ左手で地剣を平然と受け止めた。間髪入れずに回し蹴りを放ち、リクサの胸当てを陥没させて彼女を爆発跡の斜面に叩きつける。浅からぬダメージが入ったのか、リクサは苦悶の声を上げて血を口端から垂らした。
アザレアさんは欠片の躊躇も見せずにリクサへ人差し指を向け、そこから特大の黒い礫を放った。何十倍にも効果拡大をかけた《魔弾》の魔術だ。
それを受け止めたのは《短距離瞬間転移》で二人の間に飛び込んだレイドの大盾。
レイドはすぐさま魔力を帯びた幅広の剣でアザレアさんに斬りかかったが、それは彼女が魔力で作り出した半透明のシールドで容易く防がれた。
なぜだ? なぜリクサはアザレアさんを攻撃した?
なぜアザレアさんはそれに応戦した?
なぜレイドはリクサに加勢した?
いや、そもそもなぜアザレアさんがあの二人と――地上最強と謳われる円卓騎士団の団員二人を相手に戦えてる?
本当に魔王だからなのか?
目の前で繰り広げられる光景はとても現実とは思えなかった。
激しい眩暈がして、地面と空がぐるぐると何度も何度も入れ替わる。
もちろんその間も爆発跡内での戦いは続いていた。
息を合わせて挟撃してくるリクサとレイドを、アザレアさんは十分な余裕をもってさばいている。いや、それどころか強烈な反撃を見舞う余裕すらある。
強い。
これまで戦ってきた滅亡級危険種たちと同等か、それ以上に。
そのうちアザレアさんの唱えた《風撃》の魔術によって、リクサとレイドの二人が同時に爆発跡の外まで吹き飛ばされた。
俺は爆発跡の縁まで走っていって、その中を覗き込む。
アザレアさんは夢遊病者のような、ぼんやりとした目をして立っていた。全身から立ち昇っているどす黒い魔力は怒りと憎悪の具現のようであり、純然たる殺気のようでもあった。見ているだけで、激しい寒気を催すような。
俺の気配に気づいて彼女が見上げてくる。
目と目が合った。
瞬間、アザレアさんの瞳に正気の光が戻ったようにも見えた。すぐに俯いてしまったので断言はできないけれど。
アザレアさんが何かの呪文を唱え始める。
攻撃のためのものではない――《瞬間転移》の呪文だ。
「待って……待ってくれ、アザレアさん!」
その声はきっと届いていただろう。
しかし呪文は完成し、彼女の姿は爆発跡の中から掻き消えた。
首を巡らせて探してみるが、火山盆地のどこにも彼女はいない。きっともうこの山脈にはいないのだろう。そんな気がした。
周囲で暴れていた実体化した精霊たちの姿もなくなっていた。使役者が死亡したことで精霊界へ帰還したのだと思う。
魔神将ギルヴァエン討伐戦は終わった。
代わりに、それ以上の災厄を残して。
爆発跡での戦いを遠巻きに見守っていた後援者や他の円卓の騎士たちは、まだ唖然としていた。しかしそのうち今の出来事を周りの者たちと話しはじめ、すぐに騒然となる。
王として、この場を収めるために何かを言わなければならない。
しかし何をどう言えばいいのか、皆目見当がつかなかった。
「ミ、ミレウスさん……」
後ろから肩を叩かれ、振り返る。
スゥだ。青ざめた顔をした彼女は周囲の視線を遮るように手で覆い隠して、管理者の卵を見せてきた。
卵は今も禍々しい赤い光を放ったままだ。
しかしその内の黒い靄は晴れ、そこに俺の友人の姿を映しだしていた。