第百四十八話 美学を理解しようとしたのが間違いだった
去年の初冬に人狼の森で行われた決戦級天聖機械ウルト討伐作戦のしばらく後。
我が母にして円卓の騎士の一人であるスゥはその作戦中に話していたとおり、共に大陸を旅していた頃のように様々なことを教えてくれるようになった。もっともその指導法はかつてのような優しいものとはかけ離れていたが。
「ミレウスさんは聖剣と鞘に頼りすぎっス。戦闘経験がないから仕方ないとか言ってたっスけど、だからこそビシバシ鍛える必要があるっス。ミレウスさんの命を守るためっスからね。手加減はしないっスよ」
長く積もっていた雪が溶け、春の気配がし始めたある日、王城の中庭で腕立て伏せをしながら俺はその話を聞いていた。スゥの声は真上から聞こえる。というのも、彼女が重しとして俺の背中に乗っているからだ。彼女の小さな臀部の肉の感触がするが、それを堪能している余裕はない。
「まずは基礎筋力っス。基礎体力の方はヂャギーさんと一緒に早朝ランニングしてるからかなかなかのものっスけど、筋力はごく平凡っス。ミレウスさんもここ最近でだいぶ身長が伸びたっスから、そろそろ本格的に筋トレしていい時期っス」
実はすでに腹筋を百回こなした後である。
俺はゼェハァ言いながら、スゥの分の重量が足されている体を両腕で上下させた。
「筋肉をつければ動作の一つ一つに余裕が出るっス。そうすれば回避できない攻撃が回避できるようになるし、致命傷を軽傷で済ますこともできるっス。それは滅亡級危険種が相手の戦いでも必ず生きてくるっス。それに今後戦う相手は滅亡級危険種だけとは限らないっスよ。そういう時、鍛えておいてよかったなって必ず思うはずっス」
「そ、そう、かな?」
「間違いないっスよ。はい、五十回突破。あと五十回っス」
そろそろ腕と肩の限界が近づいていたが、スゥの口ぶりは休憩など到底許さない強い意志を感じさせた。
今にも倒れそうになりながら一回、また一回と腕立て伏せを続けていく。
「いいデスよ! キレキレデスよ、国王サマ!」
「いいよ! 仕上がってるよ、みーくん! ナイス筋肉!」
デスパーとヂャギーが応援をしてくれる。が、それが励みになるかと言えばそうでもない。
二人はそばで俺と同じように腕立て伏せをしているのだが、こなす速度と回数が俺とは段違いだし、疲れているような様子も微塵もない。まるで超人と一般人の差を突きつけられているようである。
他にそばにいるのは栗鼠のように丸まって昼寝をしているイスカだけ。残りのみんな――円卓の騎士の面々やアザレアさん――は例の池のほとりで釣りを楽しんでいる。
「九十八、九十九、百! はい、お疲れさまっス」
「し、しんどいぃ」
俺は泣き言を漏らして、仰向けに倒れた。酸素を求めて喘いでいると、ひょいと頭を掴まれて、スゥに膝枕をされる。それから冷たいドリンクの入ったコップから伸びたストローを流れるように口に押し込まれた。
「お疲れ様っス。よく頑張ったスね」
にっこりと笑うスゥ。俺はそれを見上げてどうにか小さく頷き、ドリンクを飲み干す勢いでストローを吸い始めた。
スゥは乳酸の溜まった腕と肩の筋肉を優しく揉みほぐしてくれる。鍛錬中は鬼のように厳しいが、終わった後は聖母のように甘やかしてくれる。その飴と鞭の使い分けは現実主義者と呼ばれた剣豪ガウィスらしいと言えばらしかった。
そこでまどろみから目覚めたイスカが背後からスゥに抱き着き、その背中に甘えるように頬を寄せた。
「おかーさん、イスカにもひざまくらしてー」
「はいはい。イスカさんはいくつになっても甘えん坊っスねぇ」
「わーい、おかーさんだいすき!」
二百年前――初代の頃から二人の関係はこんな感じだったらしい。スゥは額に小さな角の生えたイスカの頭を撫でると、俺の両肩を掴んで無理やり上半身を起こしてきた。
「じゃ、ミレウスさんは次、スクワット百回っス。それが終わったら打ち込み稽古っスよ。あーしの東洲北辰流は刀の技術体系っスけど、直剣にも応用できるところは多々あるっス。しっかり体に教え込んであげるから覚悟してほしいっスよ。ああ、あと少し余裕が出てきたみたいなんで明日からは筋トレの回数、段階的に増やしていくっス」
そう告げたスゥの笑顔は、聖母のそれから鬼教官のそれへとすでに戻っていた。
☆
『さぁー盛り上がってまいりました、一回戦第四試合!』
『様子見は終わり! ここからはミレウス陛下からも仕掛けていくでしょう!』
エルとアールの元気な声で、辛くも楽しい――いや、基本的には辛かった特訓の日々の回想から現実に引き戻される。
今考えると、あの時のスゥの発言は剣覧武会に俺を出場させることを見越してのものだったのだろう。なるほど、確かに今後戦う相手は滅亡級危険種だけではなかったし、鍛えておいてよかったとも思う。それならそうとちゃんと話してくれればよかったのにとも思うけど。
俺は聖剣を構え、舞台の上で待つグスタフを視界の中央に見据えると、まずヂャギーから【自傷強化】を借りて、四重に重ね掛けした。副作用である全身の裂傷は聖剣の鞘の絶対無敵の加護が先送りにしてくれる。
続いてラヴィから[怪盗]の奥義である高速移動術――【影歩き】を借りて、グスタフとの距離を一気に詰める。それからすかさずリクサから【剣術】を借りて、上段から全力で打ち込んだ。
グスタフは片手持ちの殻砕きで受けようとした。しかし先ほどの俺のように大きく弾かれ体勢を崩す。この体格差で力負けするとは思っていなかったのだろう。奴が驚愕に目を見開くのが見えた。
続く俺の下からの第二撃をグスタフは両手持ちで受けようとした。しかしそれでも完全には止められず、威力を流すために後ろに一歩下がる形になる。
再び上からの振り下ろしとなった三撃目は完璧に止められた。グスタフが重心を落とし、全力で受けに回ったためだ。
強力な魔力を帯びた二つの剣が打ち合うたびに、火花のような魔力の光の粒子が辺りに飛ぶ。グスタフの愉悦に満ちた顔がそれに照らされた。
「いいねぇ! 楽しいぜ、ミレウス!」
「呼び捨てになってるぞ! いいけどな!」
反撃の機会を与えぬため、右から左から次々と打ちこむ。殻砕きの巨大化は近接戦に持ち込めば無力化できる。一気に攻め立て、距離を取る隙を与えない。
ここまでやれているのは、やはりスゥによる地獄の特訓のおかげだ。【自傷強化】はあくまで体の潜在能力を引き出すに過ぎない。よってその効果の上限は素の筋肉量に比例する。あの筋トレの日々がなければこの力自慢相手に真っ向勝負を挑めていたかは分からない。
しかし攻撃を続けるのはいいが、なかなか打ち崩せなかった。体力勝負となれば当然俺が不利だ。体力の消耗の激しい攻め手側なのでなおさらである。もっともこうなるだろうとは思っていたので、策は考えてあった。
リクサの正統派剣術にグスタフが慣れてきた頃合いを見計らい、俺は動きを変える。
足運びはすり足に、正眼に構えた剣の剣先は上下に揺らして攻撃の起こりを分かりにくくする。大きく振りかぶっていたのもやめて、膂力だけで斬り落とすように、速く正確に剣を振るう。
これにはグスタフも面食らったのか、僅かに反応が遅れた――が、それでも殻砕きによる受け流しは間一髪、間に合った。
「ビビったぜ。なるほど、スキルを借りられるとは聞いてたが、こんな風に変化をつけることもできるわけか」
続く連撃を捌きながら、感心したように眉を上げるグスタフ。
「しかしだいぶ下手くそな技だな。誰のスキルだ?」
「自前だよ、これは」
東洲北辰流。我が師、剣豪ガウィスが同じ初代円卓の騎士の一人である帰還者シャナクから教わった剣術である。これはスキル化されてないので、俺が練習して身に着けた分しか使えない。グスタフにも言われたとおり、そのクオリティはお粗末なもので、聖剣で借りている他の技には遠く及ばない。だがこれ単体で倒すつもりはないのでそれでいいのだ。
リクサの剣術をメインに東洲北辰流をアクセントに攻め立てる。狙い通り、グスタフの受けが徐々に余裕のない形になっていく。
「くっそ、やりづれえな」
毒づきつつも、その口ぶりはまだ楽し気であり、どこか余裕を感じさせた。
あと少しで打ち崩せる。その確信はある。しかし嫌な予感がした。この男、先ほどもそうであったが、どうやらその見た目とは裏腹に相手の意表を突くのを好む。
グスタフがニィッと口端を吊り上げたのを見て、俺はその推測を確信に変えた。一瞬、攻撃の手を止めて身構え、それが失敗であったとすぐに悟る。
「ハッ!!!」
グスタフが上げたその大声は【咆哮】――相手の敵意や注意を惹きつける効果のあるスキルだった。それ自体は俺には効かない。絶対無敵の加護の対象内だからだ。
だが、それはそれとして俺は手を止めてしまった。そこを突かれた。
どこから取り出したのか、グスタフが革袋か何かを投げつけてきたかと思うと辺り一面が真っ白になった。煙幕の魔力付与の品だろう。目に直接入る類のものでないので聖剣の鞘も防いではくれない。
グスタフを完全に見失った俺は無駄と知りつつ罵っていた。
「汚ないぞ!」
「なぁに言ってんだ。魔法や魔術以外ならなんでもアリだぜ」
意外にも返事がしたので反射的にそちらへ聖剣を振ってしまった。しかしそれも罠だった。聖剣の刃を殻砕きで上から思い切り叩かれて、取り落としてしまう。
舞台の上を剣が転がるカランカランという音が二つ。どうやらグスタフも殻砕きを手放して、再び両手を空けたようである。
煙幕。そうだ、ナガレとの一対一の時も、煙幕を使われた。あの時はその後、どんな攻撃を喰らったか。
思い出した時にはもう遅かった。後ろから俺の首に、グスタフのぶっとい腕が回される。気配を消して背後に回り込んでいたのだろう。やはりナガレの時と同じで、裸絞と呼ばれる技を狙ってきた。
ほんの一瞬、首が絞まるような感覚があったが、すぐにそれはなくなる。
「これも効かないか。ま、当然だな」
グスタフの野太い声が耳元でする。
こんな風な攻撃はシエナに擬態した自走式擬態茸にも、前方からではあるがされたことがある。この手の締め付けの場合、聖剣の鞘は強い痛みを覚えない程度にダメージを軽減してくれるが、拘束されないようにしてくれるわけではない。
煙幕が晴れる。一気に形勢が逆転したのを見て、観客たちから歓声が沸き上がった。
俺は首に回されたグスタフの腕に爪を立てながら、訴える。
「無駄だと分かってるなら放せよ!」
「いいや? 効かないと言っただけで、無駄だとは思っちゃいないぜ。例えば――」
探りを入れるようなグスタフの口調。
まさかと思ったその通りのことを彼は口にする。
「これから俺がここを離れて、アンタのことを放置したらどうだ? 危険は去ったと聖剣の鞘が判断して、この裸絞のダメージは戻ってくるんじゃないか?」
その声は勝算があると思っているようだった。
確かにその可能性はなくはない。もちろんグスタフの方が攻撃してこなくても、俺が攻撃し続けていれば戦闘中と判断されてずっと先延ばしにしてくれるかもしれないが、とにかくそれが聖剣の鞘の絶対無敵の加護を打ち破る可能性がある方法なのは間違いない。
しかしそれを実行に移させる気はなかった。
そうなる前に勝負を決める。この超至近距離は俺にとっても望むところだった。
十分に締め付けたと判断したグスタフが拘束を解いたその瞬間、俺は反転して彼の腹部へ縦にした右拳を押し当てた。
「【徒手格闘】じゃないけどな。殴るのはそっちの専売特許じゃないんだぜ」
革鎧越しに、彼の発達した腹筋の感触が伝わってくる。だが、この技の前にはその鎧も筋肉も無力だ。
肺から一気に空気を絞り出し、足の裏から順番に、膝、腿、腰、肩、腕と、全身の筋肉で発生させた力をすべてロスすることなく拳に伝える。
【寸勁】。
特訓の中で教えてもらったスゥの[達人]としてのスキルである。超至近距離からでも使える技の一つで、僅かな動作で十分な威力を出すことができる。
【自傷強化】で筋力を強化していたため、その威力は俺の予想を大きく超えていた。
力の発生源である俺の足元と力の作用点であるグスタフの腹で爆発にも似た音がしたかと思うと彼の巨体が吹っ飛び、舞台の上で数回転して、そして止まる。
内臓にダメージが入ったのか、グスタフは口元から血を流し、苦痛に顔を歪めていた。しかしさすがにタフであり、間髪入れずに立ち上がろうとする。
だが、俺が聖剣を拾い上げて彼の首筋にぴたりと突きつける方が僅かに早い。
水を打ったように静まり返る闘技場の中。
口元の血を拭い、グスタフが観念したように両手を挙げる。
「ふー……。まいった。俺の負けだ」
一呼吸か、二呼吸か置いてから。
こういう形での決着はさすがに予想外だったのか、視界と実況のエルとアールが少なからぬ動揺を含んだ声で、勝ち名乗りを上げた。
『か、完全決着ゥー!!』
『第四試合の勝者はミレウス・ブランド! ミレウス国王陛下、堂々の一回戦突破です!』
それを口火に観客が総立ちとなった。
鳴り響く、万雷の拍手。
興奮した観客たちが床を踏み鳴らすので場内は文字通り揺れていた。
そんな熱狂の渦の中、俺が手を差し伸べると、グスタフはそれを取って立ち上がった。勝負はついたが、まだまだ余力はあるように見える。
「たいしたもんだな、ミレウス。いや、剣やら鞘の力だけじゃなくな。この街の人間が好む“強さ”ってやつを持ってるよ、アンタ」
機嫌よさそうに俺の肩を叩き、そんなことを言ってくる。
水を差すのもどうかと思うが、聞かずにはいられなかった。
「勝った俺が言うのもなんだけどさ。馬鹿正直に絶対無敵の加護を破りにくる必要はなかったんじゃないか? このルールだったら直接ダメージを狙うよりも場外を狙った方がよかっただろうし、投げは有効だって分かってたんだからさ」
「ハハハッ! それで勝っても面白くないだろ? やっぱやるならどっちが上かはっきり分かる形じゃねえとな」
領民たちの手前そういう勝ち方はできない、とかではないらしい。分かるような、分からないような何とも言えない美学である。煙幕やなんかは使うというのに。
俺は聖剣を拾い上げ、鞘にしまった。
同じようにグスタフも殻砕きを拾い上げて鞘にしまう。
「すっきりできるいい負け方だった。……が、機会があればリベンジしてえもんだな。四年後の、次の大会も出ろよ、ミレウス」
「いやー、そういうわけにもいかないというか、そうする価値もなくなるだろうというか」
「あん?」
「だって、この国の王はだいたい三年から五年で退位するって聞くからな。四年後にはもう俺も王様辞めてるだろうから、聖剣も鞘も返却済みで凡人に逆戻りしてると思うぞ」
「ああ、そうか。……そうだったな。ま、俺はそれでも出てもらいたいがな」
意地悪そうに口端を上げるグスタフ。
俺は勘弁してくれと、肩をすくめた。
「反則なしで勝てる気はしないよ」
「四年もあれば素でもそこそこ戦えるようになるだろ。センスはあるみたいだしな」
「センスねぇ……」
生まれた時からそんなものを持ち合わせていたとは到底思えない。でも、円卓の騎士の責務をこなすうちに身についたというのであれば分からなくもない。まさに環境は人を作るというやつだろう。
いずれにしても何年経とうが、経験豊富で才能にも恵まれたこの男に反則なしで勝てるようになるとは思えないけれど。
「歴代の王たちは退位した後、円卓の騎士たちと一緒にどこかに消えちまったらしいな。アンタは失踪しないでくれよ、ミレウス。楽しみが一個減る」
本気か冗談か。どちらともつかぬ口調で言って笑ったグスタフは、俺の右腕を掴むと闘技場のどこからでも見えるよう高々と挙げた。
それから観客たちに呼びかける。
「強者に幸あれ!」
領主の声に応えて、観客たちが勝者――俺を称える声を揃って上げる。続いて領主の健闘と度量を称える声を。
それらは幾度も繰り返され、闘技場の中にいつまでも、いつまでも響いた。