第百二十三話 倒したと思ったのが間違いだった
旧地下水路の初期地点――『万魔殿』のVIPルームの下まで戻った俺とラヴィは、そこから先ほど解読した第三の暗号文の指示に従って坑道を進んだ。
辺りの様相は先ほど歩いた道とそう変わるわけではない。しかし一歩一歩確実に、財宝に近づいていると俺たちは確信していた。第三の暗号文の解き方はあれ以外にありえないという自信があったためだ。
「ところでさ、ミレくん」
先を歩くラヴィが前を向いたまま、軽いノリで切り出す。
「君って、こう、尋常じゃないくらいモテモテだよね」
「なんだ、突然」
「円卓の騎士のみんなもそうだけどさ。お城の女官とか後援者の女性陣とか……アザレアさんもいるし」
「いや、えーと、何の話だ?」
「宝物庫でキスしようとしたときにさ。この男、慣れ過ぎてるぞと思って。イスカちゃんとリクサ以外の誰かともしたでしょ。ナガレちゃん? それともシエナちゃん?」
「……シエナだよ。って言っても、あの子としたのは、人工呼吸だけどな」
そこでラヴィが振り向いて、今の返答の真偽を確かめるように俺の目をじっと見てきた。俺としては嘘はついたつもりはないので視線を逸らしはしない。ただシエナとのアレは、救命行為以外のこととしてカウントすると彼女と話していたので、後ろめたい気持ちがないわけではない。
そんなこちらの心情を見抜いたのかどうかは定かではないが、ラヴィはそのまま何も言わずに前を向いた。
ちょうどいい機会なので俺からも聞いておきたいことがある。
「そういやさ。どうしてこのタイミングでチューがどうのって言いだしたんだ? 俺がリクサと……その、キスしたことは今年の冬あたりにはもう聞いてたんだろ?」
返事が戻ってくるのにはやや時間を要した。
ラヴィは前を向いたまま、照れ臭そうに後頭部を掻く。
「いや、言わなきゃなーとは思ってたんだけど、これが案外、勇気が必要でねー。ずっと先延ばしにしてたんだ。でもこの間、宝物庫に一人でいるミレくん見たら、なんかこうむらむらっときてね」
「意味わからん。意味わからん……けど」
あけすけに見えるこの女性にも言い出しにくいことがあるのだなと、少し親近感が沸いた。宝物庫では軽いノリで『チューしようよ』なんて言ってきたが、あれも照れ隠しでああいった言い方になったのかもしれない。もっと彼女のことをしっかりと見て、そういった感情の機微を読み取ってやるべきだったと反省をする。
「ラヴィ。ありがとな」
「え、なにが」
「なんでもないよ」
きょとんとして振り返るラヴィ。俺は手を振って誤魔化した。
彼女が俺に好意を寄せてくれていることは疑いようがない。そのことが本当にありがたかったし、嬉しかった。
「あ。待った、ミレくん」
先ほどレイドと遭遇した時と同じように、ラヴィが俺を手で制した。彼女が手振りで示したのはまっすぐ伸びた通路の先。
俺は再びブータから《発光》の魔術を借りると、近くに落ちていた小石にかけて、それをそちらへ投げてみた。淡い明かりをまとった石がカツンカツンと跳ねて飛んでいき、それが止まったところで人型の生物の姿が一つ、光の中に浮かび上がった。
漆黒の肌を持つ醜悪な危険種の姿である。
「あれ、下位魔神じゃん! こんなところに出るなんて珍しい」
ラヴィが目を丸くして教えてくれる。その声には驚きと共に安堵のようなものも含まれていたが、彼女からすれば手強い相手ではないからだろう。
確かに以前、円卓の騎士の責務で戦った魔神将や上位魔神と比べるとかなりサイズが小さく、筋力も低そうに見えた。下位は下位で色々種類がいるそうだが、いずれにしても熟練の冒険者のパーティなら被害なしで討伐できる程度の相手のはずだ。
その下位魔神は俺たちの姿を認めると、熊のような爪が生えた両手を広げて、俺たちの方に猛烈な勢いで迫ってきた。
「ミレくん、ヤっちゃっていい?」
「もちろん」
俺の許可を取ると、ラヴィは腰に巻いた革のホルダーから短剣をスラリと抜き放ち、襲い来る下位魔神の方に、二、三歩進み出た。
交差するように振るわれる魔神の両手の鋭い爪。
俺の目にはそれがラヴィの体を捉えたようにしか見えなかった。
しかし次の瞬間には、ラヴィは短剣を振り切った体勢で下位魔神の向こうにおり、切断された下位魔神の首が宙を舞っていた。
爪を振り切った体勢のまま、僅かに痙攣してから横に倒れる下位魔神。
ラヴィは攻撃の勢いを殺すようにくるりと半回転して、こちらを向いた。
「へっへーん。らっくしょー!」
子供のように胸を張って、ホルダーに短剣を収めるラヴィ。
惚れ惚れするような、鮮やかな手並みである。
「やっぱり凄いな、ラヴィは」
俺は感嘆の声を出して、倒れた下位魔神へと目を向けた。ほとんど不死身と思えるような再生力を持つ魔神であるが、その最上位種である魔神将でさえ首を刎ねられれば死は免れない。
当然こいつももう絶命したものと、俺もラヴィも思い込んでいた。
だから、地面に倒れたその下位魔神の体が風船のように膨らみ始めたことに気づくのが遅れてしまった。
「危ない! ラヴィ!」
一瞬早く気が付いた俺は、彼女を庇うように押し倒した。
下位魔神の体が凄まじい音と共に爆発する。
恐れていたような爆風や熱は一切発生しなかった。代わりに何かの液体が辺りに飛び散り、俺の背中や坑道の壁面に当たった。
服が溶けるシュウシュウという音がする。どうやら強酸のようだ。
「痛ったー!!」
ラヴィが俺の体の下で声を上げた。
「大丈夫か!?」
「へいき、へいき。ちょっと胸のあたりに掛かっただけだから」
ラヴィは上半身を起こして笑ったが、それは痛みで引きつったものになっていた。
見ると、彼女が着ている黒のチューブトップの脇のあたりが酸で溶け、その下の白い肌に火傷のような痕が残っていた。
俺は袖でラヴィの肌から酸をぬぐうとその痕に手を当てて、シエナから《治癒魔法》を借りて呪文を唱えた。
「慈悲深き、森の女神よ――」
酸の痕は見る間に修復されていき、完全に元通りになった。
素早く対応したのが功を奏したのだろう。
「あ、ありがと、ミレくん」
頬を赤らめて礼を言ってくるラヴィ。
俺はほっと息をつく。
「よかったよ。綺麗な肌に痕が残らなくて」
「真顔でなに恥ずかしいこと言ってるの、もー」
ラヴィが苦笑して小突いてくる。
俺は釣られて笑ってから、背中全体に激痛を覚えて顔を歪めた。
「あっちいぃ!」
叫びながら、地面に倒れてのたうち回る。
そういえば俺も背中に酸を受けたんだった。聖剣の鞘の加護が先送りにしていたダメージが戻ってきたのだろう。
慌てるラヴィに背中の酸をぬぐってもらい、しんどい体勢をして自分にも《治癒魔法》を掛ける。自分では見えないのでラヴィに確認してもらったが、幸い俺にも痕は残らなかったらしい。
「でも驚いたよ。こんな下級魔神、初めて見たもん」
先ほど魔神が爆発した辺りを調べながらラヴィが言う。
初代円卓の騎士たちは滅亡級危険種だけでなく、手に負えないと判断した危険種は片っ端から未来へ送ったという。こんな妙なところに現れたあたりから考えるに、こいつもその口なのだろうか。
「しっかしある意味、魔神将より危険な相手だったかも。危うくチューブトップがちぎれるところだったし」
その台詞のとおり、ラヴィの胸部を覆っている布は脇のあたりでほとんど切れかけており、青少年にはだいぶ刺激が強い状態になっていた。
そんな邪まな俺の視線に気づいて、ラヴィが悪戯気に笑う。
「残念?」
「いや、ハハ。まさか、そんな」
「ホントかなー? ほれほれ」
ラヴィはウィンクをしながら、チューブトップを外すふりを繰り返した。
俺はうひゃーと声を上げて両手で目を隠す。
「あはは、うぶだねー、ミレくん。でもちょっと安心した。胸くらいでその反応ってことは、まだ他の子ともチューより先はしてないんだね」
「してるかっつーの。つーか、そっちこそ、うぶだろ。顔真っ赤だぞ」
「あっはっは! いやー、慣れないことするもんじゃないわ。恥ずい、恥ずい」
ラヴィは手でパタパタと顔を扇いだ。
俺は着ていたシャツを脱いで彼女に渡し、それをチューブトップの代わりに巻くように言って背を向ける。
「くんくん。ミレくんの匂いがする」
「え! 汗くさい?」
「ううん。いい匂い」
灼熱地獄の地上と違って、地下深くのここは涼しかったため、汗はそれほど掻いていなかったと思う。
「もういいよー」
と、言われたので振り返る。
俺のシャツを胸に巻いたラヴィというのは、それはそれで大変煽情的だった。