第百三十五話 閾値を確認したのが間違いだった
奇妙な浮遊感が終わり視界が元に戻ると、切り立った険しい崖に挟まれた谷の底に俺は立っていた。小さな茂みや灌木が僅かに見られるだけで人工物は何もなく、いるのも俺と一緒に《瞬間転移》で飛んできたスゥ一人だけ。
ここにはすでに何度も下見に訪れている。いまさら確認することなど何もない。
俺はすぐにブータから《覗き見》の魔術を借りて、空中に楕円形の大きな姿見を出現させた。それから強く念じて、その鏡面に先ほどまでいた場所――環状列石周辺の映像を映し出した。同時にその場の音も聞こえてくるようになる。
激しく明滅する白光。
燃え上がる人狼の森。
絶え間なく鳴り響く雷鳴。
伝わってきたのは、常人には到底入り込む余地のない苛烈な戦いの模様だった。
やはりと言うべきか、ウルトはすでに初撃で受けたダメージを完全に修復し終えていた。【剣閃】でできた巨大な爆発跡に四本脚で悠然と立ち、無数の雷を全方向に無秩序に放っている。辺りはまるで雷雲の只中にあるかのようだ。
対するリクサ、ヂャギー、デスパーの三人は俺の指示通りに散開して動き回り、攻撃の機会をうかがっていた。しかしウルトの放つ雷撃すべてを回避できているわけではない。
というより土台無理な話だ。雷が空気中を進む速度は音速よりも遥かに早い。光速ほどではないにせよ、見てから回避できるようなものではない。
幸いウルトが全身から放つ雷撃は細かな狙いはつけられないようだが、合戦場に降る矢のように高密度だ。
運が悪ければ当然当たる。
「グエー! イってぇ!」
一筋の雷撃に胸を貫かれたデスパー――というか悪霊が、海老のように体を仰け反ってのたうち回る。痛いで済む電圧でも電流でもないはずだが、デスパーは間髪入れずに立ち上がった。服が一部焦げて消し飛び、胸の皮膚が少し焼けただれているが、重傷ではないように見える。
「あっちちち! あっついんだよ!」
今度はヂャギーが雷撃に当たって地面を転げまわった。装着していたぴっちり目の革鎧が発火し、火だるまになる。
いや、なぜ発火するのか。手入れをするときに油でも塗ったりしなければあんな豪快に燃えることはないと思うのだが。もしかしてまた誰かに騙されて、ホントにそんな手入れの仕方をしていたのか。
いずれにしてもヂャギーにはさしたる問題ではないようだった。
「ぢゃああああぎぃいい!」
謎の掛け声とともにヂャギーが力を込めるとその上半身の筋肉が膨張し、革鎧がそれを覆っていた火炎ごとはじけ飛んだ。電撃によるダメージもあるだろうに、ヂャギーは下半身の火をぱっぱと手で払うと何事もなかったかのように斧槍を手に戦闘に戻る。本当に人間なのか疑いたくなる光景だ。
「機をうかがうばかりでは陛下から与えられた役目を果たすことはできません! 前に出ましょう!」
雷鳴が轟き渡る中、リクサがそれに負けぬよう声を張り上げた。そんな彼女にもまた雷撃が襲ってくる。
被弾したのは天剣ローレンティアを持つ右腕。着用している純白の鎧の手甲と腕当てが吹き飛び、肘から先が黒焦げになる。しかし彼女は一切ひるまない。天剣を取り落としすらしなかった。
「始祖勇者よ、我に加護を!」
彼女がそう口にすると、黒焦げになった腕が白い光に包まれて瞬時に再生した。始祖勇者が世界から与えられたという数々の超常能力、勇者特権によるものだ。その力は子孫たちにも遺伝している。
今回、円卓の騎士は全員、雷耐性をつける強力な魔力付与の品を多数装備してきている。しかしウルトの放つ電撃はそれらのアイテムの効果や事前にかけておいた強化を考慮しても、まともに喰らえば即死しかねない威力だ。
この三人がこの程度のダメージで済んでいるのはそれぞれ反則技を使っているからである。
デスパーはエルフの種族固有スキル【破壊不能】で体の強度を大幅に上げているし、ヂャギーは[暗黒騎士]のスキル【前借り】の重ね掛けで電撃耐性を上限近くまで引き上げている。リクサはそもそも勇者の血のおかげで電撃耐性と体の強度が異常なまでに高い。
『危険なので絶対にマネしないでください、って感じですねぇ』
伝達石から聞こえてきたのは呆れたようなブータの声だった。彼は環状列石から少し離れたところで俺と同じように《覗き見》の魔術を使って、ウルトの口腔内の使用済み魔力濃度を監視しているはずである。
『陛下ぁ。やっぱり電撃では魔力をほとんど消費してないみたいですよぉ』
「うーん、そうか。分かった。引き続き、監視を頼む」
俺は肩を落として空を見上げる。そこに見えるはずだった冬の夜空は相変わらず分厚い黒雲で覆われていた。
ウルトが放っている電気は先ほどあそこから落ちてきた極太の雷に由来している。魔力の消費が少ないのはそのためだろうが、自然界の電気を利用している以上、どれだけ無駄打ちさせれば弾切れになるかは未知数だった。
今のブータの声はウルトと戦っている前衛班が持つ伝達石にも届いてる。それを聞いてかどうかは知らないが、リクサが動いた。
先ほどの【剣閃】で相当消耗しているだろうに、その動きに陰りは見られない。雷撃が僅かに途切れた隙を見つけて接近し、流れるようにウルトの脚を双剣で斬りつける。
ほぼ同時にヂャギーとデスパーもそれぞれの得物で別の脚を攻撃していた。ウルトは回避すらしない。
金属が打ちあう甲高い耳障りな音が複数回響く。
三人の攻撃はウルトの脚を覆う銀の針をいくらか破壊していた。しかし脚そのものには刃は届いていない。さらに破壊できた銀の針も瞬く間に修復されていく。
「やはり硬い……!」
リクサは深追いせず、すぐさまウルトのそばを離脱した。
一方、逃げるのが遅れた他の二人は電撃による反撃をもろに喰らい、転がるようにしてどうにかウルトの射程から脱する。
修復を行っている以上、ウルトはマナを消費しているはず。しかしこの分では口を開くまでどれほどかかるか分からない。
……そういえば前衛班の最後の一人はどこへ行ったのか?
あの女盗賊は他の三人と違い、雷撃を受ければ一発で命取りになりかねない。慎重に突入するタイミングをうかがっているのだろうか。
敵前逃亡したとはさすがに思えない。
そう考えたまさにその時、ラヴィはウルトの頭上に突如出現した。
近くの樹に登り、そこから[怪盗]の奥義である短距離高速移動――【影歩き】を連続使用して空中を渡ってきたのだろう。ウルトの頭部からは電撃は出ていない。まさに攻撃するのにうってつけの箇所である。
彼女が手にしていたのは今年の夏に俺との冒険の末に手に入れた『ルドの埋蔵金』。あの鍵のような形状の短剣だった。
「隙ありィ!」
わざわざ叫んだのは顔を上げさせるためか。
自分の方を向いたウルトの緑の双眸を、ラヴィは目にも止まらぬ早業で縦に切り裂いた。それからウルトの眉間を蹴って跳ぶと【影歩き】を連続使用して近くに倒れていた巨石の裏まで退避する。
「わお、すっごい」
その巨石から顔だけ出してウルトの様子を見て、感嘆の声を漏らすラヴィ。もちろん自分の腕前にではない。魔神と天聖機械への特効が付与されてるというその短剣の力にである。
先ほどは攻撃を受けても微動だにしなかったウルトだが、今回は体勢を大きく崩した。さらに苦痛に喘ぐようにふらついている。まるで猛毒の刃でも喰らったかのように。
無秩序に周囲に放っていた電撃も止む。
その隙を他の三人が見逃すはずはなかった。
「全・開!」
リクサが叫ぶと同時に彼女の体から白とも黄色ともつかぬオーラが湯気のように立ち上る。残りの勇者特権を振り絞ったのだろう。
彼女は倒れた巨石を踏み台に跳躍すると天剣と地剣を交差させるように振るう。その渾身の一撃――いや、渾身の二撃はウルトの左後ろ脚を見事に根本から切断した。
「よいしょお!」
ヂャギーが気が抜けるような掛け声と共に投擲したのは、かつて南港湾都市に出現した魔神将グウネズが使用していた三叉槍だ。【瞬間転移装着】で出現させたのだろう。
強力な魔力が付与されたそれはウルトの右肩に突き刺さると同時にその周囲を円錐状に抉り取った。
「ケェーケケケケ!!」
デスパーは馬鹿正直に正面から突っ込んでいった。狙うは体勢を崩したウルトが無防備に晒した鼻先。そこにこれまた馬鹿正直に叶えるものを力任せに振るった。やっていることは先ほどと大差がないのだが、結果は違っていた。
第一文明期の遺物であるその戦斧は、今度は深々とウルトの鼻先に喰い込んでいた。相手の防御力と再生能力を阻害するエルフの種族固有スキル【絶対蹂躙】の効果によるものか――と一瞬思ったが、たぶんそれは先ほども使っていたはず。
なぜ結果が変わったのか、まったく分からない。デスパーの、あるいは悪霊の気分の差によるものなのか。エルフという種族とこの男の底力については謎が多い。考えるだけ無駄なので、俺は思考停止して結果だけを受け入れた。
四人の猛攻を受けたウルトはついに自分から動いた。
まず顔を思い切り横に振るって顎でデスパーを弾き飛ばすと、左後ろ脚が切断されているとはまったく思えぬ自然な動きで爆発跡から這い出て、ヂャギーに向かって突進する。
これは予想だにしていなかったのか、ヂャギーは無防備な状態で強烈に跳ね飛ばされた。きりもみ回転しながら数回バウンドし、燃え盛る森の奥まで行ってようやく止まる。
相変わらずウルトの修復力は凄まじく、すでに欠損した箇所はすべて元通りになっていた。しかしそれで魔力を相当量消耗したのだろう。
俺は確かに見た。
ほんの一瞬、ウルトが呼吸をするように口を開けたのを。
だが今はそれを喜んではいられなかった。
ヂャギーが立ち上がるのに手間取っていた。
肩、腹、脚――全身のあちこちに銀の針が刺さって大量に出血している。どうやらウルトの体を覆う針はヤマアラシのそれのように、標的に刺さると簡単に自分の体から抜けるようにできているらしい。
ウルトはそのヂャギーに向かって追撃の突進を仕掛けた。四肢が揃ったウルトの機動力は凄まじく、今回は十分に助走もついており、威力は先ほどの比ではなさそうだった。
人間離れした耐久力を持つヂャギーだが、この追撃を受けるのはさすがに不味い。本当に死にかねない。
俺は咄嗟に叫んでいた。
『避けろヂャギー!』
「跳躍ぅぅう!」
伝達石に向けた俺の声に、《覗き見》の姿見から届いたブータの声が重なった。
ウルトの体当たりを喰らう寸前、ヂャギーの体がぐにゃりと歪んで掻き消えた。標的を失ったウルトはヂャギーがいたポイントをだいぶ通り過ぎてから停止して、環状列石の跡地の方を振り返った。
そこには金の錫杖を手にしたブータがリクサ、デスパー、ラヴィの三人と共に立っていた。ウルトが四人目掛けて突進をしてくるが、ブータが呪文を唱える方が早い。
「跳躍、跳躍、跳躍、跳躍ぅ!」
立て続けに完成する《瞬間転移》の魔術。リクサ、デスパー、ラヴィ、そしてブータの順でヂャギーと同じようにその姿が消失する。
前衛班を回収するタイミングについてはブータに一任していたのだが、どうやら最高の仕事をしてくれたようだ。
『ふー、たすかったんだよ! ぶーくん!』
『いえいえ、なんのなんのですよぉ』
伝達石からヂャギーとブータの声がする。俺は《覗き見》の姿見に映すポイントを彼らが転移した先――俺とスゥがいる谷の向こう、後援者の囮班のところへと切り替えた。
「大丈夫か、ヂャギー」
『うん! でも目が回っちゃったんだよ! ふらふらなんだよ!』
ヂャギーはヌヤ前最高司祭に《治癒魔法》をかけてもらいながらスクワットをしていた。まだウルトの銀の針が何本も体に刺さっているし、どくどくとすごい量の出血もしている。
ヌヤに『これ、動くでない』と窘められて、ヂャギーはようやく地面に座って胡坐をかいた。
「……すぐに立ち上がれなかったのってダメージとか出血のせいじゃなくて、跳ね飛ばされたときに目が回ったからなのか」
俺は呆れつつ、安堵の息をついた。
《覗き見》で見られていることを感知しているのか、ブータがこちらに視線を向けて小躍りしながら誇らしげに報告してくる。
『ミレウス陛下ぁ。ウルトが口を開けたのは口腔内の使用済みマナ量が五割ちょうどのときでしたよぉ』
「おお、そっか! よく見ててくれたな、ブータ。前衛班のみんなもよくやった」
《覗き見》の姿見が、前衛班の四人を映し出す。
ヂャギーはさっき見たとおり。
勇者特権を使い果たしたリクサはコーンウォール公エドワードの横で樹に背を預けて、目を閉じて休息を取っている。
元から無傷のラヴィは革袋から水を飲みながら『ルドの埋蔵金』の刃を確認していた。遺失合金を切ったので刃こぼれしていないか気になったのだろう。
最後の一人、デスパーはエルとアールが用意していた戦闘糧食をむしゃむしゃと口にしていた。こいつもそこそこ怪我していたはずだが、すでに完治している。勇者ほどではないにせよ、エルフも再生能力が高いのだ。
俺は再び《覗き見》の映像を切り替えた。今度はウルトの現在位置の映像だ。標的を失ったウルトは森の木々をなぎ倒しながら、すごい速度で一直線に疾走していた。
これを上空から監視しているはずのあいつに向けて、伝達石に話しかける。
「ヤルー、ウルトの動きはどうだ?」
『そっちへまっすぐ向かってるぜ。うひょー、すっげえスピードだ。あっちが走ってるのが平地だったら風精霊じゃついていけなかったな。……そうだな。四半刻もすりゃミレちゃんたちのところにたどり着くと思うぜ』
「了解。あんまり近づくなよ。雷撃喰らうからな」
『わぁーってんよ。俺っちだってこんなところで焼き鳥になりたかねぇ』
俺だって焼き鳥になったヤルーなど見たくはない。マズそうだし。
まぁこいつは何も言わんでも無難に役割をこなしてくれるだろう。
《覗き見》の映像を再び前衛班のところに戻し、俺は四人の消耗具合を見て慎重に問いかける。
「お疲れのところ悪いんだけど、やっぱりこの谷にウルトが来る前に、もう一戦やってきてもらえるかな。奴の口腔内の使用済み魔力を閾値にある程度近づけてもらいたい。……いける?」
『あったり前ダロ、王サマ! オレ様、まだまだ暴れたりねぇんだヨ!』
即答したのはデスパー――ではなく悪霊である。
怪我が完治したらしいヂャギーもスクワットをしながらそれに乗っかった。
『いけるんだよ! ボッコボコにするんだよ!』
「いや、閾値は超えないようにしてね? やりすぎないようにね?」
『ゼンショするよ!』
ヂャギーはそう答えたが、とても信用できない。というか善処の意味が分かっているかも怪しい。
しかしやりすぎるということはさすがにないだろう。多重化した【剣閃】にいろいろ加えてようやく一度“呼吸”させられただけなのだから。
ヂャギーの言うとおりボッコボコにする気持ちで臨むくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
「リクサは平気か?」
『はい。お気遣いありがとうございます、陛下』
先ほどの戦いで一番消耗したのはこの人だと思うが、この僅かな時間で顔に生気が戻ってきていた。汗で額に張り付いた白銀の前髪を手で払いながら、こちらに向けて微笑む。
『ウルトが谷に近づくまで仮眠が取れれば、また十分戦えるようになると思います』
彼女の隣に立つエドワードがそれを保証するように頷いたので、どうやら強がりではなさそうだ。四半刻に満たない睡眠でも勇者にとっては十分ということか。
俺は最後の一人に目を向ける。
「それじゃ、ラヴィもよろしく頼むな」
『ええー。ミレくん、あたしには『いけるか?』とか聞かないのー?』
「そりゃ今んとこ無傷だからな。いってもらわなきゃ困る。……いや、ラヴィは一発でも喰らったらまずいんだから本当に無理だけはしないでもらいたいけど」
心配されたのが嬉しかったのか、ラヴィはえへへと笑って『ルドの埋蔵金』を腰のホルダーに刺した。
彼女はやるときはやる女性である。しかし無駄な危険を冒すタイプでもないはずだ。
俺は四人全員に向けて言った。
「こっちはまだ温存してる戦力があるし、最終的に“閾値”に持っていく方法は他にもある。だから全員無理だけはするな。できる範囲で、ダメージを与えるだけでいい」
前衛班の四人は顔を見合わせてから、確約するように力強く頷いてみせた。
誤字のご指摘くださった方、ありがとうございました。修正させていただきました。
百三十三話ですが、
>大陸の北西に目を向けると正方形が九十度傾いたような小さな島、ウィズランド島が見えた。
正しくはここは九十度ではなく四十五度でした。正方形を九十度傾けてもそのまんまですからね。
よく考えると正方形のデフォルトの角度って定義されていない気もしますが……まぁとにかくアレです。ウィズランド島は♢みたいな形の島です。うん。
たぶん他にもいろんなところで誤字やら間違いやらしてると思うので、見つけ次第、なろうの誤字報告機能や感想欄で指摘していただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いします。
作者:ティエル