第百五十七話 精霊山脈に来たのが間違いだった
精霊山脈というのはウィズランド島北西部に連なる峰々の総称である。
その名のとおり多様な属性精霊が棲むのだが、言うまでもなく一般人にとってはただの危険地帯であり、住民はほとんどいない。
しかし[精霊使い]にとっては聖地であり、都合のいい修行場所でもある。そのため高い入場料を払ってまで登る者が毎年それなりの数いるらしく、中にははるばる大陸から訪れる者もいるという。
魔神将ギルヴァエン討伐作戦会議からきっかり一月経った日の昼下がり。俺と円卓の騎士の面々、そして数百名の後援者たちはその精霊山脈の主峰であるアーサマ山にいた。
大きな火山盆地を持つこの山の最高標高地点は、その火山盆地の縁にあたる尾根にある。俺はそこに立ち、嵐のような強風に弄ばれる髪を押さえながら独り言ちた。
「うーん、絶景、絶景。安全だったらいい観光資源になりそうなもんなのになー、ここもさー」
南を向くとウィズランド島を東西に貫くヤノン山脈の雄大な姿を一望でき、南西を向けば荒漠としたオグ砂漠が、北西を向けばこの島最大の湖であるリュート湖が見えた。
一方、足元の火山盆地内部に目を向けると、大小無数のごつごつとした岩が転がる鍋のような地形の底に円卓の騎士や後援者のみんなが散らばっているのが見えた。鍋の底の中央に当たる位置には火山活動によって形成されたと言われるクシャ湖が青く澄んだ水を湛えて佇んでおり、その向こうではこのアーサマ山の火口が白い煙をもうもう立ち昇らせている。
過酷な環境のため、植生もなければ動物もいない。一羽の鳥も飛んでいない。
天国のように美しい、地獄のような場所。
この光景を作り出しているのは精霊たちだ。それぞれの属性の精霊がそれぞれが望む環境に作り替えようと日夜活動しているため、この山は常にその姿を変えている。ここへ登り始めた頃からずっと吹いているこの強風も風精霊が起こしているものだ。その証拠に風向きは脈絡も規則もなく、ころころと変わっている。
精霊は普段は実体化していないため、目には見えない。しかし稀にその存在を感じ取れる人間が生まれる。それが[精霊使い]だ。
「お、ミレちゃん。肩んところに風精霊が座ってるぜ」
ヤルーがえっちらおっちらと火山盆地の坂を上って俺のところへやってきて、冗談めかして指をさしてくる。
九割九分嘘だと思うが、見えない以上、俺には真偽は分からない。なんとなくホントに座られてたら嫌だなと思ってぱっぱっと払うような仕草をしてみると、ヤルーが喉を鳴らして笑った。やはり嘘だったらしい。
「なぁヤルー。お前には見えてるんだよな。精霊ってどの辺にいるんだ?」
「そこらじゅうにウジャウジャゃいるぜ。風の中にゃー風精霊が舞ってるし、火山湖じゃ水精霊が気持ちよさそうに泳いでる。でけぇ岩のそばじゃ土精霊が頑張って仕事してるし、向こうの火口にゃ火精霊が群れを作ってやがる」
「……ふと思ったんだが、ギルヴァエンの使役してる精霊を精霊界に強制送還したところで、周囲にいる野良精霊を使われたら一緒じゃないか? こんなところに来てから聞くべきことではないと思うけど」
もしそうなら作戦の発案をした時点でこいつから指摘されていただろうから、念のための確認だ。
案の定、ヤルーは小ばかにしたように肩をすくめた。
「どんなに強力な[精霊使い]だろうと契約なしで精霊を働かすことはできねーんだ。んで、契約ってのはそんな一瞬でできるもんじゃねえ。だからミレちゃんが心配するようなことは起きねえよ。契約の結び方は[精霊使い]によってまちまちだけど、それだけは間違いねえ」
話しながらヤルーが取り出したのは、魔導書『優良契約』。
こいつがこの本を使って精霊と契約するところに立ち会ったことが何度かあるが、確かに一瞬で終わるようなことではなかった。戦闘をしながらなら、なおさら難しいだろう。
「その本、確か前に精霊図鑑って別名があるってお前、話してたよな。それぞれのページに契約すべき精霊が載ってて、それをコンプリートすると凄いことが起こるとかって思わせぶりにさ。何が起こるのか、そろそろ教えてくれよ」
「あーん? ……そうだな。そろそろいいか」
ヤルーは優良契約を開くとそちらに視線を落とし、ペラペラとページをめくる。
「これをコンプリートするとだな。――黄金郷への扉が開く。そこには世界すべてを手中に収められるほどの力が眠っているとかいねえとか」
「なんだそれ。眉唾もんだな。そもそもまだ曖昧だし」
「俺っちも詳しくは知らねえんだよ。まぁコンプできた暁にゃあミレちゃんも黄金郷に連れてってやるから安心しな」
「頼んでないが? なんか怖いし……」
人の話を無視して、ヤルーは本をぱたりと閉じた。
「こいつにはこの島全域で獲れる精霊のページが用意されてる。裏返せばこの島と近海だけでコンプリートできるようになってるわけだ。で、俺っちは五年か六年かかけてこつこつ島中回ってだいたいのエリアの精霊を登録してきたわけだが」
「仕事サボって出かけてな」
「話の腰を折るなよ、ミレちゃん。えー、で、だいたいのエリアは制覇できたんだが、あといくつか、一人で行くには危険すぎるエリアが残ってんのよ。特にやべーのがあそこ」
ヤルーが親指でさしたのは南のヤノン山脈の方だった。それもその主峰にしてウィズランド島の最高峰である活火山、ウィズ山の方。王都の真北に位置するあの山は長いこと噴火はしていないが、高レベルの危険種が多数生息しているため、立ち入りが禁止されている。
ヤルーが言いたいことを薄々察した俺は即座に首を横に振った。
「言っとくけど手伝わないぞ。そんな暇ないし」
「冷てえ! いいじゃんかよー、今日死ぬほどがんばるからよー」
「仕事なんだから頑張るのは当たり前だろ。その対価としてこの山脈の領主にもなってんだろ、お前」
「そうだけどよー。頼むよーミレちゃんー」
「ええい、いい大人がそんな顔して泣くな!」
半べそを掻いて抱き着いてくるヤルーを押しのけ、俺は火山盆地の中へ慎重に降りて行った。ここもまた危険地帯であり、平時から立ち入り禁止に指定されている。入山料を支払ってもこの盆地にまでは入れないわけだ。
もっとも今日はこれから行う戦いを隠蔽するため山脈全体を立ち入り禁止にしているため、俺たちの他には誰もこの山にはいないはずだった。
「くっそー。考えといてくれよー。この仕事終わってからでいいからよー」
俺に続いて火山盆地の底に降りたあと、ヤルーは必死そうな顔でそう言い残してクシャ湖の方に歩いていった。
そしてそれと入れ替わるようにして、幾人かが俺のもとにやってきた。ラヴィとブータ、それに短剣を刺したホルダーを腰にまいたコロポークルの女性――四大公爵家の一角であるルフト家の当主マーサ・ルフトと、軽装の痩せこけた尖り目の男――盗賊ギルドの後援者代表であるスチュアートだ。
スゥの持つ管理者の卵に映しだされた、黒い靄をまとう人物について俺が調査を命じたチームである。
「いやぁ、ミレウス陛下。ここ一月、例の件の動きがなくてよかったですなぁ」
俺の前に来るなり慇懃に頭を下げるスチュアート。他の後援者たちと距離は離れているが、誰が【聞き耳】を立てているか分からない。だから言葉をぼかしているのだろう。
俺は一つ嘆息してから、頭を上げるよう指でジェスチャーする。
「結局なんの手がかりも得られてないんだから、よかったとは言えないだろ」
「チューッチュッチュ! 少なくとも“中”にはいなさそうと分かっただけでも収穫だと思いますがね」
“中”というのは後援者の中、ということだろう。ここ一月、四人には後援者のメンバーを重点的に調べてもらったのだ。
今日のスチュアートはやけに上機嫌だった。媚びを売るように手もみしながら、顔を寄せて囁いてくる。
「意外でしたよ、陛下。俺たちに依頼してきたってことは信頼してくれてるんですねぇ。少なくともこいつらではないって」
「別にお前たちだけじゃないよ。最初から“中”にいるとは思ってないし、思いたくもない」
「チューッチュッチュ! 百パーそうだと信じてるなら“中”を探せとは命じないでしょうよ。……実際、俺も“中”が一番怪しいと思ってたんですがね」
会話を交わしながらもスチュアートは周囲へと油断なくその尖った目を向けていた。他の後援者たちが、何を話しているんだろうかとこちらを向いているのが見える。
こんな場所で話す話題ではないとは思っていたが、もしかして靄の人物をあぶり出す目的でしているのか。
彼の実姉であるマーサ・ルフトが話を引き継ぐ。
「“外”も調べ始めてはいますが、まだ手ごたえなしですわ」
「“外”って言っても広いからなー。まぁそんな焦らなくていい。気取られないよう、慎重に頼むよ」
「おほほ。ええ、ええ。心得ております」
上品に笑ったのち、弟と同じように慇懃に頭を下げて承知の意を示すマーサ。彼女もまた、十分に周囲に気を配っていた。
ルフト家と盗賊ギルド。この二百年間、情報操作や諜報で円卓システムを支えてきた二つの組織の長が“中”にはいないと言い切ったのだ。信じていいだろう。正直俺は安心していた。
もっともラヴィとブータは安心からは程遠い顔をしていた。げっそりというほどではないにせよ、疲れた顔だ。
「ミレくん、こんな面倒な仕事押し付けてくるなんて酷いよー。しかも責任重大すぎるしさー」
「そ、そうですよぉ陛下。ボクなんて心配で心配で、ここのところ夜も眠れてないんですよぉ」
息を合わせて不平を言いながら詰め寄ってくる二人。この島すべてを滅ぼすかもしれない人物を極秘裏に探し出せ、なんて命じられているのだから仕方のないことである。
俺は二人の頭をぽんぽんして、誤魔化すように笑った。
「悪い、悪い。でも君らにしか頼めないことだからなんとか頑張ってくれよ。……まぁそっちについてはこれが終わってから考えよう。とにかく今はギルヴァエン戦だ」
強引に話を切り上げ、その場を離れる。
火山盆地の底に展開している後援者たちの配置はかなり大雑把なものだった。というのもギルヴァエンが引き連れてくる精霊たちがどのように出現するか分からないからで、その辺りはぶっつけ本番で臨機応変に対応するしかないと結論が出ている。
武具の最終調整をしている騎士たち。
利用できそうな岩の配置を確認している盗賊たち。
戦術のプランを練る魔術師たち。
まだリラックスして休息している傭兵たち。
いずれも俺が歩いているのを見ると、すぐにかしこまって挨拶してきた。直立不動で敬礼したり、愛想笑いを浮かべて会釈をしたりとその挨拶の仕方は様々だったが、みんな数回に渡る滅亡級危険種との戦いを共に乗り越えてきたヤツらだ。全員の名前を知っているわけではないけれど、彼らに対しても俺は仲間意識を持っていたし、彼らの方も少しくらいは俺に親しみを覚えてくれてると思ってもいた。
この中に靄の人物がいるかもしれないと疑ったままギルヴァエンとの戦いに臨まずに済んだのは、確かに収穫だったかもしれない。
そんな風に辺りをキョロキョロ見ながらしばらく歩いていくと、今回の主戦場となるクシャ湖のほとりからはかなり離れたところで、探していた友人が歩いているのを見つけた。
彼女の方も俺に気づいたようで、手を振りながら小走りでやってくる。
「おーい、ミレウスくん。なにやってるの、こんなところで」
「アザレアさんを探してたんだよ。そろそろ配置についておいた方がいいからね。そっちこそなにやってたの、こんなところで」
「医療本部設置するの手伝ってたんだよ。エルさんとアールさんが主導でやってるから」
アザレアさんは俺のところに着くなり振り返った。彼女の視線の先には急造の白いテントがいくつか立ち並んでいる。
「ああ、なるほど。……こうしてみると、なんか南港湾都市でのグウネズ戦思い出すな」
「ね、似てるよね、あの時と。変わったこともいくつかあるけど」
広い範囲が戦場で、魔神将本体を俺たちが相手にして、周りの小物を後援者に相手してもらうという構図は二年前のあの戦いにそっくりだ。違うのは今回は市街地でないため、周囲を結界で覆っていないこと。あとは目の前の少女の役割だろうか。
アザレアさんと並んでクシャ湖の方に歩いていく。彼女は後援者たちの多種多様な様子をのんびり眺めながら目を細めた。
「グウネズ戦、懐かしいねー。私、あの時はただ、医療本部の手伝いしてただけだったなー」
「だけってことはないでしょ。ラヴィのこと助けただろ? 絶体絶命のピンチからさ」
「あれは成り行きでたまたまそうなったってだけだから、私の中ではノーカンだよ、ノーカン」
謙遜というより本気でそう思ってる様子で、アザレアさんは頭を振る。
あの頃のアザレアさんはまだブータから魔術を習い始めたばかりで、ごく初歩の術しか使えなかった。それでも魔神将のすぐそばまで来てラヴィを助けた。元々彼女のことを勇気と行動力のある人だと評価はしていたが、あそこまでだとは思っていなかった。
今日も後衛とはいえ魔神将を相手に正面から戦うというのに、恐れなど微塵も抱いていないように見える。
「私もようやくミレウスくんの力になれるよ」
感無量といった様子で呟くアザレアさん。
彼女が後援者の末席に加わったのはまさに二年前のグウネズ戦の時だった。あのとき彼女は『対等な立場でいたいから、微力かもしれないけど、やれることはしたい』と話していた。
少しでも俺と対等に。少しでも近く。
今回の彼女の役割はまさに彼女が望んでいたとおりのものだ。だから喜びが勝って、恐怖心が麻痺しているのだろうか。
彼女を後援者にしてからの――いや、彼女を女中にしてからの二年間の働きを思い出し、前を見ながら俺は言った。
「アザレアさんはこれまでも十分力になってくれてたよ。普段は女中の仕事してくれてるし、滅亡級危険種との戦いでだって毎回しっかり自分の役割を果たしてくれてる」
「そうかもしれないけどさー。そういうのじゃなくてさー。肩を並べて戦うのが大事というか。対等な仲間というか……。いや、円卓騎士団を束ねる国王陛下様相手に対等な仲間だなんて言うのは不敬にもほどがあるけどね」
「いいよ、別に。アザレアさんに今までどおりに接してくれって言ったのは俺だし」
「うん。まー、何が言いたいかというとね。とにかくうれしいんだ」
下から覗き込んでくるように、アザレアさんが満面の笑みを浮かべる。
ドキッとする。
中等学校でクラスメイトだった頃からよく笑う子だったが、少し笑い方が大人びてきたようにも思う。そういえば昔はそんなに身長は変わらなかったのに、今では俺の方がだいぶ高い。
「……ところでアザレアさん。俺たちこれから戦闘するんだけど、その格好でいいの? 今日はけっこう動き回ると思うけど」
不安になってたずねたのは、彼女がいつも通りの女中服に身を包んでいたからだ。
アザレアさんはご機嫌な様子でその場で一回転し、フリルのついたロングスカートの裾をふわりと浮かせてグッとガッツポーズを作る。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。今日は戦闘用メイド服だから」
「……いつもと変わらないように見えるけど?」
「下にスパッツ履いてる」
「それだけかよ!」
けらけら笑うアザレアさん。
「意外と動きやすいからこれで平気だよ。王城の廊下の雑巾がけだってこれでやってるんだから」
「ならいいけど。……しかしスパッツか。ふぅむ」
「なぁに? 見たかった?」
「見たくないと言えば嘘になる」
「ほほう、ではミレウスくんの王様権限で王城の女中にミニスカ履かせて、その下にスパッツ履かせてみたらどうかな」
「それも悪くないけど、女中服はロングの方が好きだからなー。ってか、そんなんしたらミレウスミニスカ王とかって不名誉な異名つけられちゃうでしょ」
「ミレウス焼豚王よりかはいくらかマシだと私は思うよ」
「いや、ミニスカ王の方が絶対ヤバいって」
そんなバカバカしいやりとりをして、二人で笑う。
周囲の後援者たちが何事かと見てくるが、まさかこんな話をしているとは思っていないだろう。
そう、俺は王になってからの二年間、アザレアさんと過ごすこういう何気ない時間に、ずいぶん助けられてきたのだ。王になる以前の、気楽な一国民だった頃の気持ちを思い出せるから。
だから、彼女と対等でなかった日など一日としてなかったつもりで、俺はいたのだ。