第百三十八話 討伐地点に誘導したのが間違いだった
どれだけそうしていただろうか。
どちらからというわけでもなく、自然に俺たちは離れた。
その頃には俺もスゥも泣き止んでいた。しかし彼女の眼は真っ赤である。たぶん俺もそうなのだろう。なんだか気まずくなって、二人揃って視線を逸らした。
彼女の胸に抱きしめられた感触。
それは俺が幼児だった頃――十数年前と何も変わらなかった。
「あー、分かった。それで成長が絶望的って言ってたのか」
彼女の薄い胸をちらりと盗み見て、俺は一人で納得した。
「なんの話っスか?」
「いや、気にしないでくれ」
赤い目をこすりながら首をかしげるスゥに手を振って誤魔化す。
昨日、温泉でうっかり盗み聞きしてしまったガールズトークについての話だ。歳を取らない体なら、確かに胸が育つ見込みはゼロだろう。
それにしても、と疑問に思う。
「あれだな。粘膜の接触で記憶が戻るって、どういう仕組みなんだ?」
「さぁ。あーしもよく分からないんスけど、魔神の因子が中和されてどうのこうのらしいっスよ。あーしの体を解析して、こういうやり方があるって教えてくれたのはマーリアさんなんすけど」
先ほどやったことを思い出したのか、スゥは恥ずかしそうに自分の唇に人差し指で触れた。
「でもまさかミレウスさんとこんなことする日が来るとは夢にも思わなかったっス。他の粘膜を接触させるって手もあるにはあるってマーリアさんには教えてもらってたんスけど、さすがにそれはまずいと思って自重したっス」
「あー、うん。確かにそれはまずい。……つーかなに教えてんだ、あの魔女」
「マーリアさんは真なる魔王と夜を共にして“魔女”の力を手に入れたわけっスからね。それで思いついたんじゃないっスかね」
スゥが聖剣を指さしてくる。
「ところで、ちょっと好感度表示してもらっていいっスか?」
言われるがまま呪文を唱えて、十二に分かれた聖剣の刃に好感度を表示する。すると前日に確認したときから大きな変化が起きていた。
スゥの恋愛度を示す赤いメモリが、表示されている十一人の騎士の中で一番の長さになっていたのだ。
「め、めちゃくちゃ上がってる……」
「思ったとおりっス。きちんと話し合ったことであーしの心理障壁が解けて、好感度が正常に表示されるようになったんスね。やっぱり“お互いのことを知るのが、友好を深める最良の方法”っス」
「いや、それ最初に俺が言ったセリフじゃん。卵サンド作った日にさぁ」
二人揃って、声を上げて笑う。
あの日も色々と話しあって表面上はいい雰囲気になっていたが、腹の底は完璧に隠しあっていたわけだ。今となってはとんだ笑い話である。
俺は聖剣に表示されたメモリを指さして正確に数えた。
「好感度が正常に表示されるようになったって言うけど、スゥが戻ってきた当初よりずっと上がってるよ、これ。最初は恋愛度が六メモリあるだけだったんだ」
「たぶん今日話したことだけで、そこまで上がったわけじゃないっスよ。その六メモリの時点で正常な表示じゃなかったんだと思うっス。だってあーしが見てきた十三年分の好感度がそんな低いわけないっスから」
「な、なるほど。……いや、なんだか恥ずかしいな」
相手が自分に好意を抱いていることを知るのはもう慣れた。しかし自分が“それを知っている”ということを相手に知られるというのはまた別種の気恥ずかしさがあった。
「それで、あーしの恋愛度は六メモリからどういう推移をしたんスか?」
スゥがすぐ横に来て、自分の好感度が表示された聖剣の刃を覗き込む。
俺はどぎまぎしながら彼女が見やすいように刃の表面をそちらに向けてやった。
「六メモリだったのが交流していくうちに三メモリ、零メモリって減っていった。きっと君の好感度を上げようって魂胆が俺の態度に出てたせいだと思う。そこは反省してる」
「あはは。いや、あーしが聖剣の秘密を知らなかったら、たぶん大丈夫だったんじゃないっスかね」
「どうだろ。他の奴らだったらいけた気がするけど」
円卓の騎士の中には俺が心配になるくらいチョロい奴もいる。しかしこのスゥは――第一印象で思ったような、裏表のない素直ないい子ではないと知った今となっては――最も攻略が難しいタイプであるように思える。仮に聖剣の秘密を知らなかったとしても、結局俺の態度に疑いを持って上手く好感度が上がらなかったのではないだろうか。
「あ。でもそうだ。一度、零まで下がった好感度が最初の作戦会議の晩に一メモリに上がったんだよ。恋愛度も、忠誠度も、親密度も全部。なんでだろう」
「あーしがとどめ班に入るのを嫌がったときに、かばってくれた時っスね。ミレウスさんのあの行動は打算的な感じがしなかったので、素直に受け取れたみたいっス。嬉しかったっス」
「実際あれは反射的な行動だったからなぁ……それが功を奏してたのか」
分かってみれば簡単な話だった。
「でも恋愛度がこれだけあるんだったら、他の二つももう少し伸びてもよさそうなものなのに」
「いやー、ミレウスさんのことはずっと保護者の目線で見てたっスからね。それ以外の視点ではなかなか見れないっス」
「そういうもんか」
聖剣に表示される三つの好感度――忠誠度、親密度、恋愛度はそれぞれ、臣下としての好意、友人としての好意、一人の人としての好意を示していると先代王から聞いていた。スゥの好感度変化から推測するに、母親としての愛情は恋愛度の中に分類されるらしい。“恋愛”度と名前はついているが、これが内包する範囲はけっこう広い。男連中のそれはもちろん、イスカあたりの恋愛度も“恋愛”とは違うように思えるし。
そういえば、だが。こうしてすべてを話してもらった以上、これを聞いてもいいはずだ。
「あの時、どうしてあんなにとどめ班になるのを嫌がったんだ? 危険だからって理由じゃないだろう」
「あー、嫌だったのはとどめ班になることじゃないっスよ。技能拡張をすることっス。だってあれをしたら、あーしが隠してたことも全部バレちゃうじゃないッスか。だからもう限界だと思って、このタイミングで自白したんスよ」
当然のように言って、照れ笑いを浮かべるスゥ。
しばし戸惑ったのち、ピンと来る。
「スゥ。君、もしかして技能拡張すると相手の記憶を探れるようになると思ってる?」
「え? ……ち、違うんスか!?」
「違うよ! もしそうなら俺が他の奴らとやったときに、聖剣の使用条件が好感度だってこととかもバレてるだろ。そこまで何もかもが筒抜けになるわけじゃない」
「え、えぇ、そうなんスか……」
よほどの衝撃だったようだ。
スゥはうなだれて、力なく笑った。
「歴代の王がそれぞれの騎士と使ってるところを何度も見てきたっスけど『心がつながるみたいー』とか『お互いのことが何もかも分かるー』とかみんな言ってたっスから、てっきりそういうものだと思ってたっス」
「そういう表現になるのも分かるけどね。ただ、少しばかし誇張されてもいるな。……しかし聖剣を作った本人がそんな思い違いをしてるとは思わなかった」
「そのあたりを担当したのはマーリアさんとシャナクさんで、あーしは完全にノータッチだったんスよー。あーあ。それじゃあーし、完全に自白損っスね」
スゥは自虐的に肩をすくめたが、現実主義者と言われた剣豪ガウィスらしく、立ち直るのも早かった。
「いや、今となっては自白できてよかったと考えるしかないっス。隠し事をしたまま、嘘をついたまま生活するのはもう本当に疲れたっス。ミレウスさんも好感度の件があるから分かってくれると思うっスけどね」
「……そうだな。うん、それは本当にそうだ」
長い話が終わる。
ちょうどそこで雷が鳴った。俺とスゥは揃って光と音がした方向を見やり、立ち上がる。
先ほど鳴ったときよりもずっと近い。
それは銀針狼のウルトが、もうすぐそこまで迫っていることを意味していた。
☆
再度《覗き見》の魔術を使って、姿見を宙に召喚する。
その鏡面に映し出された前衛班とウルトの第二ラウンドは、先ほどにも増して激しいものだった。
人狼の森の炎上もまた勢いを増している。
もうもうと黒煙がたちこめて膨大な量の火の粉が舞う中、全身から雷を放つ巨大な銀色の狼が、それと比べると遥かにちっぽけな四つの人影と死闘を繰り広げている。
攻防の中心となっていたのはラヴィだった。
「ほーらほら! こっちだよ!」
ラヴィは【影歩き】でウルトの周囲を高速移動して挑発しながら、攻め入る隙をうかがっていた。
第一ラウンドで彼女が手にする冒険者ルドの財宝――鍵型の短剣で傷つけられたのが相当効いたのか、ウルトは明らかにラヴィのことを一番に警戒していた。
おかげで他の三人は比較的戦いやすくなったようだ。
「ハァ!」
「そぉい!!」
「ヒャッハー!」
リクサの双剣が、ヂャギーが斧槍が、デスパーの戦斧が次々とウルトの体をとらえる。
どれも痛打とは言えないものの、確実にダメージは通っている。すなわち、ウルトは再生に魔力を費やしているということだ。
もちろんウルトの方もただ黙ってやられているわけではない。
反撃の雷撃でリクサを貫き、体当たりでヂャギーを跳ね飛ばし、前足でデスパーを弾き飛ばす。どれも致命傷には至らないものの、大きなダメージであることには違いない。彼我のダメージ蓄積速度の差は明らかである。
だがウルトの攻撃が他に向くということは、あの女盗賊が動きやすくなるということ。
一瞬の隙を突き、ラヴィが地を這うように走ってウルトの腹の下にもぐった。そしてそこで跳躍し、鍵型の短剣で奴の腹部を横一文字に切り裂く。
与えた傷は決して大きくはない。しかし短剣に付与された強力な天聖機械特効が再び効果を発揮した。
第一ラウンドの時と同じように、ウルトが体勢を崩して膝をつく。感情など持たない純機械製の天聖機械であるにも関わらず、その顔は苦悶に歪んでいるようにさえ見えた。
ラヴィはウルトの巨体に押しつぶされる前に腹の下から脱出していた。ウルトから復讐のように極太の雷撃が飛んでくるが、それも寸でのところで【影歩き】を使って回避する。
そんな命がけの攻防が幾度も幾度も繰り返された。
やはり先に限界が見え始めたのは前衛班の方だった。
リクサの体を覆う勇者特権の白いオーラが薄くなりはじめ、血を失いすぎたのかヂャギーが大きくふらつく。デスパーが肩で息をするようになり、ラヴィの回避が本当に紙一重のタイミングになっていく。
これ以上は持たない。
俺がそう判断したまさにその時、伝達石から興奮したようなブータの声がした。
『陛下ぁ! ウルトの口腔内の使用済み魔力濃度、三割を超えましたぁ!』
「十分だ! みんなを回収してくれ!」
指示を受けたブータはすぐさま転移したらしく、姿見の映像の中――戦闘が行われている地点に現れた。
そしてウルトの攻撃の間隙を突いて先ほどと同じように前衛勢の四人に《瞬間転移》をかけ、自身もまた転移する。
標的を失ったウルトはすぐさま走り出した。何かに惹かれるように、一直線に。
伝達石から、遥か上空でウルトを監視しているヤルーの声がする。
『そっちに向かって走ってるぜ。……が、やっぱ丘越えのルートだな』
「やっぱかー。分かった。分かってた」
今回の討伐地点は俺とスゥが今いる谷の底。しかし囮班がいるポイントへの最短距離に谷があるわけではないし、高起動型天聖機械であるウルトからすれば谷を形成している二つの丘は緩い坂道程度のものだ。俺とスゥに反応して谷に入ってくる可能性もなくもなかったが、どちらかの丘を越えて囮班のところへ直行する方が確率としてはずっと高いだろうと俺とヤルーは予想していた。
もちろん手は打ってある。
俺は伝達石を使って、谷へと誘導するための班に声をかけた。
「おーい。スタンバイできてるか?」
『あったりめーだ!』
『ま、任せてください、主さま』
『大丈夫ですよぉ』
シエナとナガレ、それと戦闘地点から転移したブータがいるのは丘の向こう、ウルトがいる方の谷の入り口近くである。
俺は《覗き見》の姿見にそこを映し出した。大きな岩の陰に巨大な甲冑のような金属体が鎮座しており、それにゴテゴテと小さな金属の箱がいくつも接続されている。
それらをナガレがああでもない、こうでもないといじくっていた。
「ホントにこれでいけてんのか……? おい、イスカ! ホントにこれで見えなくなんのか!?」
『いけるぞー。たぶんなー』
鳥形態になって上空で飛んでるはずのイスカが伝達石を通して投げやりに答える。この作戦はイスカから『自分にもウルトと同じ対人レーダーが搭載されている』という話を聞いたナガレが出したものだ。
『いや。マジこれで上手くいくかわかんねーからな? 責任もたねーからな? 万が一の時はブータ使って逃げるからな?』とは、その時のナガレの台詞である。それから彼女はイスカに手伝ってもらってテストを何度も繰り返していた。
たしかECM装置――ノイズ・ジャミングだとか言っていた。ナガレのいた世界の産物なので俺にはよく分からないが、決戦級天聖機械に搭載されている対人レーダーを一時的に無効にできるらしい。効果範囲はそれほど広くない上に、ナガレが近くにいないとすぐに元の世界に還ってしまうらしいので使い勝手はよくないという話だが。
「これこっちに召喚すんのくっそ苦労したんだぞ! 動くようにすんのにもよ!! だいたいこんな森の中でも使えて、人間サイズを感知できて、丘まで透過する捜索用レーダーってどんなんだよ。文明レベル高すぎるだろ。……基本の仕組みは一緒だからどうにかなんのか? クッソ、わけわかんねえ!」
誰ともなしにナガレがぼやいている。
そのうちウルトが木々をなぎ倒す音が近づいてきた。
シエナが地面に膝をつき、両手を組んで目を閉じて祈る。
「女神アールディアよ――忠実なる僕、か弱き猟犬たちに不可侵の境界を示したまえ!」
詠唱が完成し、究極難度の大魔法が発動する。
かつて南港湾都市で魔神将グウネズと戦った一件では、各教会の司祭たちが協力して広大な戦闘領域をドーム状の障壁で覆った。シエナはあれをたった一人で再現しようとしている。ただし今回の障壁の形状はあの時とは違った。
人狼の森に形成されたのは見上げるほどに高い半透明の障壁が二つ。それらは王城を囲う城壁のように長く、ウルトから見ると谷に向けて進路が狭まる形――漏斗のような形状をしていた。これを避けて囮班のところへ行こうとすれば大きな時間のロスになるだろう。
ウルトは突如目の前に出現した障害物に一瞬うろたえたような様子を見せたが、すぐに障壁の一番近い箇所に助走をつけて体当たりをした。
金属がぶつかり合うような不快な大音響が《覗き見》の姿見から届く。思わず俺とスゥは両手で耳をふさいでいた。
障壁はウルトの体当たりを受けてもヒビ一つ入っていなかった。
ウルトはそれから障壁に対して助走をつけた突進を繰り返したが、やはりびくともしない。
これだけの規模の障壁に、これだけの硬度を持たせるとはさすがはシエナである。[純司祭]にクラスチェンジしたこともいくらかは助けとなったのだろう。この障壁を持続できる時間はかなり短いとの話だったが、それで十分――のはずだった。
ウルトはすぐに障壁を砕くことを諦めて、こちらの意図したとおり、それに沿って谷の入り口に向かって走り始めた。だが谷に入る寸前、大きな岩の前で立ち止まり、猫が爪とぎをするかのようにその辺りの障壁を前足でガリガリと削るような動作を始めた。ちょうどナガレとブータとシエナがいる辺りである。
ものすごく声を抑えて、ナガレがキレた。
『おい! バレてんじゃねえか!』
『んや、みえてはないけどなー。そこがノイズのちゅうしんなのはわかるからなー。きにはなるよなー』
無責任なイスカの回答。
障壁を維持するために祈りを続けるシエナの横で、ナガレはブータと二人でガタガタと震えて息をひそめた。
しかし結局、ナガレの心配は杞憂に終わった。ウルトはその地点――ノイズの中心から離れて、まんまと谷の中へと入ってきた。
この谷底は蛇のように曲がりくねっているが、距離は短い。奴の速度ならばあっという間に通り抜けられる程度だ。ウルトの巨体が大地を駆ける足音はすぐに《覗き見》の姿見を通さず、俺たちの元まで直接届くようになった。
姿見を消し、スゥと視線を交わして頷きあう。
ウルトは討伐地点に入った。
作戦もいよいよ大詰めである。