01.
しん、と静まり返った部屋。時折窓の外にいる野生の動物たちの鳴き声が聞こえる。強く風が吹けば、木々が葉をこすり合せた音も室内に届く。
ずっとこのまま、今までも、今からも、変わらない日常。そのはずだったのに。
「ごめんなさい、エリオット。何度呼びかけても反応がなかったから、勝手に上がらせてもらったわ」
突然、開くはずのない扉が開いた。それと殆ど同時に、聞こえてきた声。
不快感はない。甲高くもなく、かといって低くもないその声は聞き覚えがある。
というよりも、少し――いや、これはエリオットにとっての感覚であるからにして。世間一般でいえば、年単位の話になり、全く少しではないのだが――前には、毎日のようによく聞いていた。
エリオットは弾かれたように顔を上げ、扉に視線を向ける。
「……ウォーレン? ステラ・ウォーレンか?」
瞳に映った姿は、やっぱり見間違いようがない。記憶の中にある姿といくらか相違はあるものの、ほとんどエリオットが覚えていた通り。
懐かしさが胸の中にこみ上げてくる。だが同時に、思い出したくもない、嫌な記憶も呼び起こす。
だからエリオットの眉間に皺が寄ってしまったのは、当然のことだろう。その声に棘が含まれてしまったことも。
「覚えていてくれて嬉しいわ。……でも、あまり歓迎されていないようね」
予想はしていたけれど、と申し訳なさげに笑うステラ。だが残念なことにエリオットは否定の言葉も、取り繕う為の言葉も持ち合わせていなかった。
「分かっていたなら、どうしてわざわざここへ?」
「あなたが心配だったのよ、エリオット」
訝しみながら問うた言葉に返ってきた答えを聞いて、目を瞬かせる。困ったように眉を下げたステラの言葉に、きっと嘘はない。
気づけば、存外悪い気はしなかった。それどころか、案外まだ世界は、人間は捨てたものじゃないかもしれない、と考えを僅かとはいえ上方修正する。
だからだろうか。口元が自然と緩んでいくのが、エリオットにも分かった。
とはいえ、その表情の変化など微々たるものでしかない。部屋の窓辺にいるエリオットと、部屋の入り口に立つステラでは距離があるためにステラは気づかないだろうけれど。
「でも、ちゃんと生活しているようで安心したわ」
「……そうか?」
「だって屋敷の中、とても綺麗じゃない。顔色も悪くなさそうだし」
顔色は、まあそうだろう。流石のエリオットでも毎朝鏡を見て確認している。何も、死にたいわけではないのだから。
屋敷の中だって――と考えて、何か引っかかった。違和感を抱え込むような感覚に、思わず首を傾げる。
だが結局考えることは放棄した。少し考えても分からないのならば、考えるだけ時間の無駄というもの。屋敷の中が綺麗に保たれているなら、なんら問題はない。
「まあとにかく、元気なことを確認できて良かったわ。連絡つかないし、色々あったから、自暴自棄になってヤケを起こして死んでるんじゃないかって、みんな心配してたもの」
そうか、とエリオットは低い声で相槌を打つ。
「私たちの前から姿を消してから、エリオット、あなたは何をして、どんな風に過ごしていたの?」
多分それは“心配していたみんな”とやらに聞かせるつもりなのだろう。はたして、本当にそんな人間がいるか怪しいものだが――特に、拒絶する理由はない。
とりたてて目立ったこともなく、ただ毎日を淡々と過ごしていた。その事実だけを、簡潔に述べる。
それを聞いてステラはそう、と小さく呟いたきり、何かを考え込むかのように黙り込んだ。
沈黙が部屋の中を支配する。それは、ステラが来る前と変わらないエリオットにとっての日常。
風が吹く音。鳥のさえずり。草木が揺れる音。どれもが、エリオットの傷つき、凍てついた心に少しの柔らかさをもたらす。
「ねえ、エリオット」
と、しばらくの後にステラは言った。静寂を、日常を破るその声に、全くの苛立ちがない訳ではない。
それでも相手がステラだったからこそ――親友だと思っていたステラだからこそ、エリオットは表情を変えずにステラを見た。
言葉は紡がなかったが、付き合いは長い。エリオットの視線が話の続きを促すようなものであると悟ってくれたのか、ステラは言葉を続ける。
「外に出ましょう? たくさんのものをみて、触れるのよ。確かに、あんなことがあって、引きこもってしまいたい気持ちも分かるわ」
一体、ステラは何を言っているのだろう。
エリオットは理解できなかった。いいや、したくなかったと言った方が正しいかもしれない。
掌がいやに湿っぽくなってきた。指を掌に擦り付けると、汗をかいていることに気づく。
「でも、引きこもってしまっては、前に進めない」
――ああ。そうか。とエリオットは唐突に理解した。
その途端、膨らみかけていた気持ちは急速に萎んでいく。
心配しているのはきっと、本当のこと。それは、有難いと思う。けれど。
「忘れろとは言わないわ。大切な思い出だって知ってるもの。でも、もう随分と経ったわ。だからもう、過去のことにしても――」
「ありがた迷惑だ。話がそれだけなら、帰ってくれ」
「エリオットっ!」
突き放すように言うと、悲痛な叫びが返ってくる。
煩わしかった。面倒くさそうに手を振って、出ていくように促す。
それでもステラは出ていかない。扉の前に立ち尽くしたまま、エリオットにすがるような視線をむけてくる。
ならば、無視するだけだ。ステラに向けていた視線を窓の外に戻す。
木の枝の上で、二匹の鳥が仲睦まじく寄り添いあっている。
「……あなたが、あなたが好きなのよ。エリオット」
ステラは色々言葉を紡いでいたが、エリオットに聞く耳がないと分かると諦めたように小さく呟いた。
それはまるで同情で気を引こうとしているようで――いや、たとえそうでなかったとしても。本当にエリオットを想っていたのなら、傍にいたいと願うなら。いうべきではなかった、言葉。
「お願いよ。エリオット。もう彼女はいないわ。どこかで幸せになっている。だから、エリオットだって――」
ガラスが割れる音が、ステラの言葉を遮るように響く。
「二度はない。もう二度と、ここへは来るな」