08.
「……俺は、好きだったんだ。彼女も、あいつも」
くぐもった声が、静かな部屋の中に響く。その声は少女に額を預けて、下を向いているせいでくぐもった印象も受けるだろう。
地面に落ちた言葉と共に、ゆるく掴んでいた少女の服を握るエリオットの手に、力が入る。
「だから――だからこそ、余計に許せなくて、やるせなくて、どうしようもなかったんだ」
自嘲的な色を多分に含んだその言葉は、どうしようもないほどに覇気が感じられない。諦めて、諦めて、諦めて――それでも。それでもなお、諦めきれないとでも言うかのように。
少女の手が、エリオットの背を優しく撫ぜた。二度、三度。複数回繰り返されるその行為は、未だ止まらずに回数を重ねていく。
「かといって、正面切って堂々と奪われていたら、俺はもっと惨めになったと思う」
当り散らさずにいられる気がしないからな。といった声は、僅かに震えていた。
「分かるだろう? 悲劇のヒーローだと思い込んで、そうあるべきだと思い、その思い込みに酔って……お前に、たくさんひどいことをしたからな」
先ほどまでも十分小さな声だったというのに、一層小さく、低くなった声。それから付け足すように「悪かった」と少しの間をおいて続ける。「この謝罪は、他でもない俺の自己満足だ。受け取るな」とも。
すると、動いていた少女の手はぴったりと止まる。エリオットの肩が僅かに揺れて、一瞬頭を持ち上げようとするかのように動く。
しかしすぐにその動きは止まり、エリオットの頭は上がらないままに終わってしまう。
「あるじさまは」
静かな声だった。悪く言えば、感情を感じない声。だが不思議と恐怖はない。どちらかといえばエリオットの心に、安心をもたらす。
「悲しくて、辛かったんですね。でもそれを、誰にも言えなくて、ただ自分の中でだけ処理しようとしていた」
少女のその言葉を聞いて、ひどく情けないと感じるような息が漏れる。
「良いんですよ、あるじさま。泣いても、喚いても。ここには、わたししかいません。だから、どうか――」
もう、苦しまないで。
告げられた言葉に、どうして我慢出来よう。
それはきっと、エリオットが一番言って欲しかったこと。
自分が悪かったのだろうか。どうすれば良かったのだろう。どこから間違えたのか、分からない。
あの日からずっと、そんな風に悩んで、悩んで、悩んで――雁字搦めになって。どうしようもない過去を悔やんでいたエリオットの心を、引き上げるその言葉に。エリオットの心の壁は、音もなく崩れ落ちていく。
エリオットの頭を乗せていた少女の肩部分の服が、少しずつ湿っていった。物音ひとつしない部屋の中で、聞こえる嗚咽。
少女はその胸に抱くようにしてるエリオットの頭を、ただ優しくなぜた。
「……すまなかったな。肩、冷たいだろう」
暫くして。ようやく嗚咽が聞こえなくなると、部屋の中に静寂が戻る。その静けさが気まずいと言わんばかりに、エリオットが呟く。声は誤魔化しようがないほど掠れていて、いつもより弱々しい。
「着替えてくるといい。俺も、その間に少し気持ちを落ち着かせる」
少女の肩に乗せていた頭を上げて、距離を取った。自ら手放したというのに、離れたぬくもりが名残惜しい。それを誤魔化すように目元を手で押さえて、顔を逸らす。
いつもと変わらぬように、少女が返事をして部屋を出ていくのを待つ。――しかし。一向に物音どころか、返事すら聞こえない。すでにもう腫れぼったくなってしまった目元を、少しだけ釣り上げる。
「……どうした」
「なにがですか?」
目元を覆っていた手をずらして少女に視線を向けた。そこには、少し前と変わらず立っている少女の姿が。違うのは、エリオットの言葉に目を瞬かせて、僅かに首を横に傾けていることくらいだろう。
「いや、俺は着替えてくるといい、と言ったんだが。何故動かない」
「何故と言われましても……着替えてくる必要がないから、ですかね?」
「……そうか。じゃあ、先に食堂へ行っていろ。俺は後から行くから」
気恥ずかしさから、わずかに顔が赤く染まったのがエリオット自身にもわかる。エリオットの意思に反して、熱をもっていく耳が憎い。
目元を覆っていた手をずらし、今度は口元を手で押さえ、少女から視線を逸らす。それから、もう片方の手を振った。少女を追い払うように。
「冷えたご飯を温めておけってことですね? もちろんですとも!」
「いや、そういうわけでは……まあ、いいか」
どうにもずれた返事をした少女に、呆れた視線を向けてしまったのは致し方がないだろう。情緒もない言葉を訂正しようと口を開くものの、わざわざする必要もないか、と言わんげに開いた口を閉じた。
「それではあるじさま、先に食堂でお待ちしておりますので! なるべくはやく、なるべくはやく! きてくださいね?」
「わかった、わかった。念押ししなくとも、早めに行くさ」
「遅かったら、そうですね……今晩の夕食は、おるじさまのお嫌いなものにいたしますので!」
「……俺は子供じゃないぞ」
ほんの少しくらい、感慨を覚えてくれているのでは、と考えていたエリオット。しかし、どうやらその考えは甘かったらしい。いつもと変わらぬ――いや、それどころかひどくなったような気すらしてしまう扱いに、細く息を吐き出す。
扉を開けて、廊下へと姿を消した少女の背中を見送りながら、エリオットは小さく唸った。
胸の中を蠢く感情には、覚えがある。とはいえ、今胸の中にあるのは記憶の中にあるものよりずっと穏やかで、暖かで、優しい。凪いだ海のような静けさともいえるだろう。
抱いていたはずの人嫌いも、誰とも関わりたくないという気持ちも。認めたくはないが、もうすっかり溶けて消え去り――エリオットは少女を受け入れてしまっていた。もう、いつかのように認めたくないと頑なに拒む気持ちごと。
「本当に……なんなんだ、俺は」
前髪を掻き上げるように毟る。何本か抜けて掌に残ってしまったが、構う様子はない。消えてしまいたくなるような、過去をなかったことにしてしまいたいような――そんな気持ちを抱えて。ようやくエリオットは認めた。
少女を想う気持ちがあること。自分がいかに自分勝手で、わがままで、世間知らずであったかを。
こうして引きこもったのも、少女と出会った日にステラ・ウォーレンに八つ当たりしたのも。全部、全部、結局構って欲しかっただけなのだ。そうしてあわよくば、という願いを胸に抱いて。そんな奇跡みたいな願いが、叶うはずないと分かっていながら。
「いい年した大人が、笑わせてくれるな」
一度自嘲的に笑うと、しかしすぐに表情は消え去ってしまう。二度、三度睫毛を震わせながら瞬き、それから大きく息を吐き出す。
身体の中に溜まった悪いものを全て出し切るかのような、そんなため息をひとつして。俯き気味だった顔を、あげる。
その顔には眉間の皺はなく、どこか決意を抱いたような――それでいて、エリオットとは思えぬほど穏やかで、優しい表情をしていた。
数歩歩いて、少女を追いかけるように扉を開いて廊下に出る。食堂に向かうために、廊下を歩くがその足取りは妙なほどに軽快だ。まるで、今まであった憑き物がすべて落ちたみたいに。
しかし。あと少しで食堂、というところでその軽快な足取りは鳴りを潜めてしまう。エリオットの足はぴったりと止まってしまい、ある一点を凝視する。
その顔は、少し前まであった穏やかさと優しさを上塗りするように、驚きに染まっていた。
何度も目を瞬かせて、その光景が幻ではないかと確認する。しまいには両の手で瞼の上から目をこすり始めたのだが、目の前の幻は一向に消える気配はない。
――どうやら、目の前の光景は現実のものらしい。それを受け入れるのに、たっぷり五分ほどを要して。ようやく、エリオットは忘れていた呼吸を取り戻したかのように、息を吸った。
「どうしてここにいる。リタ、ヴィンス」
つとめて平素通りになるように声を出したはずだったのに。エリオットの口から飛び出た言葉は、思っていた以上に冷たかった。底冷えするようなその声に反応するかのように、申し訳なさが入り混じったような小さな声で「エリオット」「兄さん」と異なった呼び方で呼ばれる。
それがエリオットの心を、嫌という程に掻き乱す。エリオットの足は、身体は、少しだって言うことを聞いてくれない。――早く、少女が待っているから食堂に行かねばならないというのに。