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10.

「なにを、いっているんだ」


 ようやく絞りだせた声は、ひどく掠れていて聞き取りづらい。


「ここに……ここに、女が一人、いるだろう。メイド服を着た、女が」


 繋いでいた手を持ち上げた。二人に、見せつけるかのように。

 心臓の音が、さらにうるさくなる。刻む鼓動はいつもよりずっと早くて、まるで全力疾走した後のよう。

 どうか、どうか言ってくれ。二人のうちのどちらでもいい。ここに、エリオットがいつも見ているのと同じ少女の姿があるのだと。

 懇願するような眼差しで二人を見つめるも、しかし二人の表情は変わらない。それどころか、どことなくエリオットを哀れんでさえいるように見える。

 次いで、縋るように少女に視線を移した。いつもと変わらぬ笑顔を浮かべて、そうして。二人してエリオットをからかっているのだと、言ってくれるのを期待したように。

――けれど。少女の顔に浮かぶ笑みは、どこか物悲しげだ。エリオットと視線がかち合うと、少女は軽く頭を振る。

 それらがなにを意味しているのか、分からないほど馬鹿ではなかった。いや、いっそ馬鹿な方が良かったかもしれない。

 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃がエリオットを襲う。吸い込んだはずの空気が喉で引っかかったように、上手く息ができない。全身が石になったかのように重く、指一本、指先すら少しだって動かせなかった。

 掌を介して伝わってくる少女の体温は、こんなにも暖かいのに。少し感覚を研ぎ澄ませば、脈打つ鼓動だって、感じることが出来るだろう。それなのに、それなのに――


「……お前、は……生きて、いないのか」


 呆然とした声が、静かな廊下に落ちる。繋がった手の先にいた少女は、笑う。


「わたしは、あるじさまにしか見えない存在ですから」


 確かに、生きてない、とも言うかもしれません。といつもと変わらぬ軽やかな声で、少女が言った。悲観も、絶望も、自嘲的な色合いもない。ただ淡々と、事実を語ったと言わんばかり。

 それは何処かで分かっていたこと。あの日少女に触れた時、感じた冷たさは本物だった。だから、分かりきっていたはずなのに。いざ、少女の口から告げられると頭も、心も受け入れようとしなかった。

 覚悟が、出来ていなかったのだ。何処かであれは夢だったのだと、甘えた考えを持ったエリオットがいたから。

 唇を持ち上げて、薄く、開く。隙間から入ってくる空気は、しかし喉にたどり着く前に吐き出された。繰り返される情けない呼吸音。


「兄さん、病院へ行こう。おれが、こんなことを言う権利はないかもしれないけど……でも、これは。おれの……おれたちの、責任だから」


 少女と繋がっていた手に、生暖かい感触が一つ増える。強くエリオットの手を握るように触れたのは、ヴィンスのもの。

 まるで少女とエリオットを引き離すように、二人の間に割り込んだ手。エリオットは反射的に、ヴィンスの手をはたき落とす。


「兄さん……?」

「…………さい」

「どうしたの、兄さん。気分が――」

「うるさいっ……! 俺は、俺は……正常だ。どこも、おかしくなんてない。あいつは、ここにいる。いまここに……確かに、いるんだ。俺の、隣に」


 最初こそ勢いの良かった言葉も、言葉を重ねるたびに弱々しくなっていく。最後にはもう、聞き取れないほどの声量しかなかったが、それに反して少女の掌を握る手は、力を増していた。

 二人分の痛ましいものを見るような視線を浴びながら、それでもエリオットは怯まない。あの日少女に教えられた名を――きっと、少女の本当の名でないと分かっていながらも、縋るように「エインズワース」と呼ぶ。


「はい。あるじさま。あなたのエインズワースは、ここに」


 すると、少女の顔にいままで見たことがないほどの笑顔の花が咲いた。


「お前は……お前、は」

「わたしは、あるじさま以外に見えませんし、確かに生きていないかもしれません。でも――わたしは、あるじさまを置いてどこへも行きませんから」


 繋がっていたエリオットと少女の手が、少女の意思によって離されていく。遠くなっていくぬくもりに寂しさと、悲しさを覚えた瞬間。

 エリオットの視界は、真っ暗になった。頭部を覆うようなあたたかさと柔らかさは、何処か覚えがある。一瞬、暗闇の中で目を瞬かせた。そうして、すぐに理解する。

――少女に、頭を抱えるように抱きしめられているのだと。


「ずっと。あるじさまが死ぬまで、あるじさまとともに」


 どうしようもなくエリオットは安心した。胸に耳を寄せると、確かに聞こえるのだ。

 生きている証――エリオットたちと同じように、心臓が脈打つ音が。

 誰がなんと言おうと、少女は生きてここにいる。エリオットが視認出来、傍にいて。また少女もエリオットの存在を認識しているのなら、もうそれで十分ではないか。

 そっと手を伸ばして、少女の背を抱いた。エリオットの手が、少女の身体を透けて通り抜けるなんてこともなく。確かに感じる暖かさと柔らかさ。そのことに、どうしようもないほど安堵する。


「兄さん……」

「エリオット……」


 哀れみを多分に含んだ声が、静かな廊下に響く。その声はまるで自分たちのせいで、とも言っているようにも聞こえる。少女の腕の中で、眉間に皺を寄せた。なんて自分勝手な奴らなのだろう、と。

 そんなこと、まったくエリオットが思う資格がないことなんてわかっている。それでも、そう思わずにはいられないのだ。


「俺は」


 とエリオットは少女の腕の中から抜け出すことなく、言った。


「お前たちに、そうやって哀れまれる筋合いはない。お前たちの、悲劇のなんちゃらごっこに付き合わされる義理も、ないはずだ」


 分かったら、帰ってくれ。そして二度と、此処へは来るな。はっきりとした口調でそこまで言い切ると、ようやくエリオットは少女の腕から抜け出す。

 普段は剣呑さすら宿し、変わることのない瞳。けれど今その瞳は双眸ともに、僅かにだが揺れている。


「……行こう」


 数瞬前からは想像出来ぬほど、その声は弱々しかった。当然、離れた位置にいる二人には聞こえなかっただろう。隣にいた少女すら、かろうじで聞こえたかどうかすら怪しい。

 しかし、少女には確かに聞こえていたようだ。エリオットの手を包むように少女の手が重なったのが、その証拠。

 少し驚いたように目を丸めて、エリオットは視線を下げる。そこには、いつもと変わらぬ満面の笑みを――いや、それよりもずっと機械的ではなく人間的で、優しく、暖かさを持った笑みを浮かべた少女が。

 つられたようにエリオットの顔には、笑みが浮かぶ。僅かに口角が持ち上がっただけで、そんな大層なものではない。けれどきっと、あの日――悪夢にうなされるようになってしまった、リタとヴィンスの駆け落ちのその日から。

 ようやく、ちゃんと心から笑えたような気がした、笑みだった。

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