第百十五話 逃げようと思ったのが間違いだった
深い昏睡の中で――。
夢を見た。
今とは違う時代――おそらく二百年前――統一戦争直後の東都の街の聖剣工房で、三人の人物が話をしている。
そのうち二人は以前にも夢で見たことのある人物だ。
一人は左腕に義手をつけた気弱そうな女性――初代円卓の騎士の一人、海賊女王エリザベス。
もう一人は優し気な目をしたコロポークルの青年――同じく初代円卓の騎士の一人である冒険者ルド。
最後の一人は誰か分からない。
その場にいるのは確かなのだが、何故か俺にはその姿が認識できなかった。
三人がいるのは工房の奥の扉の先。
先日、デスパーが十日間籠ったあの一人用の作業場である。
二百年前だというのに、その部屋の中の様子は今とほとんど変わりないように見えた。備え付けられた炉も、金床も、奥の生活スペースも今と何も変わらない。
ただ一つ違っていたのは、その床に巧妙に隠されていた蓋が外され、床下収納が露わになっていることだ。
冒険者ルドはその手前で膝をつき、両手の中に納まるくらいの小さな金庫のようなものを慎重な手つきで床下収納に入れて蓋を閉めた。
「ルドくん、本当にいいんですか? 冒険者時代に手に入れた一番大切な宝物なんでしょう?」
心配そうにそう問いかけたのは、海賊女王エリザベスである。
ルドは薄く微笑みを浮かべると、首を振った。
「いいんです、リズ。元々これはこの島すべての人のために残されていたものだと思うんです。だからここに残しておくべきなんですよ」
ルドは立ち上がると、エリザベスの左腕の義手を見つめた。
「これで後は、その子だけですね」
「ええ。少し寂しくなるけど……この子も、私だけのためじゃなくて、多くの人のために生み出されたものだと思うから」
エリザベスはその場にいる三人目の人物に向き直ると、頭を下げた。
「お願いしますね、××ちゃん。いつか必要な人の元に届けてくださいね」
雑音にかき消されて聞き取れなかったのは、その人の名前のようだった。
話しかけられた相手は返事をしたらしいが、その声も俺には何故か聞こえない。
エリザベスは左腕につけた義手に右手をそっと添えると、祈るように目を瞑った。
「今までありがとう、『叶えるもの』。次の誰かの、心の望みを、叶えてあげて」
義手が純白の光を放ち、その姿を変えていく。
俺の頭の中にエリザベスの意識が流れ込み、その義手の存在意義と彼女の想いを伝えた。
意識が、覚醒する――。
☆
――やっぱり、そうか。
聖剣が見せたと思われる夢から覚めた俺は、冷たい床から上半身を起こしながら一人ごちた。
もっともその声は音にはなっていない。俺はまだゲアフィリが掛けた空気の振動を減退させる魔術の影響下にあった。
見ていた夢の長さに反して、気絶していた時間はそれほどでもなかったらしい。だが、その僅かの間に状況は絶望的になっていた。
俺とデスパーは少し離れたところで、それぞれ小さな檻に入れられていた。それもただの檻ではない。前に悪霊を拘束していた手錠の鎖と同じ――真銀でできた檻である。十中八九、魔術で召喚したものだろう。
ゲアフィリは依然として闇の玉座におり、ひじ掛けに片肘を突いてこちらを見ていた。
接近してこなかったのはこちらの攻撃面の能力が未知数であることを警戒したからだろうか。あるいはそんな必要もないと侮られているからか。
いずれにしても攻撃の手を緩めたわけではないらしい。これも奴の魔術によるものだろうが俺の周囲は加減を間違えた蒸し風呂のような高温、多湿になっていた。
もちろん即座にどうこうなるものではない。しかし、だからこそ聖剣の鞘では防げない。本物の蒸し風呂と同じように、長時間この環境に晒されれば命にかかわると分かっているのに、だ。
かつてイスカの背に乗って星の海の近くまで飛んでいったときのように、環境がさらに過酷になれば聖剣の鞘の加護も発動しただろう。だがゲアフィリはやはり鞘の特性を見切っているらしくそうしてくる気配はない。
息苦しさと熱で、じりじりと体力を奪われていく。全身から玉のような汗が吹き出し、喉がカラカラに乾く。
向こうの檻のデスパーはぐったりとうつ伏せに倒れたまま、ぴくりとも動かない。しかし奴も汗をかいているところを見ると、あちらも同じ環境のようだ。
俺は無駄と知りつつ、もう一度向こうの檻に向けて叫んだ。
――デスパー!
声はやはり音にはならない。
絶体絶命の窮地である。背後にある第九階層へ続く階段を見やるが、まだ誰も降りて来る気配はない。そもそも、そちらからもし誰かが来そうであれば、ゲアフィリがもっと積極的に動いただろう。
いつの間にか奴は《覗き見》の魔術で宙に浮かぶ姿見を出して、そちらを見ていた。きっと第九階層にいる他のみんなのことを監視しているのだろう。
真綿で首を絞められるようなその状況は、それからどれくらい続いただろうか。
気が付けば俺は朦朧とする意識の中、再び横になっていた。
敗北の二文字が、そして死の一文字が、脳裏をよぎる。
このままでは、俺たちを信じてここまで送り届けてくれた作戦の参加者たちに合わせる顔がない。
俺の頭の中に、ある閃きが生まれたのはそんなことを思った時だった。
聖剣の力の使い方は、その時が来ればおのずと分かるようにできている。
そして今こそが、その時だった。
俺は理解した新たな親密度能力を実践すべく、最後の力を振り絞って立ち上がり、みんなの血判つきのハンカチを手に聖剣の柄を握った。
そして向こうの檻のデスパーをしっかりと見据え、普段の彼の姿を思い浮かべて、もう一度呼びかける。
今度は、喉を震わせることなく、ただ、頭の中で。
『デスパー!』
円卓の騎士との心話の力である。
倒れたままのデスパーの体がビクリと震えた。そのままガバリと上半身を起こし、第十階層の中をきょろきょろと見渡す。
どうやら現状確認はできたらしい。デスパーは目をひん剥いて、俺の方を向いた。
「オイオイ、大丈夫かヨ、王サマよォ!」
あちらの声は封じられていないらしい。ついでに言えば、いつの間にか悪霊に入れ替わっている。
俺は一縷の望みに賭けて、再度、頭の中で呼びかけた。
『悪霊、その檻を壊せ! できるだろ、お前なら!』
俺に言われるまでもなく、悪霊は檻の格子を両手で掴んでいた。
「うおおおおおおぉ!!!」
気合の声と共に悪霊の両腕、両肩の筋肉が肥大化する。しかし真銀製の格子はビクともしない。
闇の玉座の方から、心臓を鷲掴みにするような恐ろしい笑い声が届く。笑っているのはもちろんゲアフィリで、その顔についた三つの口のすべてを開いているため、その笑い声は三重に聞こえた。どうやら俺とデスパーの必死な様子がおかしくてしょうがないらしい。
前に南港湾都市で戦った魔神将のグウネズは殺意以外のいかなる感情も見いだせない怪物だった。だが魔神将にも色々といるようで、こいつはグウネズと比べるとだいぶ人間に近い感情の動きが見える。
つまりは、まぁ――端的に言うと、むかつく奴だった。
俺は格子を相手に奮闘する悪霊に向かって、もう一度思念を送った。
『おい、それはただの銀の檻だ! 真銀じゃない! 悪霊、お前に壊せないはずがない!』
普通の銀と真銀は光沢に違いがあるので、普通の人なら見ればすぐに分かる。レタスとキャベツくらいの違いがあるのだ。
しかしどうやら悪霊には見分けがつかないらしい。鍛冶に一切興味を示さなかったあたり、そうではないかと思ったのだが。
悪霊は一度格子から手を離すと、呼吸を整え、再度チャレンジした。
「それならいけるヨ!! ……ふんぬ!!」
いけるはずはない――いけるはずはないのだが。
信じがたいことだが悪霊がそれぞれの手で掴んだ二本の格子は、ミリミリと音を立てて左右へと曲がっていった。最強の硬度を持ち、永遠の金属とも謳われる真銀でできた格子が、である。
ゲアフィリが嘲笑をピタリと止めて呪文の詠唱を始める。こちらを嘲ってはいたが、油断はしていなかったようだ。対応が早い。
しかし悪霊の動きも早かった。
檻の中に落ちていた例の斧を拾うと、広げた格子の間から瞬時に飛び出し、ゲアフィリまでの十数歩の間合いをあっという間に詰めた。そして体を最大限捻ってから力任せの振り方で横薙ぎの一撃を放つ。
「オオリャア!!」
勇ましい咆哮が俺のところまで届く。
ゲアフィリは玉座から動かず、錫杖を手にしていない方の腕で悪霊の攻撃を受けた。鋭利な斧の刃は腕の半ばまで達したが、切断するには至らない。さらにその傷も刃が抜けると、即座に元通りに修復されてしまった。魔神将は強靭な肉体と不死身とも思える再生力を持つ危険種だが、それは魔術特化であるこいつも例外ではないらしい。
そこでゲアフィリの詠唱が完成し、不可視の力で悪霊が吹き飛ばされた。床で数回バウンドしてからゴロゴロと転がって俺のすぐそばまで戻ってくる。
それから始まったのはゲアフィリによる圧倒的なまでの攻撃魔術の連打だった。
一抱えほどはある氷の礫が次々と撃ち込まれ、炎の嵐が吹き荒れて、無数の雷がほとばしる。鋭利な槍が降り注いだかと思えば、真空の刃が襲い掛かり、いくつもの火球が飛来して大爆発を起こす。
それらはすべて自由の身である悪霊を狙っていたが、当然のように檻の中にいる俺まで巻き添えになった。聖剣の鞘のおかげでダメージはないものの、後々の事を考えて【瞬間転移装着】で純白の鎧一式を身につけておく。
攻撃魔術の連打は一向に終わりが見えない。
魔術の副産物として土煙と水蒸気が巻き上がり、すぐそこにいるはずの悪霊の姿すら見えなくなる。
「おい、大丈夫か、悪霊!」
呼びかけてから気づいたが、いつの間にか声が普通に出せるようになっていた。他に力を割いた分、俺の声を封じていた魔術を維持できなくなったのだろう。
うんざりするほどの時間が過ぎた後、攻撃はようやく止まった。だが今度は闇の玉座の方向から非常に長い呪文の詠唱が聞こえてくる。どうやら手数ではなく一撃の重さで攻めるように戦術を切り替えたようだ。
俺はその間隙にブータから《短距離瞬間転移》の魔術を借りて檻から脱出した。声を出せるようになったから可能になったからだが。
このままでは勝ち目はない。
一度、第九階層に撤退すべきだろうが――生きているかも定かではないが――悪霊を置いてはいけないし、ゲアフィリが見逃してくれるとも思えない。
どうするべきか決めかねていると、ゲアフィリが唱えている呪文がどこかで聞いたことがあるリズムであることに気づいた。
第一文明語なので相変らず意味は分からないが……これは、そう。
南港湾都市の戦いで俺とブータが使ったウィズランド王国魔術師ギルドの最秘奥――一定範囲を完全な無に帰す究極難度魔術、《存在否定》に酷似している。
その時、僅かに薄らいだ煙と水蒸気にエルフの男のシルエットが映った。
信じがたいことだが、悪霊はまだ立っていた。今にも倒れそうなくらい、ふらついてはいたが。
「避けろ、悪霊!」
俺は鎧の【瞬間転移装着】を解除して煙と水蒸気の中へ走った。軽量化の魔術が重ね掛けされていると言え、僅かながら重量はある。今はその少しの差が生死を分ける時だった。
悪霊を突き飛ばし、ついでに俺自身も前方へ転がる。その寸前まで悪霊がいた場所が煙と水蒸気ごと球状に抉られたのはほぼ同時だった。スキルエンハンスされたブータが放った《存在否定》と比べれば範囲は狭い。しかしこれを喰らえば悪霊はもちろん、俺もただでは済まない気がした。
向こうから、再びゲアフェリが呪文を唱える声がする。今度は恐らく《存在否定》ではない。しかしこれまでのやつの戦いぶりから考えるに、さらに俺たちを追い詰める手を打ってきたのは間違いない。
ズタボロの悪霊が斧を杖にしてよろよろと立ち上がる。全身から血を流し、腕も足も妙な方向に曲がっている。右の脇腹には大きな穴が空き、種族特徴である尖った耳は片方が欠け、体にはそれ以外にも欠損した箇所が無数にある。
常人であれば十回は死んでいるダメージだ。いや、エルフの頑健な肉体を持ってしても、死んでいなければ絶対におかしい傷である。
しかしそれでもなお悪霊は闇の玉座の方を向き、鮫のような尖った白い歯を見せて笑っていた。
奴の頭の中には逃げるという選択肢はまったく存在しないようである。
そんな悪霊の姿を見て、俺は確信した。
まだ勝機は残っている。
「悪霊――いや、デスパー! スキルエンハンスするぞ!」
俺は悪霊の背後に立つと、聖剣の剣先を上に向け、意識を研ぎ澄ました。