第百十三話 不用意に近寄ったのが間違いだった
「こんな風にみんなで迷宮歩くのって初めてだよねぇ」
エドワードたちと別れてから半刻ほど後。深淵の魔神宮の第九階層、その未踏破エリアで先頭を進みながら緊張感のない発言をしたのは[怪盗]のラヴィだった。【罠探知】のスキルを使いながら歩いているのだろうが、俺の目にはあまりにも無造作に映る。
「いや、南港湾都市のときに海賊女王エリザベスの根城をこんな感じで探索しただろ」
「ああ、そうだった。忘れてた。完全に」
指摘すると、舌をぺろっと出してとぼけるラヴィ。
俺は振り返り、ナガレの方を向く。
「あそこはここと違って何の危険もなかったけどな。獣の白骨死体やら蝙蝠やらでビビってたのが一人いたけど」
「うっせー!」
ナガレはいつも通りの威勢のいい声で言い返してきたが、やはり洞窟内は怖いらしい。最も安全な隊列の中ほどをしっかりとキープして、辺りに油断なく視線を投げかけている。
一方、同じく中ほどに居座っているヤルーは緊張感の欠片も持っていないようで、鼻歌混じりに声を掛けてきた。
「しかしアレだな、ミレちゃんよ。十人って迷宮内進むには多すぎるよな」
「そうだな……パーティ分けるわけにもいかんけど。えーと、円卓の騎士でここにいないのは放浪ザリガニ野郎と相変らず行方不明の第十席と未選定の第五席だけか。ずいぶん増えたもんだな」
俺が即位した日に王城にいたのはリクサとナガレとヂャギーとシエナの四人だけだった。俺を含めてもたったの五人。あの頃の倍に増えたと考えると、なかなか感慨深いものがある。
「あ、ストップ。そこ、罠があるよ。たぶん踏むと石化か致死毒のガスが出るやつ」
大きめの部屋に出たところでラヴィが俺たちを手で止めて、その部屋の中央辺りの床を横断するように指さした。適当そうに見えたが、ちゃんと仕事はしていたらしい。彼女が【罠解除】を行う間、俺たちは小休止を取ることにした。
他のみんなが思い思いの方法で疲れを癒す中、シエナが地面に膝をついて地図を広げた。この子は[狩人]経由で[司祭]になった口なので【地図作成】も習得しているのである。
俺は水筒の水で喉を潤しながら、描き足されていく地図を上から眺めた。もふもふの尻尾を左右に振りながら地図を描くシエナの姿というのも、迷宮の緊張感からはかけ離れたものである。
「あ、主さま。たぶん、もう少しで下り階段があると思います」
「そっか。オッケー。ゲアフィリの出現予想時刻にはまだ時間がある。慎重に進もう」
そこでラヴィが【罠解除】を完了させたらしく、おもむろに立ち上がった。しかしシエナとラヴィにも休憩は必要だろうし、もう少し時間を取ることにする。
その時である。イスカがむしゃむしゃと干し肉を齧りながら俺の胸のあたりを指さした。
「みれうすー、なんかひかってるぞー」
みんなの視線が、その指の先に集まる。イスカの言うとおり、俺の胸のあたりが赤く光っていた。いや、正確には上着の下から光が漏れていた。
その禍々しい光の色には見覚えがある。
「えっ! ちょ、嘘だろ!?」
焦る手で、その光の出どころ――服の下に仕舞っておいた時を告げる卵を取り出す。これまで何度も見てきたからすぐに分かった。すでに卵が放つ光の色は、滅亡級危険種が出現する寸前の状態まで達していた。
「な、なんでだ!?」
愕然として誰にともなく問う。今にも爆発しそうな時を告げる卵を見ながら答えてくれたのは、リクサだった。
「も、もしかするとゲアフィリは魔術師マーリアが掛けた時空転移の魔術に部分抵抗できていたのかもしれません。それで出現時期が早まって時を告げる卵の予測が正確ではなかったのでは……?」
あり得なくもない仮説である。しかし真相がそうであるなら、打つ手がない。
時を告げる卵の放つ光はやがて最高潮に達し、そしていつものようにふいに収まった。
ここは卵に映っていた場所――闇の玉座の間ではないので、ゲアフィリは現れない。しかし変化が一つあった。
ゲアフィリへの対策として全員が首に掛けていた対魔の護符がカタカタと音を立てて振動している。何者かが俺たちに向けて魔力を用いて干渉している証拠だった。
「ゲ、ゲアフィリがボクたちのことを覗いてます! 《覗き見》の魔術で!」
専門家であるブータが取り乱して声を上げる。《覗き見》は姿見のようなものを生成し、術者が思い浮かべた場所や人物をそこに映し出す魔術だ。
俺たちは一斉に足元を見た。この地面の下、第十階層からゲアフィリが俺たちを見ている。自分を討とうとしている者が近づいていると、すでに気づかれているのだ。
護符の振動はふいに収まった。――かと思うとすぐにまた振動を始める。
今度は劇的な変化が起きた。
「ぢゃあああああああああぎいいいいい!!!!」
突如、ヂャギーが咆哮を上げたかと思うと、長大な斧槍を振り回しながら、通ってきた通路を逆走していった。
ついでデスパーも戦斧を手に別の通路に向かって走りだした。その両目は爛々と光り、通路の遥か先を見据えていた。
「いやがった! ゲアフィリだヨ!」
確信を持った、デスパーの叫び。いつの間にか悪霊と入れ替わっている。俺も彼が走っていく通路の先を見てみたが、そこには何もいない。
異常をきたしたのはこの二人だけではなかった。
「うわあああああああ!!! 申し訳ありません! 申し訳ありません、父上ぇえええ!」
叫びながら土下座を始めたのはヤルーである。
その横では顔を真っ赤にしたリクサが、もじもじと身をくねらせている。
「そ、そんな! こんな場所で……困ります、陛下……」
もちろん、彼女の視線の先に俺はいない。
ラヴィは嬉々として見えない宝箱を開けるような仕草を始め、ブータは白目を剥いてその場で卒倒した。シエナは半狂乱の様子で虚空に向かって小剣を幾度も突き刺し、イスカはその場でうずくまると膝を抱えて震え始めた。
最後の一人――ナガレの変化は少しだけ特殊だった。
彼女は愕然としたような顔で正面を見つめたかと思うと、喜びとも悲しみともつかぬ表情を見せた。そして突如我に返ったように頬を叩くと、懐から何かを取り出してそれを自身の左腕に刺した。
以前、ヂャギーが円卓の間で暴れたときに見たことがある。彼女が自身の世界から召喚したもので、確かチュウシャとかいう名前の、薬物を血管に直接流し込むためのあの器具だ。
ナガレは額に脂汗を浮かべて、俺の方を向いた。ここが深淵の魔神宮であることなど忘れたかのようにふるまう他の者と異なり、きちんと状況を認識している顔である。
「幻覚だ……ゲアフィリがオレたちに魔術で幻覚を見せてやがる。それぞれが一番動揺するものが視界に映る魔術だと思う」
「ナ、ナガレは大丈夫なのか?」
「強い抑制剤打ったからな。クソ、嫌なもん見ちまった」
ナガレは荒い息をしていたが、そのうち落ち着いたようで、ぐいっと額の汗を腕でぬぐって姿勢を正した。
ゲアフィリが魔術に特化した魔神将だとは聞いていた。しかしこれだけ対策をした上で、勇者であるリクサの魔術抵抗まで抜くとは予想以上の魔力である。俺だけ平気だったのは聖剣の鞘のおかげだろう。
「どうする、ミレウス」
「……その薬のストックは?」
「あと一個しかねえ。これは二個ずつしか持てねえんだ。今、オレに一個使ったからまた一個作り直せるけど」
ナガレは先ほど使ったのと同じようなチュウシャを懐から取り出した。
それを眺めて、唐突に、俺はまったく関係ないことを聞く。
「なぁ、『ハイド氏』ってのはなんなんだ?」
「あん?」
「前にルフト家の館でデスパーが悪霊と入れ替わったときに、ナガレが言ってたろ。『ワイルドな奴だな。ハイド氏って呼ぼうぜ』って。なんのことだったんだ?」
「あー、そんなこと言ったっけか。言ったかもな」
あまり意識しての発言ではなかったらしい。ナガレは頬を掻きながら思い出すかのように中空に視線を漂わせた。
「別にたいしたことじゃねー。オレがいた世界の小説に出てくるキャラの名前だよ。『ジキル博士とハイド氏』って小説のな。まぁざっくり言うと二重人格者の話で、理知的なジキル博士と暴力的なハイド氏ってのが同一人物だったってオチ」
「……同一人物。やっぱり、そうなのか?」
「ん、なんだ? それ、なんかこの状況と関係あんのか?」
ナガレが不審げに眉を寄せる。
俺は慎重に言葉を選んで答えた。すでに俺の中では確信に近いものを得つつあった。
「先入観だよ。最初にデスパー自身が“悪霊が憑りついてる”って発言したから、俺もみんなも先入観を持ってしまったんだ。……もっと早く気付くべきだった。俺たちは前によく似た事象に触れてたんだから、気づいてもよさそうなもんなのに」
俺はデスパーが走っていった通路の方を向いてナガレに手のひらを差し出した。最後まで説明してやりたがったが、時間がない。
「薬を一本くれ。俺はデスパーを追いかける。デスパーというか悪霊だけど……万が一アイツが見たのが幻覚じゃなくて、転移してきた本物のゲアフィリだったりしたらマズいから。ナガレは他のみんなを頼む」
「……分かった。気をつけろよ」
珍しく素直な返事をしたナガレからチュウシャを受け取ると、俺は聖剣の親密度能力の一つ、円卓の騎士の居場所感知を使ってデスパーを追った。
奴はそんなに遠くまでは行っておらず、走り始めてすぐに見つかった。袋小路となっている通路の先で、何もない空間に向けて斧を猛烈な勢いで振るっている。
俺はそれから目を外すことなくチュウシャを構えて、最大限に警戒しながら歩を進めた。
純白の鎧一式をつけるべきだろうか。そう考えた時、悪霊の動きがピタリと止まり、こちらを振り返った。
「アレ、国王サマ? どうしたんデス?」
いつの間にか体の主導権がデスパーに戻っていた。もう幻覚も見ていないようだ。
ゲアフィリが幻覚攻撃をやめたのか。それとも幻覚は範囲魔術で、そこから外れたから効果が出なくなったのか。いずれにしても薬は必要なくなったようである。
俺は安堵の溜息をつき、デスパーに近づいた。
それが間違いだった。
俺たちの足元の地面がぱっかりと二つに割れた。重力に引かれ、俺とデスパーは第九階層から落ちていく。
もちろんその先は第十階層。そして第十階層にはゲアフィリがいるという闇の玉座の間しかない――。