第百三十三話 悪夢を見たのが間違いだった
――そして、その夜。
いつものように夢を見た。
聖剣が見せる、統一戦争期の記憶が再現される奇妙な夢を。
ごつごつとした岩肌が剥きだしの洞窟の中。
篝火の灯りが揺れる薄暗い円形の空洞で、“俺”は目覚めた。
不気味な黒い装束を身にまとった数名の男女がこちらを見下ろしている。皆、頭巾を目深にかぶっているため、その表情はうかがい知れない。
どうやら“俺”は石の台座のようなものの上で、仰向けに寝ているようだ。
“俺”は目だけを下に動かした。粗末な麻の服に包まれた少年とも少女ともつかぬ華奢な自身の体が視界に入る。服の袖や襟からのぞく肌は病的なまでに白く、手足はすぐにでも折れそうなくらい痩せ細っている。
そのまま首を巡らすと空洞の入り口の方に、同じような黒装束の人間が何人も座っているのが見えた。
その手に持つのは切断された羊の首。
血に濡れた鎌。
白濁した液体で満たされた小瓶。
黒光りする短剣。
骨でできた不気味な笛。
人の皮で装丁された魔導書。
異様な匂いが鼻を刺す。
それが陶磁器の香炉で燻されている幻覚作用のある麻薬の匂いであることを“俺”は知っていた。
黒装束の者たちは皆、正気ではない。
表情をうかがい知れないというのに“俺”にはそれが分かる。
怖気、狂乱、渇望、妄想。
そういったものに支配されている。
彼らに恐怖を覚えた“俺”は逆方向――空洞の奥へと首を巡らした。
そこには黒装束の者たち以上に恐ろしいものが鎮座していた。
魔神の姿を模した巨大な像。
俺はここを知っていた。
ここは我が故郷オークネルの北の山の中腹にある、あの洞窟だろう。
去年の夏休みにアザレアさんを案内してやった、現在では何も残っていないあの場所。
二百年前、つまりはウィズランド王国が建国される前、あそこは現在オークネルの村がある土地に住んでいた魔神崇拝者たちが使用していた洞窟だった。
そこには魔神月への門を開く魔力が付与された魔神像があったと伝説には残されている。幼い子供を使った非人道的な生贄の儀式を用いて魔神との契約を行っていた、とも。
一説には彼らは、魔神は破壊兵器ではなく救世主であると信じていたらしい。人間を殺すためではなく人間を護るために生み出されたのだと、本気で考えていたというのだ。
それが事実だったのか否かは統一戦争期の記録の常として定かではない。
だがこの夢を見る限り、どうも事実であったのではないかと思えてくる。
黒装束の者たちは魔神像に対し、救済を求めて祈りを捧げていた。
しかしこれは一体誰の記憶なのか。
そしてなぜ今――オークネルから遠く離れたこの人狼の森でこんな夢を見るのか。
その疑問の答えが出ぬうちに、俺を囲うように立つ黒装束の者たちが身の毛のよだつような、おぞましい呪文を唱え始めた。
身動きがまったく取れない。この記憶の持ち主が動こうとしないからだ。
俺は誰かの記憶を垣間見てるに過ぎない。
そして呪文の詠唱が最高潮に達した時、後方に控えていた男が前に進み出て、黒光りする短剣を“俺”を囲んでいる者たちの一人に手渡した。
その人物、儀式の祭司と思われる男は短剣を“俺”に向けてためらうことなく振り下ろす。
――幼い子供を使った非人道的な生贄の儀式。
これがオークネルに伝わる伝説の儀式そのものであると気付いた時には、“俺”の心臓は完全に刺し貫かれていた。
耐えがたい激痛。
全身が痙攣し、数度の脈動ののち心臓が止まる。
僅かに流れ出た血が着ていた粗末な服にじわりと滲むのが肌の感触で分かった。
魔神像の双眸が不気味に輝く。
“俺”の視界はぐにゃりと歪み、そしてプツンと消えて何も見えなくなった。
☆
次に気が付いたとき、“俺”はまったく別の空間にたった一人で佇んでいた。
そこは植生が一切ない、深く昏い谷の底だった。
山奥ならばどこでも見られそうな、ありふれた地形。だがそこが俺が訪れたことのあるいかなる場所とも違うところであることは、空を見上げれば明らかだった。
頭上。そこに広がっていたのは黒々とした星の海。
そして見たこともないほど大きな青い星――惑星が、“俺”の視界を埋めていた。
“十二の月の世界”。
すなわち、普段俺たちが生活している惑星が、頭上の空に浮かんでいたのだ。
“俺”は唖然としてその星の表面を眺めた。
広大な蒼い海の中に巨大な一つの陸塊――大陸があり、大小さまざまな島がそれを囲んでいる。大陸の北西に目を向けると正方形が四十五度傾いたような小さな島、ウィズランド島が見えた。
こんな景色が見えるということは、今“俺”が立っている場所がどこかは明白だった。
十二の月の世界を巡る十二の月のどこか。
いや、あの魔神像が持つ魔力のことを考えれば、そのうちのどこであるかもまた明白である。
魔神月。
魔神はかつて第一文明を崩壊へと導いた終末戦争で兵器として使われた。ここはその魔神の生き残りたちが移住したという月の表面なのだろう。とてもにわかには信じがたいことではあるが。
そこで“俺”はハッと気づいて自身の胸を見た。
そこには短剣など突き立ってはいない。血も出ていない。心臓も脈動している。
しかしその体はどこか境界が曖昧でぼんやりとしているように見えた。
肉体が直接移動したわけではなく、精神体だけがここに召喚されたのだろうか。
ぞくりと、魂まで震えるような視線を感じたのはその時である。
顔を上げる。
知らぬ間に左右の崖の上に数多の漆黒の影が並んでいた。
これまで俺が二度に渡って死闘を繰り広げた相手、魔神将である。
“俺”は先ほどの儀式とは比較にならぬほどの恐怖を感じていた。
角を持つもの、翼を持つもの、剣を持つもの、槍を持つもの……魔神将の姿は様々だったが、そのすべてが“俺”のことを凝視していた。どのような意図を持ってそうしているのかは想像もつかない。
俺には理解できない言語で何かを話しあっている。まるで罪状と量刑について話す陪審員のように。第一文明語なのだろう。
“俺”は金縛りにあったかのようにその場を一歩も動けなかった。
やがて崖上の魔神将たちの声がぴたりと止んだ。
黒き異形の存在たちは“俺”の立つ谷底のその先へと視線を向けていた。
そちらから歩いてきたもの。
それはたった一体の魔神だった。
紅玉のような深紅の単眼の魔神で、その体は甲冑のような奇妙な外皮に覆われている。
背丈は崖上にいるものたちと比べてだいぶ低い。
しかし纏う存在感は段違いだった。
その魔神はすぐそばまで悠然と歩いてくると“俺”に向けて何事かを口にした。やはり第一文明語なのでその意味するところは分からない。
だが“俺”は第一文明語と思われる言葉で何かを答えた。
そう答えるように、あらかじめ誰かに言い含められていたかのように。
俺は直感した。これは契約の儀式だ。
何かを差し出す代わりに魔神の力を授けてもらう、禁忌の儀式。
単眼の魔神が手を伸ばす。
ナイフのような鋭利な爪を備えた手が“俺”の頭を上から強く鷲掴みにする。
その瞬間、魂が切り裂かれるような耐え難い苦痛が“俺”を襲ってきた。
精神体である。肉体的な痛みはない。
しかし自分という存在が細切れにされていくかのようなこの感覚は、肉体的苦痛などとは遥か別次元の責め苦だった。
“俺”は生け贄だ。
ここでこの魔神に殺されるために自分は生まれてきたのだと“俺”は知っていた。諦めてもいた。
しかし本能はそれを受け入れなかった。
自身の頭を握る魔神の腕を両手で掴み、必死に抗おうとする。
しかしこの異形の怪物の力の前にはまるで無力だった。
死ぬ。
自我が完全に崩壊する。
――その寸前、誰かが“俺”を呼ぶ声が聞こえた。
ここに移動したときと同じように視界がぐにゃりと歪み、そしてプツンと消えて何も見えなくなる。
☆
「お。気が付いたか」
“俺”の意識を引き戻したのは若い男の声だった。
瞼を開ける。そこは魔神月へ移動する前にいた契約の洞窟の空洞で、“俺”は相変わらずそこにある石の台座の上で仰向けに寝ていた。
くすんだ金髪の青年がこちらを覗き込んできて、人好きのする笑顔を浮かべた。
「よぉ大丈夫か? 自分の名前言えるか?」
俺はその顔に見覚えがあった。過去に聖剣が見せた夢の中で見たことがあったからだ。
大陸から来た冒険者アーサー。
のちにウィズランド王国を建国し、統一王と称される男である。
“俺”は彼に何かを言った。
彼は一瞬きょとんとした顔を見せたが、またすぐに笑った。
「変な名前だな。まぁいいや。立てるか?」
アーサーの問いに“俺”は首を僅かに横に振った。
心臓に刺さっていたはずの黒光りする短剣はいつの間にか抜けていた。血で濡れた感触はあるが不思議とそこに痛みはない。どうやら刺し傷は治っているらしい。
しかし身動き一つ取ることができない。先ほど単眼の魔神に頭を鷲掴みにされた影響はいまだ残っており、精神的にひどく憔悴していた。
「とりあえずここを出るさー。アーサーはその子おぶってやるさー」
強い大陸訛りがある栗毛色の髪の地味な顔つきの青年、狂人ジョアンが空洞の中を見渡して不安そうに促す。
それでようやく気が付いた。
先ほどまで冒涜的な儀式が行われていた空洞の中は大きく様変わりしていた。
戦闘が行われている。
それも明確な殺意を持って行われる地獄のような戦闘が。
「ヒュー! マジでこいつら魔神が憑依してやがるぜ。面白れえ!」
年代物の片手半剣を振るいながら嬉々として叫んだのは黒い革鎧を身につけた荒々しい巨漢だった。
「ちょっとビョルン、突出するんじゃないわよ! アンタのサポート、誰がやってると思ってるの!」
巨漢に文句をつけたのは髪を虹色のグラデーションに染めた美しい娘である。娘の周囲には無数の光精霊が舞っており、それが先ほどまで薄暗かった空洞を照らしている。
この二人は黒騎士ビョルンと精霊姫オフィーリアだ。
彼らが戦っているのは人と魔神の中間ともいうべき異形の存在だった。
黒く肌が変色し、筋肉が隆起し、爪や牙や角が生えてきている。
それらは先ほど契約の儀式を行っていた黒装束のものたちの変わり果てた姿だった。
彼らはすでに魔神と契約をして力を得ていたようだ。
数の上では半魔神の者たちの方が勝っている。
しかし質では統一王の一行の方が上のようだ。
結果、一進一退の戦いとなっている。
「ホンット! アンタたちと会うとろくなことがないわ!」
襲い来る半魔神の爪を幅広の剣で受け流し、反撃のなぎ払いで倒してから辟易するように漏らしたのは赤い軽鎧を装備した黒髪の美人だった。赤騎士レティシアだろう。
彼女の不平に答えたのは大陸東方の民族衣装を着た男だった。反りのある片刃の剣――刀を振るい、死角から襲ってきた半魔神の胴を両断してシニカルに笑う。
「けっけっけ。そう言うなよ、レティシア。俺たちとお前さんの仲じゃねえか」
「どんな仲よ!」
「腐れ縁ってとこかねぇ」
刀の使い手、ということはこの男が現実主義者だという剣豪ガウィスか。
「駄目だ! 後ろからも増援が来た!」
「全滅させるしかありませんね」
空洞の入り口の方で戦っていた白銀の髪の双剣使いの青年と漆黒のロングドレスを身にまとった女魔術師が言う。
双剣士ロイスと魔術師マーリアだ。
「やれやれ。やるしかねーみたいだな」
戦況を確認した統一王アーサーは肩をすくめて剣を抜いた。
それは刀身が十二に分かれた奇妙な剣だった。聖剣エンドッドによく似ている。
「大丈夫。お前は必ず俺が守ってやるから、安心して寝てな」
魔神崇拝者たちに斬りかかっていく前に、アーサーはそう言って“俺”に笑いかけた。
それがどれくらいの根拠がある言葉だったのかは分からない。
だが“俺”は何故かその一言に深く安堵した。
瞼を閉じる。するとすぐに全身が脱力し、意識を失っていく――。
☆
寝台から跳ね起きるようにして、目が覚めた。
ペタペタと自身の体をさわり、確認する。
俺は俺だ。ミレウス・ブランド。二百年前に魔神に生け贄に捧げられた子供ではない。
そしてここはオークネルの北の契約の洞窟ではなく、王都の北西に広がる人狼の森にあるアルマの里だ。
そう確認せざるを得ないほど、リアリティのある夢だった。
息は切れ、全身は寝汗でびっしょりである。
これまでにも統一戦争期の夢は何度も見てきた。
しかし今回のは一段と異質だった。
夢を見ている間に思ったことを再度思う。
一体今のは誰の記憶だったのか。
そしてなぜ今――オークネルから遠く離れたこの人狼の森でこんな夢を見たのか。
ここが初代円卓の騎士の一人、人狼アルマと縁のある集落だからか? いや、アルマは夢に出てこなかった。
初代たちの風貌から察するに、今の夢はこれまで見たすべての夢の中でもかなり早い段階の出来事であるように思えた。恐らくこの島に滅亡級危険種たちが解放される以前の出来事だろう。その段階では人狼アルマは統一王の仲間にはなっていなかったはず。だから今の夢には出てこなくて当然なのだが……ではなぜここで今のような夢を見たのか、と元の疑問に戻ってしまう。
答えは出ない。
俺はタオルで全身の汗をぬぐうと、宿泊している高床式木造家屋から外に出た。
すでに陽は上り始めていた。今回の討伐対象である決戦級天聖機械ウルトの出現予想時刻は今夜遅くである。
これまでも聖剣の見せる夢は俺に色々な示唆をしてきた。時にはそれが円卓の騎士の責務で役に立ったりもした。
今の夢から、俺は何かを学び取れるのだろうか。
いや、分からない。
今回の夢はあまりにも謎が多かった。
「魔神月……か」
手をかざし、太陽の日差しを遮る。
あの魔神たちが住む月はこの時間帯に空の最も高い位置にくる。
青空の中、不気味な存在感を放つ黒い月を見上げ思う。
夢の中で“俺”の頭を鷲掴みにしたあの単眼の魔神は今もあそこにいるのだろうか。