07.
どこからか、鳥の鳴く声がする。控えめに聞こえてくるその音に、エリオットの意識は引きずり起こされた。どうやら、眠りが浅かったらしい。
目覚めは、最悪だった。
以前のように悪夢を見ていたのならばわかる。けれど今日は、悪夢を見ていたわけじゃない。だというのに、どうしてこれほどまでに気分が悪いのか。
わかりきった話だ。考えるまでもない。
寝て起きれば、何か変わるかと思っていた。けれど現実は、やっぱりそう甘くはない。そんなこと、もうとっくの昔に学んだはずなのに。
どうやら、学習能力が欠如しているようだ。エリオットの口元が、薄く弧を描く。
異様に重たく感じる身体を、無理やり起こす。閉め忘れたカーテンから差し込む朝日が、いろんな意味で眩しい。
光を遮るように顔を俯かせて、右手で額を押さえた。
気まずさと申し訳なさ。それから恐怖を混ぜ合わせたかのような、気持ちの悪い感情がエリオットの中で渦巻く。
持て余した感情は、行く先を知らない。けれど蓋をして閉じ込めておくには、大きすぎる。
いったい、どうすればよかったんだろう。胸の中を支配する感情を吐き出すように、自嘲的なため息をつく。いや、つこうとして。俯かせていた顔を跳ね上げた。
「おはようございます、あるじさま! 今日は珍しく早起きなのですね!」
蝶番が軋む音がして、扉が開くと同時に聞こえた声。それは紛れもなく、ここ最近で聞き慣れた、聞き慣れてしまった少女のもの。
――ああ、どうして。嫌に響く声を聞きながら、呆然とした様子で視線を少女に向ける。
浮かべられた満面の笑み。いつもと変わらない調子。そのどれもが、エリオットを狂わせていく。
「あっ……申し訳ありません。昨夜は、カーテンを閉め忘れてしまっていました……一生の不覚です……」
部屋の中に差し込む日の光を見て、少女は愕然とした様子を見せた後。落ち込んだように頭を項垂れさせた。
いつもなら、この演技掛かった調子を鬱陶しいとはねのけただろう。けれど今のエリオットには、そうするだけの余裕もない。
少女に向けていた視線を逸らして、ベッドから起き上がる。無言でベッドから出て、エリオットは着替え始めた。
普段とは違うはずの反応に、少女がどのような顔をしているのかは分からない。
いいや、分かりたくなかった。だからこそ、わざと少女に背を向けている。
「ご朝食の準備は、いつもの通りに――」
「必要ない」
それを知ってか知らずか。変わらない調子で向けられた言葉。けれどエリオットは最後まで聞かず、途中で遮った。それも、明確な拒絶の言葉で。
少女と初めて出会ってからの朝でさえ、言わなかった言葉。だからこそ流石の少女も、驚いたように「えっ……?」と小さく漏らしてしまったようだ。
「二度はない。俺がいる部屋にも立ち入るな」
白いワイシャツのボタンを一番上まで留め終わると、洋ダンスの扉を閉めた。いつもより力強く閉めたせいで、鈍い音が部屋の中に響く。
そのまま踵を返し、少女の前を通り過ぎて部屋を出ようとする。けれど――
「怖いのですか」
と、少女は言う。唐突にも聞こえるその言葉は、確かにエリオットの耳にも届いていた。届いていたからこそ、少女の目の前でエリオットの足は止まる。
下から覗き込むようにしている少女の大きな瞳が、エリオットを捉えて離さない。いつもとは違い感情をそぎ落としたかのようなその瞳に、思わずひるんでしまう。口の中にたまってもいない唾を、ゆっくりと飲み込む。
「なにが」
ようやっと吐き出せた声は、ひどくかすれている。おまけに、今にも消えてしまいそうなほどに小さい。物音ひとつしない、静かなこの部屋の中ですら今にも消えてしまいそうなほど。
「なにが、怖いというんだ」
「それは……わたしには、わかりかねます」
少女は左右に小さく首を振った。先ほどまでの感情のない瞳はなりをひそめて、かわりに困惑の色が浮かんでいる。
「でも、あるじさまが何かにおびえて、怖がっているのは、わかります。……わかるんです」
「っ……! お前に、いったいなにが」
湧き上がってきたのは、怒りか。それとも違う何かなのかすらわからない。いろんな感情が複雑に絡み合い、混ざって溶けては消えていく。このどうしようもなくやり場のない気持ちをどうしたらいいかわからなくて、少女のすぐ後ろにあった木製の扉を、勢いよく殴りつけた。
それから、感情を抑え込んだように声を震わせながら「俺のなにが、わかるというんだ」と顔をうつ向かせて呟く。
エリオットと扉の間に挟まれた少女は、まっすぐにエリオットを見つめている。すぐ後ろの木製の扉が、わずかとはいえ壊れたのではと思わせるほどの音を立てて殴られたのに、だ。
「わたしは、あるじさまとは違う個体ですので。だから、あるじさまがお話してくださらないと、なにもわかりません」
少女は静かに言葉を紡ぐ。感情が乗っていないかのような声。けれどそれはエリオットの中に容赦なく入り込んでくる。
えぐるように、やわらかくとけこむように。
知らないうちに握りしめられていた拳から、力が抜けていく。
「それでも、あるじさまは、あるじさまですから。今どんな感情でいらっしゃるかぐらいは、わかりますよ」
だって、あるじさまはわたしのあるじさまですからね。と少女は言った。その声は先ほどまでとは違って、優しさが滲んでいる。
今度は身体から力が抜けていくのが、はっきりとわかった。上体が重力に逆らえず、徐々に傾いていく。
しかし、くの字に曲がり切る前に身体は動きを止める。かわりに額に感じる暖かな感触。少女の身体が強張ったのが分かる。
少女の肩に額を預けるその姿は、まるですがっているようにも見えるだろう。あながち間違いじゃないかもな、とエリオットは口元を歪めた。
「あ、あるじさま? あのう。どうされて――」
「うるさい。しばらく動くな」
困惑にも似た言葉がエリオットの上に落ちてくる。けれどエリオットはお構いなしだ。一向に動く気配はない。
諦めたのか、少女の身体から力が抜けていくのが分かった。けれどすぐに少女が身体を動かした振動が伝わってくる。
諦めていなかったのか、と思う間もなく振動と殆ど同時に、背中に感じた温もり。
エリオットは肩を揺らした。弾かれたように顔をあげようとして、しかしその行動は未遂に終わる。
緩やかに、けれど規則的に背中から伝わってくる熱と振動。――少女がエリオットを抱きしめるように背中へと手を伸ばし、背中を撫ぜるように叩いているのだ。
まるで子供のような扱い。普段なら怒ったことだろう。
けれど今は、それが心地よくて仕方がなかった。
そっと目を伏せる。瞼の裏側の暗闇に浮かぶのは、悪夢じゃない。親友だと思っていた女性とも違う。
エリオットに暖かさを与えてるように、いつも変わらずやわらかに笑う一人の少女の姿。
恐怖は、決して消えやしない。最悪の場合は、いつだって脳裏をよぎる。それでも――それでもどうか、と願わずにはいられなかった。
そうして、あるいは少女なら、という確証も何もない、ただエリオットの願望にまみれた希望を抱いて。