第百五十八話 宝玉の魔神に挑んだのが間違いだった
そして陽が傾き、西の空が紅に染まり始めた頃、その時が訪れた。
俺の手の中で時を告げる卵が爆発でもするかのように膨大な赤い光を発し、それがふいに収まる。
同時にクシャ湖のほとりに存在する小さなモニュメント――精霊が作り変えることのできない数少ない金属、真銀で作られた標柱のそばで空間がぐにゃりと歪み、そこから漆黒の体躯を持つ醜悪な人型の化け物が現れた。
宝玉の魔神――ギルヴァエン。
人間より一回り大きいその肉体には、異名のとおり色とりどりの宝玉があちこちに埋め込まれている。その数は千にも及ぶだろうか。
顔面には虹色に輝く巨大な宝玉が一つだけ存在しているが、どうやらそれがこの化け物の単眼らしい。それと不釣り合いなほどに小さな口がその下についていたが、鼻や耳にあたる器官は見当たらない。
右手に握られている黒い刃の短剣は例の暗殺者の短剣だろう。治癒阻害の強力な魔力が付与されているという話だったが、暗殺用のためか魔力付与の品特有の輝きは発していなかった。
その魔神の出現に僅かに遅れ、火山盆地内のあちこちで空間の歪みが生じ、そこから無数の精霊たちが姿を現わす。
水でできた人形サイズの少女――水精霊。
にょろにょろとした気色の悪い蚯蚓の群体――土精霊。
宙に浮かぶ半透明の全裸の美女――風精霊。
燃え盛る火に包まれた金属製の蜥蜴――火精霊。
他にも二つのくりくりとした目玉を持つ発光する白い風船のようなものや、ぬるぬると不気味に蠢く黒い影など、挙げればきりがないほどの多様な精霊たちがいる。まるで精霊の見本市だ。
それらは一斉に動きだし、手近にいる人間に攻撃を始めた。
同時にこちらからも、威勢よく声を上げて飛び出した人物が一人いる。
「イくぜ、オラァアア!!」
今回のメインアタッカーであるデスパー、いや、悪霊である。
ギルヴァエン目掛けてひた走るあの戦闘狂に、周囲の水精霊たちが高圧水流を、火精霊たちが火炎を飛ばす。
しかしそれらが直撃しても悪霊は気にも留めなかった。全力疾走でギルヴァエンのそばまで近づくと、最後の数歩の距離で跳躍し、魔力を帯びた戦斧――『叶えるもの』を全体重を乗せて振り下ろす。
その刃が魔神を捉える寸前、地面が盛り上がり、両者の間に分厚い土壁が生じた。ギルヴァエンが土精霊に作らせたものだろう。
『叶えるもの』はその土壁を見事に粉砕した。だが標的を捉えることはできなかった。土壁の影でギルヴァエンが横へ滑るように動いたからだ。
悪霊が横薙ぎの二撃目を放つのとギルヴァエンが暗殺者の短剣を突き出すのはほぼ同時だった。叶えるものはギルヴァエンの左の腕に半ばまで食い込み、暗殺者の短剣は悪霊の脇腹の隅を抉った。両者共に急所を外しているのは、攻撃と同時に回避行動を取っていたからだろう。ここまではほぼ互角。
しかしさすがに得物の重量差がありすぎた。次の攻撃はギルヴァエンの方が圧倒的に早い。
胸元を狙ってきた暗殺者の短剣での二撃目。悪霊はそれを身をよじって回避しようとした。だが間に合いそうもない。
窮地の悪霊を救ったのは横から振り下ろされた天剣ローレンティアだった。サブアタッカーであるリクサの援護だ。勇者の血で魔神特効が付与された天剣は、突き出されたギルヴァエンの腕をあとわずかというところまで切り裂き、攻撃を止めた。リクサはさらにもう片方の腕で地剣アスターを振るい、ギルヴァエンの胸元に深い傷をつける。
魔神はたまらず後方に飛びのいた。
それを追いながらリクサがメインアタッカーに声をかける。
「デスパー、連携しましょう!」
「了解デス」
デスパーはいつの間にやら理性的な主人格の顔に戻っていた。二人は息を合わせて左右からギルヴァエンに迫る。
だが間合いに入る寸前、魔神の顔面にある単眼状の宝玉が緑色に輝き、二人の行く手を阻むかのように十体ほどの風精霊が召喚された。
風の精霊たちは同時に両手を広げ、歌うように口を開ける。途端、自然には到底発生しえないほどの強烈な突風が巻き起こり、二人は遥か後方まで吹き飛ばされた。
「女神アールディアよ、我らに慈悲深き、その御手を!」
前衛班の後方にいたシエナが呪文を唱え、柔らかい障壁でリクサとデスパーを受け止める。
最初の攻防はこれで終わった。ギルヴァエンが近接戦闘に長けていない個体だからか、あるいはこちらの戦力が増しているからか、南港湾都市でのグウネズ戦と比べるとだいぶ押せている。
しかしギルヴァエンの再生力は他の魔神将と比較しても遜色がなく、二人が与えた手傷はこの時点ですでに完治していた。デスパーが与えたダメージにはエルフの種族固有スキルである【絶対蹂躙】の再生阻害効果も乗っていたであろうにだ。
一方、デスパーが刺された脇腹は暗殺者の短剣の魔力の影響で、まだほとんど回復していなかった。種族固有スキルの【緊急再生】を使っているであろうにも関わらずだ。
もっともデスパー本人にはダメージを気に留める様子はまるでなかった。あいつが気にかけていたのは、シエナのそばで護衛を務めているヂャギーが手にしている武器のことだった。
「ヂャギーサン、ホントに斧槍から乗り換えちゃったんデスね。……残念デス、貴重な斧仲間だと思ってたんデスが」
「ごめんね! オイラ、斬れればなんでもいい主義だから!」
ヂャギーは今年の春先に第五十回剣覧武会で手に入れた片手半剣――『殻砕き』を振り回して、襲い来る精霊たちを撃退していた。
使用者の筋力に比例して剣身が巨大化するというトリッキーな魔力が付与されているあの剣だが、ジャギーは上手く使いこなしている。
その剣の本来の持ち主が、少し離れたところでその会話を聞いてぼやいた。
「斬れりゃなんでもいいって、それ一応俺んちの家宝なんだけどな。ま、俺も主義は一緒だが」
不敵に笑うグスタフ。彼もまた襲い来る精霊たちを相手に奮闘していた。手にしているのは魔力を帯びた大剣。四大公爵家の当主なのだから当然だが、殻砕きと同等かそれ以上の性能の魔剣くらい、何本も所持しているのだろう。
グスタフのそばでは同じく四大公爵家の当主であるエドワード・コーンウォールとマーサ・ルフトが戦っていた。エドワードは勇者の血で精霊特攻を付与した直剣を振るっており、マーサは元から同じ効果がついていると思しき短剣を使っている。
クシャ湖のほとりは精霊と後援者たちが激しく入り乱れる混戦の様相を呈していた。
あちらで隊列を組んだ騎士たちが土精霊の作り出す土人形と戦っているかと思えば、別のところでは盗賊たちが火を噴く火精霊の周囲を動き回り、その金属製の体の隙間に短剣を突き立てる隙をうかがっている。
また他方では魔術師たちが水精霊たちと水流と火炎の撃ち合いをしており、さらに別の場所では傭兵たちが上空から真空刃を放ってくる風精霊を相手に弓矢で奮闘している。
精霊使いの後援者は数こそ少ないものの、本業なだけあって精霊の性質をよく把握しており、相性のいい精霊を召喚するなどして活躍していた。
戦場のあちこちに配置された司祭たちは軽傷の者はその場で癒し、そうでない者は応急手当をしてから後方の医療本部へと連れて行っている。
極めて混沌とした戦場。
しかし指揮系統は混乱していなかった。地上からは盗賊ギルドのスチュアートと傭兵ギルドのイライザが、空からは《飛行》の魔術で飛んでいるネフとブータが指揮しているからだ。また劣勢となっているところがあれば、遊撃隊として動いているナガレ、イスカ、ラヴィの三人が駆け付けており、大きく崩れされている場所はない。
自然界に存在する下位精霊のモンスターレべルは最低でも百を超す。ギルヴァエンはどうやらこの数の精霊すべてに最大限に力を発揮させているらしい。つまり、二年前に魔神将グウネズが南港湾都市に大量展開した“影”と同等かそれ以上の強さを一体一体の精霊が持っているということだ。
だがここまでのところ、優勢とまでは言えないが十分に戦えている。作戦が良かったのもあるだろうが、ここ一月の間に精霊対策の講習を何度も行ったことや、精霊に効果のある魔力付与の品を全員に貸与したことも功を奏しているのだろう。
この拮抗した戦況をこちらに傾けたい。
そのためには、やはり――。
「よーし、そろそろいいぜ、ミレちゃん」
前衛班からかなり離れた位置で戦場を眺めていたヤルーが、俺の方を向いて頷いた。
【精霊退散】のスキルは[精霊使い]に使役されている精霊に使う場合、その[精霊使い]の波長のようなものを理解しないと使えないそうなのだが、どうやらギルヴァエンのそれを解析できたらしい。
俺は大きく深呼吸をするとヤルーの後ろに立ち、聖剣の切っ先を天に向けて技能拡張を開始した。
精神を同期するこの能力は、ペアとなる相手によって大きく感覚が異なる。
ヤルーとの技能拡張は、これまで行った誰との同期よりも静かで穏やかなものだった。常におどけているこの男が、こんな凪いだ海のような精神を持っているとはあまりにも意外である。
俺の驚きが伝わったのだろう。ヤルーが振り返り、ニィっと口端を上げる。
やがて精神同期が深化していくと、この火山盆地内に元々いた実体化していない精霊たちのことも感じ取れるようになった。普通の五感とは異なる感覚で、“そこ”にいると分かる。[精霊使い]は普段、こんな風に精霊のことを“見て”いるのか。
「よし、いけるぞヤルー!」
技能拡張が完成したことを伝えると、ヤルーは近くで後援者たちと戦っている精霊の方を向いて右手を挙げた。
「契約を破棄し――自己責任で――在るべき場所へと還れ、土精霊!」
瞬間、その土精霊は光の粒子となって跡形もなく消え去った。
【精霊退散】は相当な実力差がなければ成功しない。当然、魔神将の使役している精霊に使うとなると凄まじい難易度になる。だがそこは技能拡張が解決してくれていた。
手ごたえを感じたのか、ヤルーは【精霊退散】を連発して周囲の精霊たちを次々と精霊界へ還していった。本来は一体を行動不能にするのにも骨が折れる相手だ。それをポンポンと消していくとなると戦況への影響力は計り知れない。
異常を察知したギルヴァエンが、ヤルーのところに近場にいた精霊たちを差し向けてくる。
それを撃退するため、俺は聖剣を手に動こうとした。だがそれよりも早く、そばにいた女中服の少女が反応した。
「ミレウスくんは集中してて!」
アザレアさんは魔力を深紅のオーラに変換し、両手の先に鋭い鉤爪を形成して、襲い来る精霊たちを迎え撃った。その鉤爪は土精霊の作り出した土人形を簡単に両断し、火精霊の金属製の肉体も易々と切り裂く。彼女が得意とする自操系統という自分の体を強化するのに特化した系統の魔術だ。
いざとなったらアザレアさんを守るつもりでいたのだが、逆に守られてしまっている。しかし心配にはならない。それだけ彼女は強くなっていた。
戦場で躍動するアザレアさんはどこか嬉しそうにも見えた。俺と共に戦うことをずっと望んでいたからだろう。
俺も――本当はこんな風に対等に、共に戦う関係を望んでいたのかもしれない。
「やるっスねぇ、アザレアさん」
念のために俺たちの護衛につけていたスゥが感心したように目を丸くして、斬心刀を手の平から出してアザレアさんに加勢した。
二人に守られながら、ヤルーは精霊たちを精霊界に還していった。するとそれを相手にしていた後援者たちの戦いが楽になっていき、遊撃隊として動いていたナガレ、イスカ、ラヴィの三人がギルヴァエンと戦っている前衛班の加勢に回れるようになった。そうなるとギルヴァエンは後援者たちを襲わせている精霊を自分の防護に回さざるを得なくなり、後援者たちの戦いは更に楽になっていく。
期待どおり、戦況は完全に傾いた。
ギルヴァエンもそれを悟ったのか、風精霊を召喚して自らを空へと運ばせ、逃亡を図った。
無論、そう動くことも想定していた。
「させるかよっ!」
すかさずヤルーが【精霊退散】を使って、ギルヴァエンを運んでいた風精霊を精霊界に還した。
重力に引かれて地面に着地するギルヴァエン。そこにデスパーとリクサが追い打ちをかけにいく。
だがその前にギルヴァエンの単眼が黒く染まり、十数体の黒い影が奴の周囲に召喚された。その精霊たち――闇精霊がギルヴァエンに吸い込まれていったかと思うと魔神の肉体が揺らめき、目の錯覚でも起きたかのようにブレて、まったく同じ姿の二つに分かれる。
分かれた二つの体は四つに。四つの体は八つに。倍々に増えていき、その数はあっという間に数十体に達した。
精霊魔法の《影分身》だ。分身は張りぼてに過ぎず、本体のような力は持たない。暗殺者の短剣もコピーされているように見えるが、見かけだけである。ただのかく乱のための魔法だ。
これを使ってくることも想定の範囲内である。
上空を飛ぶブータとネフを見上げると、二人は揃って首を横に振った。やはり魔神将の使う姿欺きを見破るのはあの二人でも無理らしい。
しかしアザレアさんは目を大きく見開くと、迷うことなく指をさした。
「あそこ!」
彼女の人差し指の先から白い光の筋が伸び、一体のギルヴァエンを照らす。初級難度の魔術だが、効果は覿面だった。
他の分身たちのことは無視して、リクサとデスパーがその一体に殺到し、攻撃を仕掛ける。
そいつは体内から闇精霊たちを放出して二人の足止めをさせ、その間に後退する。同時に他の分身は消失した。やはりそいつが本体だったらしい。
いける。
期待していたとおり、アザレアさんならギルヴァエンの姿欺きを見破れる。これで不安要素はもうない。もはや勝敗が決するのは時間の問題のように思えた。
他のみんなも同じことを思ったに違いない。
そんな僅かな気の緩みが戦場に流れた一瞬の隙に、ギルヴァエンが単眼を再び漆黒に染め、闇精霊たちを召喚しなおした。
今度は奴の周囲にではなく、俺たち――後衛班のすぐそばに。
「こ、こんな離れたとこに召喚できるなんて聞いてねえぞ!」
ヤルーが情けない叫び声をあげ、首を巡らす。しかし逃げ場はない。
俺たち四人を取り囲んでいる十数体の闇精霊は、一斉に黒い霧のようなものを浴びせかけてきた。
《闇の帳》。対象の視力を一時的に奪う精霊魔法だ。
俺には何の変化もなかった。聖剣の鞘の絶対無敵の加護が発動したのだろう。スゥは半魔神という特異な体質だったからか無事だった。しかしアザレアさんとヤルーは抵抗できなかったらしく、よろめき、焦点の合わぬ目をしてあちこちに首を向けた。
上空からブータが戦場全体に向けて警告を発する。
「気をつけてください! ギルヴァエンが消えましたぁ!」
見ると、リクサたちが追いかけていたヤツの姿がどこにもなくなっていた。
《光学迷彩》。光の軌道を操り、姿を隠すというあの精霊魔法を光精霊に命じて使わせたのだろう。ヤツの姿欺きを見破れるアザレアさんが機能不全に陥っている現状、それはあまりにも危険すぎた。
この機にギルヴァエンは逃げるだろうか。
いや、そうとは思えない。きっと攻めてくる。
だとすれば、どこを狙ってくるか。
決まっている。この戦いの胆であり、現在無防備になっているヤルーとアザレアさんのどちらかだ。
「スゥ、ヤルーを頼む!」
言うなり、俺は聖剣を構えてアザレアさんを守るようにその前に立った。
直後、肩を掴まれて、引き倒される。
他ならぬ、アザレアさん自身の手によって。
後頭部を地面にしたたかに打ち付けた後、すぐに上半身を起こす。
視力を奪われているからバランスを崩して俺の肩を掴んだのだろうか。
そう考えたが、すぐに違うと気づく。
アザレアさんは俺に背を向けて、目の前に立っていた。
その背中からギルヴァエンの暗殺者の短剣の刃が突き出ている。
庇われたのだ。
彼女のすぐ向こうに、ギルヴァエンの姿が見えた。攻撃行動を取ったことで《光学迷彩》が解除されたのだろう。恐らくアザレアさんは寸前に《闇の帳》の影響を抜け出し、姿を消して接近してきていたギルヴァエンの存在を見破り、その攻撃から咄嗟に俺を庇った――。
アザレアさんが振り返る。
暗殺者の短剣が貫いているのは彼女の胸の中央だった。そこから鮮血がとめどなく噴き出し、俺の顔や胸にかかる。重要な臓器が傷ついていることは誰の目にも明白だった。
それは明らかに致死量の出血であり、確実に死に至る傷だった。