06.
思わず口元を手で押さえた。だって、そうだろう。ずっとエリオットを苦しませ続けてきた悪夢。だというのに、たった一人の人間に出会っただけで、そんな悪夢を見なくなるだなんて。
それどころか、見なくなったことにすら気づかなかったのだ。信じられるわけがない。
少女が人間だと思えないから?
いいや、それは関係ないだろう。人間だと思えないからといって、全てが解決する問題ではない。もちろん、中には解決することだってあるだろうが。
では、なぜ。どうして――いや。悩むまでもない。簡単な話だ。
いつだったか、答えはすでに見出しているのだから。
浅く、息を吐きだした。口元を押さえつけた手の隙間から、息が漏れていく。
「あるじさま。申し訳ないのですが……折角なのでお茶、飲んでいただけませんか?」
ひかえめにかけられた声。耳に飛び込んできたその声に、口元から手を放してはっと顔を上げる。
眉を下げて笑っている少女は、いまだに盆を両手でかかえたままだ。その場から動いた形跡はなく、使用人の鏡だと言えるだろう。
そんな少女が入れたお茶は当然おいしい。かつ、それが元より自分のために用意されたものであること。また、己が心境の変化に気づいてしまったがゆえに、エリオットは少し悩む様子を見せたものの「……ああ」と小さな声で返事をする。
不機嫌さや、渋々といった感じを装った様子もなく。どこか戸惑いを含んだ声だった。
「時間が経ってしまっているので、いつもよりすこし渋いかもしれません」
「俺のせいだ。気にするな」
とエリオットが言うと同時に、部屋の中に響いた派手な音。驚いて少女を見る。どうやら、バランスを崩したらしい。
抱えた盆を右に左に、と揺らしながら慌てている姿が目に入る。
いったいなにが起こったのか。わずかに困惑しながらも立ち上がり、片手で盆を、もう片手で少女を支える。
すっぽりと腕の中におさまってしまった少女。ああ、意外と小さいのだな、なんて。今更過ぎる感想を抱く。
「……あのう、あるじさま」
「なんだ」
「その、大変失礼ながら」
どこか、頭を打たれたのですか。
至極真面目な顔で問うてくる少女。思わず「は?」と低い声で問い返してしまう。
「あ、あるじさま……お顔が大変、怖いことになっているのですが」
「誰のせいだと?」
「えええ、わたしのせいですか? わたしの?」
「それ以外に誰がいると」
「いやでも、あるじさまのせい――」
「ほう。お前は、自分の失態も主のせいにするのか、そうか」
本当は、知っていた。少女がどうして、真面目な顔で頭を打ったのか、だなんて問うてきた理由を。
考えればわかることだ。普段のエリオットであれば、少女を支えるだなんて行動起こさない。
いいや。それ以前に――お茶が渋くなったことを、自分のせいだとは言わなかっただろう。
ああだから。少女がらしくもなくバランスを崩したのは、他ならぬ自分のその言動のせいで動揺したせいなのだと、ようやく理解した。
視線を下げる。エリオットの腕の中で、どうこたえるべきかと悩むように唸る少女。盆をもっていなければ、頭を抱えていたかもしれない。
簡単に思い浮かんでしまうその姿に、エリオットの口角は自然に緩む。
「それで。お前が茶をいれないなら、俺はもう寝るが」
「っは! 淹れます、淹れます! ですのでとりあえず……あの」
「ああ。俺が手を放したからといって、落とすなよ」
腕の中で少女が騒ぐ。そんなわけないだの、わたしは使用人の鏡だなんだと。当然、エリオットは鼻で笑って流したのだけれど。
少女から身体を放して、元いた場所に戻る。椅子に腰を下ろし、机の上に所狭しと並んだ本や紙を脇に寄せた。
あいたその空間に、音を立てずに置かれたソーサーとカップ。砂糖の瓶が机の上に並ぶ。それから、紅茶がしずかに注がれていく。
「……お前は、飲まないのか」
紅茶を注ぎ終わり、ポットを机の上に置くと少女は盆を抱えて壁際に寄る。
いつもと変わらぬ行動。けれどそれが今は妙にさみしく思えて、気が付くと口から言葉がついてでていた。
少女も驚いたことだと思う。なにせ、言ったエリオット自身が驚いているのだから。
慌てて、なんでもないと言おうとした。だというのに、言葉が出てこない。まるで、なんでもないと言うことをエリオット自身が拒んでいるかのように。
喉元を手で押さえる。どうにも先ほどからおかしい。自分が、自分でなくなってしまうような。あるいは、足元からゆっくりと、時間をかけて得体の知れない何かが這い上がってくるような感覚。
気味が悪かった。追い払うことなど出来ないと感じさせる、その感覚が。
少女が言葉を紡ぐ前に、がたん、と音を立てて椅子から立ち上がった。
「気が変わった。俺はもう寝る」
「えっ――」
「茶は、処分しておけ」
ああ、なんてひどい。感情の乗らない声で言いながら、けれど思うことといえばエリオット自身の言動を責めること。
であれば、最初からこんな言動を取らなければ良かったのだ。素直に少女が茶の席に着くまで待って、少し渋い上に温くなった紅茶を二人で飲む。
たった、それだけのこと。それだけのことをすれば、良かっただけの話なのに。
けれどエリオットには、どうしたってそうすることが耐えられなかった。今までの自分を全て否定する行動のように思えて。
人でないから、なんだと言うのだ。いいや、それ以前に。本当に少女は人ではないのだろうか。
少女が人でないと言う確信も確証も、未だにない。
もし。もし少女が人間だったとすれば――エリオットは、受け入れていたのだろうか。その存在を。
分からない。分からないからこそ、怖くてたまらないのだ。
少女の存在――いいや、他ならぬエリオット自身が。
物言いたげな少女の視線を背中に受け止めながら、エリオットは部屋を出て、扉を閉めた。
ゆっくりと閉まる扉は、まるで境界線だ。あるいはエリオットが築き上げた心の壁。
いつのまにか少女によって、崩されかけていたもの。
本当なら、壁なんて必要ないのかもしれない。そのまま崩れて消えてしまえば、こんなに苦しむ必要なんてないのだと思う。
けれどその壁がなければエリオットは――静かな廊下に、ため息が落ちた。足音は、いつまでたっても響かない。