02.
手の甲から、赤い雫が滴り落ちていく。埃一つついていなさそうな絨毯に、一つ、また一つと赤いシミが広がった。
「エリオット……」
目を見開き、間抜けなまでに開かれていたステラの口からエリオットの名が呼ばれる。
少し前までそれをごく当然のように受け入れていたのに。今はどうしようもなく、それが不愉快で仕方がない。
「悪いが、君に名を呼ばれる筋合いはない」
冷たく言い放つと、ステラはその目尻に涙を溜めた。どうして。そんな風に視線で責めながら。
――その瞳をしたいのは、俺だ。
奥歯を噛み締めて、その視線から逃げるように瞼を落とす。
だって、そうだろう。エリオットの気持ちを全て踏み躙った上で、好きだから受け入れてくれだなんて。どれだけ、厚かましいのだ。
少しは、少しは悪くないと思い始めていたのに。そんな矢先の出来事だったがために、時間を掛けて戻した傷も、何もかも。エリオットの全てを壊し直すには、十分すぎた。
「どうして? どうして私じゃだめなの? あなたより出来損ないの、あんな――」
また、ガラスの割れる音が響く。
同時に、赤い雫が何滴も宙を舞いエリオットの周囲の絨毯を、赤く染めた。
「……二度はない、といったはずだ」
振りかぶった姿のまま、ステラを睨みつける。
顔面すれすれに通り過ぎて、壁にぶつかり砕けたインク瓶の破片をみているステラの顔は、驚くほどに白い。
投げたインク瓶のせいで黒く染まってしまいはしたが、元の壁の色といい勝負な白さだ。
ステラはエリオットとインク瓶の破片と、視線を何度も往復させる。
そうしてようやく、エリオットの怒りが、あるいは言葉の本気度合いを悟ったのだろう。未だ不満の残る表情ではあったが、慌てたように扉の向こう側へと消えていく。
「……片付けなきゃな」
一人きりになった部屋の中では、声がよく響いた。窓の外で仲睦まじく寄り添っていた鳥の姿は、もうない。
ガラスが割れた窓から、冷たいだけの風が部屋の中に舞い込み、エリオットを襲う。
――世界はなんて、優しくないんだろう。
知らず知らずのうちに、自嘲的な笑みが漏れた。なおも血が溢れ出ている右手の甲をじっと見つめる。
少なくとも絨毯と壁、それから窓。あとは今来ている服も全てどうにかしなければ、もう使えないだろう。
絨毯と壁は頑張ればエリオットでもどうにかできるかもしれない。服なら買い換えればいいだけ。しかし窓は無理だ。専門職の人間を呼ばなければ。
けれどどうしたって、それは憚られた。それが仕事の人間だとて、何があるかわからないのだから。
ゆっくりと、息を吐き出す。身体の中に溜まってしまったものを、外に出すように。
自分の浅慮な行動に呆れてしまう。けれどすでに終わってしまったこと。今更勢いで窓を破ってしまった事実は変えられない。
――とりあえず、窓とその他の片付けの件は後回しだ。なにせそれより、先にやらねばならぬことがある。
いっこうに止まる気配なく、己の手の甲から滴り落ち続ける血を見ながら歩き出した。
不規則的に物が落ちる音がする。その度に漏れるため息。
傷の手当てをするために、専用の道具を探し始めて数十分。少しも見つかる気配がない。
まだ傷から血は出ているが、当初から比べると出血量はだいぶ減った。これならもう、手当てをしなくとも血は止まるだろう。
日常生活に支障は多少出るだろうが、まあ問題はない。ようは慣れだ。
いい加減見つかる気配のないものを探すのは、疲れた。ここらが潮時だろう。
ただこびりついた血は落とさなければ。
床のあちこちに散らばる、置物や本などを一瞥して――目を背ける。片付けの必要性は分かっているが、どうせ壊した窓や汚した絨毯と壁もどうにかしなければならない。なら、その時にまとめてやればいい。
そう結論づけると、水場に行こうと、して。突然、視界が揺らぐ。
「……っ!」
歯を食いしばり、なんとか壁に手をついた。倒れこそしなかったが、未だに焦点は定まらず、目の前の世界は白一色。
血を流しすぎて、貧血でも起こしたのだろう。
情けない。軟弱過ぎる。だから、だから彼女は――と浮かんだ考えは、すぐに頭から追い出した。
考えたってどうしようもないことだし、なにより考えたくない。
しばらくして、ようやく視界にいつもの世界が戻ってくる。何度か目を瞬かせて、もう動いても大丈夫そうなことを確認してから、壁から手を離す。
――いや。正確には、離そうと強く押した。そうして、押してしまったがために、身体が傾く。
突然のことに理解が追いつかず、困惑した。いったい何がどうなってるんだ、と。
そんなエリオットの困惑をよそに、身体は傾き続け――凄まじい衝撃が身体を襲う。
「いっ……!」
痛みのあまりに、漏れた声。しばらく悶絶したが、それ以上の衝撃がエリオットを襲ってくることはなかった。
今日はなんて日なんだ、と心の中で悪態を吐く。
ゆっくりと地面に手をついて身体を起こし、辺りを見渡す。
周囲は薄暗く、明かりがあるのはエリオットが倒れてきた方向のみ。そこから漏れる光は、真ん中で二つに区切られている。
区切っているのは、見慣れた白い壁。
――つまり、隠し扉が作動してしまったのだろう。冷静にそう結論づけて、しかしすぐに疑問が浮かぶ。
だが考えたところで、答えが見つかる訳じゃない。いつものように思考を切り替えて、今度は薄暗がりの方に視線を向けた。
見える限りで判断すると、どうやら寝室のようだ。確かに構造上、普段使っているあの部屋の隣は、寝室だったと思う。
だからこそ新たな疑問が浮かぶ。どうしてこんな隠し扉で繋ぐ必要かあったのだ、と。
立ち上がって、部屋の中を歩き回る。廊下に繋がる扉があるだろう壁側にいけば、そこに扉はない。かわりに、かたい壁があるだけ。
首を捻り、反対側――つまり本来ならば外が見える窓があるはずの場所に向かう。しかしそこにも、あるはずの窓はない。
つまり明確に、なんらかの意図をもって隠された部屋ということだ。
いったい、誰がなんのために。
その疑問は、いつもなら切り捨てただろう。考えたところで、分かるまいと。
けれど今回はそうしなかった。
目の前に、解決の糸口になりそうなものがたくさんあるのだ。だというのに、切り捨ててしまっては分かるものも分からない。
もしこの疑問が解決すれば、先の疑問だって解決することになるのだ。調べる価値は十分ある。
絨毯があるとはいえ、普段はいくらか聞こえる足音。けれど今はそのいくらかの足音すらも消して、部屋の中を歩く。
向かう先は、一つだ。この部屋の機能の最もたるもの。移動する際にあることは確認して、寝室であるという確証を得るに至った物体。
ベッド。それもエリオットが使っている簡素なものじゃない。もっとこじゃれたもの。
絹か紗かビロードか。詳しくないがためによくは分からないが、とにかく薄暗がりの中で一目見ただけでも最上級のものだと分かる天蓋に覆われている。
幾重にも天蓋が折り重なっているせいで、中の様子は伺えない。確認するには、天蓋の隙間から覗くしかなさそうだ。
エリオットはベッドに近づくと、何の躊躇もなく天蓋に手をかけた。そうして隙間を生み出し、中を覗き込み――息を呑む。
予想していなかったといえば、嘘になる。けれど誰が、その予想が現実のものになるだなんて思うだろう。
なにせこの屋敷にはエリオット以外誰もいないのだ。いなくなってしまった、はずだった。
だからこそ、どうして驚かずにいられよう。
ベットの真ん中で、見たこともない少女が眠っているいうのに。




