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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

とある吸血鬼に愛された少女の事情と、その顛末。

作者: 烏居あす

7/20 19:20

一部、文章の修正を行いました。

ストーリーに変更はありません。

「――まったく、毎日不景気がどうの不祥事がどうの不一致がどうのと暗い話題ばかり。気が滅入りますよ。この国の行く末が心配になります」

 夜風がカーテンを揺らす窓辺で、年代物の揺り椅子に腰かけて新聞を開いていた青年が愚痴る。活動を終えて寛いでいるべき時間だというのに、三つ揃えの正装姿だった。


 僅かに癖のある夜闇そのものの黒い髪と瞳。肌は白く、髪と衣装の黒との対比が強い。切れ長の目を縁どる睫毛は濃く揃って、薄い唇は上品に整う。背がすらりと高く、優雅に組まれた足は驚くほど長かった。一度見れば忘れられないような美貌の持ち主ではあったけれど、如何せん肌が透き通るようで白い――どころか不健康に血色が悪い。


「前の二つはともかく、不一致ってなに?」

 今まさに寝ようと寝室に引っ込もうとしていた少女は、だいぶ余裕のあるだぼだぼのパジャマ姿だった。これが今の時間帯として正しい衣装だ。

 額の真ん中で分けた長い髪を邪魔にならないようにゆるく三つ編みにして、大きな瞳は利発そうに光る。やや小柄で華奢な肢体は、幼さを残してまだ成熟していない。


 青年が半眼気味に視線だけを少女に向けたものだから、彼女はびくりとして逃げ腰になった。ぱたんと新聞紙が閉じられたかと思うと、青年が少女の真後ろに現れている。窓辺から少女がいた位置まで、歩数にして五歩ほど。一息で移動できる距離ではない。

 天敵に目を付けられた小動物のごとく、身を竦めて肩のあたりまで上げられた少女の両手に、青年の手がするりと絡む。


「僕にとって一番の重要な問題ですよ。分からないのですか?」

「うん、何でもない。何も聞いてない! 何も分かりたくない!」

 自ら罠に飛び込んだと気付いた時には遅い。獲物が喚いたところで蜘蛛の糸は緩まない。

「こんなに愛しているのに少しも伝わらない。恋人同士の気持ちの不一致というのは恐ろしいことですよ」

千歳(ちとせ)! まず前提から間違ってる。わたし達は恋人じゃないでしょ」

「えっ?」

「えっ? って何だ、何で未知の言葉に遭遇したみたいな顔してるの」

「ニホンゴムズカシイ」


「待って。さっきまで流暢に喋っていたでしょうが。分かってるくせに」

「本当、分かってるくせに――宵待(よいまち)さんは意地悪ですね」

「うぁっ」

 妙な叫び声を上げて、少女は肩をびくりと揺らす。青年の唇が、少女の首筋に押し当てられていた。少女は真っ青になって、誰かに助けを求めたい一心で無意識に手を握る。けれどそれは、危害を加えようとしている青年の手を握り締めることにしかならない。この家に、二人以外の誰かなどいないのだから。


「ちょ、ちょっと、まさか」

「まさか、何ですか」

「そのまま喋るな! ぞわぞわする――ちょっと、本当、やめてよ。血を吸うつもりじゃ――」

 少女が口走った言葉に、青年は興醒めしたようにぱっと手を離す。床にへたり込んだ少女が這って距離を取るのを不満そうに見下ろした。


「何度言ったら分かってもらえるんです? 嫌ですよ。ヒトの生き血なんて生臭いもの、誰が好むんです。それに、わたしは貴女が望むまで血を吸うつもりはありません」

「……生臭くて悪かったな」

 両手で首筋を守るように手をあてて座り込んだまま、少女は青年を見上げる。けれど、その視線はすぐに下がる。青年が少女の前にしゃがんだからだ。

「ですので、早いところ僕の眷属になってください」


「何度言ったら分かってもらえるの? 嫌です」

 青年の言葉をそのまま返し、少女は目を眇めて目の前の青年を睨む。

「わたしは絶対、人間のまま一生を終えるんだからね!」

「人の気持ちとは移ろいやすいものです」

 うんうん、と訳知り顔で頷く青年に呆れて、少女は目を逸らした。そのせいで、青年が猫のように目を細めたことにも気付かない。


 少女の頬に青年の指が添えられたかと思うと、そのまま当然の如く唇が重ねられる。触れるだけのやさしいもの。

「――!?」

「はい、ではおやすみなさい。夜更かしはお肌に悪いですよ」

「何でいきなりする!」

「許可が下りないからです」

「下りるか馬鹿! 離せ!」

 じたばたと暴れる少女の抗議を無視して青年はひょいと抱き上げて、二階の少女の寝室へと向かう。


 廊下の一番奥にある部屋は、主な家具は年季の入った飴色、その他は白と深緑で統一されて、年頃の少女の部屋にしては落ち着いて渋い。ここに暮らした主が亡くなってから、少女が自室として使うようになっていて、内装は何一つ変えていない。

 天蓋のついたベッドに下ろされて上掛けを被った少女は、目を細めて青年を見上げている。青年は視線を受けて、首を傾げる。

「添い寝して欲しいんですか?」


「違う!」

 力強く吠える小さな少女に、青年は残念そうに溜め息をついてから、身を屈める。ゆっくりと頭を撫でて、微笑んだ。

「月夜を渡る素敵な子、今夜も良い夢を――おやすみなさい、宵待さん」

 呪文のような言葉は、少女が小さな頃から続く儀式。それを与えてくれる相手は、この青年に変わってしまったけれど。


 ほっとして目を閉じようとした少女の額に、口付けが落とされる。

「それは余計だ!」

「宵待さんの額が可愛いのがいけないんです」

「出てけ!」

 青年に向けてクッションを力いっぱい投げつけたのに、そこにはもう誰も立っておらず、あっけなく床に落ちて止まった。どこまでも気に食わない青年だった。正直、すぐさま追い出したいところだったけれど、それが出来ない事情がある。


「では、また明日」

 戸口に立つ青年がにこりと微笑み、部屋の灯りを消して扉を閉めて去って行った。

 静かになった部屋の中、少女は闇に目を凝らし、そこに誰かの姿を見出そうとした。もちろん、もう誰もいない。

「……おやすみ、おじいちゃん」


 古めかしい青い屋根の洋館で、少女と吸血鬼の青年の奇妙な同棲生活が始まったのは一月前のことだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 少女――黒葛原(つづらはら)宵待よいまちは、その部屋の中に一人で座り込んでいた。

 昼過ぎ、遺品の整理をしようと祖父の部屋に入ったものの、作業は少しも進まずに時間だけが過ぎていった。

 窓の前に置かれた大きな机には、今もまだ祖父が座っているような気がする。壁の一面は本棚になっていて、祖父がそこに立って本を選ぶ姿はまだ鮮明に記憶されている。この部屋だけではない。まだ家のそこら中に祖父の気配が残っていた。


「まだ一週間だもん……当然か」

 独り言ちる。声を出してみても、それに答える者は誰もいない。静まり返る室内に、余計に孤独を見せつけられた。

 あまりにも突然のことで、葬儀を終えた今になっても実感はわかない。また涙が込み上げて、ぐっと胸元を抑える。嗚咽が漏れそうになった時、外の騒ぎが耳に入って顔を上げた。いつの間にか外には夕暮れの赤みがかった金色の光が広がっている。

「おばけ屋敷ー!」


「……またか」

 子供の声に立ち上がって、バルコニーに出る。道に面した門扉の前に、学校帰りらしいランドセルを背負った小学生が二人立っていた。

「うわ! おばけ屋敷から黒魔女が出て来た!」

「誰が魔女だ! 早く帰りなよ、真っ暗になるよ」

 古めかしい洋館は、子供達にとっては『おばけ屋敷』に見えるらしい。表札の『黒葛原』は子供達には読めないらしく、ここに住む宵待は『黒魔女』などと呼ばれていた。

 庭は花と草木に覆われていて、整えるよりも森の一角のようにしたいという祖父の意向で、余計に魔女の庭感が増しているかもしれない。


「おばけ屋敷にゾンビわいてるぞ!」

「魔女の手下だ! 逃げろ!」

「……え?」

 そんな手下を持った覚えはない。思わず庭を見回すと、玄関から門に続く石畳の横手、生垣に頭を突っ込む形で人が倒れていた。バルコニーからは背中から下しか見えない。喪服のような黒い服が、これから訪れる夜の影のようだった。

「うそ、いつから――あの、大丈夫ですか!」

 大声で呼びかけてもピクリともしない。宵待は慌てて部屋に引っ込んで、階下へと走った。

 庭の奥で黒い影がもそりと動いたことには、気付かないまま。


「し、死んでないよねぇ!」

 玄関の扉を開けて外に飛び出したものの、そこに先ほど倒れていた人物の姿はない。最初から何もなかったかのように、忽然と消えていた。

「気のせい……? や、でも、子供達も見てたし……」

 庭を見回しても、何の異変もない。しばらく佇んでいたけれど、誰が現れる気配もなかったため、宵待は家の中に戻った。ここまで移動する間に起き上がって去ってしまったのだろうか。


 その時、またも宵待は気付かなかった。庭の奥の茂みの向こうに、動くものがある。

 赤黒い肌の人型の何か――物語に出てくる鬼のようなものが、四肢をびくびくと震わせていた。その首のあたりに、黒い影が覆いかぶさっている。それは、先ほど庭に倒れていた黒い衣装の人物だった。白い喉が何かを嚥下して動いている。鬼の首元に食いつく唇の端から真紅の血が一筋垂れて、白貌を汚した。


 しばらくして、黒い衣装の人物が体を起こす。手の甲で口元の血を拭い、顔を上げた。金色の瞳が細まる。視線の先には、夕刻を迎えて窓から明かりが漏れる家。

「危なっかしい子ですね」

 囁くような声は、嘲るように冷ややかだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 うとうとと眠りに落ちかけていた宵待は、不意に響いた狼の遠吠えのような鳴き声に一気に現実に引き戻された。

 上半身を起こしてバルコニーのある方を凝視する。何かが、いる。そこから目を離さないままベッドから降りて、カーテンに指をかける。無意識に唾を飲み、一気に開く。

「――!」


 ほのかな月明かりの中、窓ガラスに手をぺたりとくっつけて、子供ほどの大きさの毛むくじゃらの何かが立っていた。目が合うと、それがにたりと笑う。宵待を見つけたことで、嬉しげにまた吼えた。

「千歳!」

「だから、何度も言ってますけど、呼ぶのが遅いんですよ。何で勝手に近付くんですかね。困った方だ」

 突然湧いて出たかのように、黒い三つ揃えの青年千歳が宵待の背後に立っていた。


 下がっていて、と千歳は身を屈めて宵待の耳に口付けて、横にどかす。抗議はいつものことなので聞き流した。

「宵待さんの魅力は、何でも呼び集めるから困ったものですね」

「あなたを始めとしてね」

「誘蛾灯のようです」

「例えが褒めてないし、それで行くとあなたは蛾になるんだけど」

「けれど、おかげで食事にありつけるので大変助かります」


「聞いてないな」

 宵待は眉根を寄せ、歯噛みした。時々、千歳は自分の世界に入って宵待のことを無視する。構われても困りものだけれど、放っておかれるのもまた気に食わない。宵待の無言の抗議に、見もせずに頭を撫でられて宥められる。


 窓の外の妙な生物は、今や千歳に睨まれて身動きさえ出来なくなっている。それも千歳の力なのだろうかと、宵待は後ずさりしながら思った。同居人の食事はなるべく見たくない。

 急いで背を向けてしゃがんで耳を塞ぐ。目を閉じて数字を数える。数えるたびに猫が脳内に増えていく画期的なシステムを考案したおかげで、多少気はまぎれる。

「宵待さん」

「アメリカンショートヘア!」

「帰って来てください、宵待さん」


 振り返ると、カーテンが元のようにきちんと閉められて、妙な気配もなくなっている。安堵してほっと息を吐いたら、視界が塞がれた。布でも被せられたような変化だったけれど、もう慣れたことだったので宵待は慌てない。

 千歳に抱きしめられているだけだ。千歳の匂いと感触を既に覚えてしまっていることが腹立たしい。

「無事ですね」

「目視でわかるよね」

「見ているだけでは満足しません」

「無事を確かめるためじゃなかったの?」

 ぐい、と胸を押しやって体を離す。


 祖父が亡くなって、いくつかわかったことがあった。

 祖父が頑なに宵待に料理だけはさせなかったのは、壊滅的に才能がないからだとか、人付き合いが全くないように見えていたけれど、千歳という妙な友人がいたことだとか。

 宵待が人外の恐ろしいモノ達を惹きつける妙な特性を持っていることだとか。

 そして、それらから祖父がずっと守っていてくれたこと。

 一人になったとたん、宵待は恐ろしい生物に目を付けられてしまっていた。彼らにとって宵待はとても美味しそうな匂いを放つ獲物らしい。


 それは今目の前にいる千歳からも同じだった。

 身を守る術を持たない宵待は、千歳に守ってもらわなければ数日だろうと生き抜けそうにもなかった。

 そして、千歳は千歳で放っておいても生きる糧を寄せ集めてくれる宵待の特性が便利であり、それ以上に『長年生きてきて初めての感情』とやらを宵待に見出したのだ。

 千歳は吸血鬼といっても、人間の血は好まないらしい。全く飲めないというわけではないらしいけれども。


 お互いの利害が一致して始まった生活ではあったけれど、宵待は別の意味で身の危険を感じていた。

 ぐいぐいと千歳の胸を押して距離を取る。宵待と千歳の腕の長さの違いを考えると、簡単に千歳が捕まえてしまえることに気付かないあたり、まだまだ宵待は子供だった。千歳はこっそり笑って、愛しげに宵待を見つめている。


「マモノを食べた後にわたしに近付くな」

「わかってます。紳士ですから」

「…………ふーん」

 この世にある辞書の『紳士』という項目が書かれたページの全てを朗読させた後、口に押し込んでやりたい。


 あごに指をあてて真剣な面持ちで考え込んでいた千歳が、素晴らしい改善案を思いついたかのような顔で手を打った。

「やはり不測の事態にすぐに対応できるように一緒に寝るべきだと思います」

「嫌だ。予測できる危険が隣にあるのに寝ていられるか。一人で寝させてもらう」

「殺人事件の第二の犠牲者の最後の台詞みたいなこと言わないでくださいよ。何の危険があると考えているんですか?」


「うるさい! もう寝るぞ!」

「それはお誘いですか?」

「何で。自らの行動の宣言だ! 出てけ!」

「数時間前にも聞いたような気がします」


 宵待が拒絶して押しやっていた両手を、千歳がやわらかく掴む。追い出そうとしていたはずが、ダンスでもしているかのように和やかな光景になる。宵待の顔は仇を見るような凶悪な表情だったけれども。

「それでは、今度こそおやすみなさい」

「目覚めたら全部消えてたらいいのに」

「そういうことは心にしまっておいてくれないと傷つきます」


「あれー声に出てた? ごめん」

「その誠意のない謝罪さえも可愛いです」

「頭は大丈夫か」

 宵待は背伸びして人差し指でぐりぐりと千歳のこめかみを押した。千歳の発言は冗談なのか本気なのか分からない。


「いつでも宵待さんを正常に愛していますよ」

 異常だと思う、という反論は、溜め息と共に捨てた。千歳と話していると疲れる。壁に向かって独り言を言う方が大分マシなような気がした。見た目は良いのに喋ると残念だ、と思わざるを得ない。


 宵待が欠伸をしながらベッドに上ると、千歳は当然のように上掛けを整えてくれた。そういうところは、感謝していなくもない。

「……いつも、ありがと」

 半分眠りに落ちながら言う宵待に、千歳は目を細めて笑う。千歳が答えようと思った時には、小さな唇から安らかな寝息が漏れている。

「――良い夢を」



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 雨が降っていた。

 暗い室内には、ひとりぼっちの宵待の姿があるのみだ。

 宵待が向かい合う仏壇には、彼女が生まれるずっと前に亡くなった若い祖母の古い写真があり、その隣に真新しい写真立てに入った祖父の写真が並んでいた。

 宵待の唇が小さく動くけれど、静かな雨音にさえ遮られて聞こえない。

 やがて宵待は蹲って動かなくなった。

 ただ、雨が降り注ぐ。



 今年の春は、なかなか暖かくならない。

 相変わらず雨に煙る校庭にも春の訪れは遠く、桜の花も開ききっていなかった。

 宵待は頬杖をついて、どこを眺めるでもなく、窓の外に目を向けていた。新品の紺色のセーラー服はまだ体に馴染まず、少し大きい。


 授業が始まる前の時間、教師が現れていない教室は生徒達の声でざわついていた。

「ねぇ、また消えたんだって」

「隣町の話でしょ? これで何人目?」

 宵待がふと意識を教室内に向けたのは、窓の近くの枝から鳥が飛び立ったことに驚いたためだった。枝葉を湿らせていた雨粒が、さあっと落ちて行った。


 女生徒達が話しているのは、最近この界隈で少女らが行方不明になっている事件のことだ。登下校の途中や友人宅を訪ねる途中など、彼女らは姿を消してしまった。

 それが誘拐事件であるのか、自らの意志で家出したのか、明らかになっていない。いずれの少女も交友関係の狭い、真面目な少女であり、家出は考えづらいと言われていたけれど――。

「怖いよねー」

「次はあんただったりして!」

「やめてよ!」


 女生徒達は明るい声で笑って、話題を転じてテレビで見たドラマやアイドルの話に興じる。たとえ事件が起こっていても、実際に関わらなければどこか遠い話なのだ。学校からも一人では行動しないようにと言われるのみだった。


(あの人……)

 宵待はぎゅっと手を握って、視線を俯けた。

(誰なんだろう)

 近頃、家の周囲で視線を感じたり、黒い人影を見たりするようになっていた。はっきりと姿を見たことはない。遠くから窺うように、観察するように、何かが見ているだけ。

 降り続く雨で視界が狭く、不安が駆り立てられた。

 今日も雨は、降り続く。



「ええっ、あやしい人がいるって……絶対近づいちゃ駄目だからね!」

 ぽつりと友人にもらすと、案の定彼女は驚いて、宵待の手を握って目を合わせた。

「うん、わかってる。心配してくれてありがとう」

「当然だよ。友達なんだから」

「うん、あなたがいてくれてよかった」

 友人はにっこりと笑って、宵待を抱きしめた。

「大事な宵待。気を付けてね」



(もうこんな時間――)

 アルバイトから上がる時間が大分遅くなってしまった。珍しく混んでいたために長引いたのだ。外は暗闇に沈んでいる。

 雨は小降りになっていた。傘を差して走っても、濡れは気にならない程度だ。

 繁華街を抜けると、突然歩道から人の姿が消えて静かになる。外灯もまばらで、真っ暗になる間隔が大きくなっていった。そんな時に限って、少女達の行方不明事件を思い出してしまう。


 気が急いていたせいか、足首に何かがあたって躓く。転ぶことはなかったけれど、数歩たたらを踏んで傘を取り落した。ちょうど外灯の光が届かない、暗闇の中。

「……?」

 右足が引っかかる。何かが絡んでいるようだ。暗くてよく見えない。

 ――よく見えなかったけれど、道の端で何かが動いた。近付いて来ているような気がした。

 無理やり足を引いて、身を翻して走り出す。


 次の街灯の下で立ち止まって振り返る。傘を拾ってくるのを忘れてしまった。ここから見ても、先ほどの場所に何かを確認することは出来ない。

 諦めようか、と進む先に視線を戻した時、足元に後ろから影が伸びていることに気付いた。先程、誰もいないことを確かめたばかりなのに。


「――っ」

 息を呑んで勢いよく振り返ると、目の前に白い貌が浮かんでいた――と、見間違えるほどに、黒い髪と黒い服の人物。精巧な作り物のように端正な顔をした青年だった。その手に、宵待の傘がある。

「こんな時間までふらふらと、感心しませ――」

 切りつけるような冷えた声が、中途半端に途切れた。宵待への嫌悪か、怒りか、あるいはその両方か、青年は顔を顰めたまま、動きを止めている。


「あ、あの……?」

 宵待は先ほどの恐怖の名残で震える声で、何とか話しかけてみた。青年は顔を逸らして、片手で口元を覆い、もう片方の手に握った傘を差し出してくる。よほど話したくなさそうだった。

「ありがとうございます……」

「早く、帰りなさい。遅くならないように」

「え、あ、はい」

 罠を恐れるようにそっと手を伸ばし、傘を掴むと慌てて離れる。頭の中にあるのは、時々家の周辺で感じる視線と、黒い人影。青年の姿は、黒い。


「気を付けて、宵待さん」

「――えっ」

 何故、名前を知っているのか。

 驚いて振り返ったが、外灯の下には人影もない。走っていったとしてもあまりにも速すぎるし、隠れられるような場所もない。


「…………」

 宵待はぞくりとして衝動的に駆け出して、家に着くまで一度も止まらなかった。玄関に入って鍵をかけて、荒い息をつきながら座り込む。

「……ただいま、おじいちゃん」

 祖父のいない家。けれど、不思議と祖父の気配がする気がして落ち着いた。まだ守られていると、感じていた。

 宵待は微苦笑して、目元を擦って立ち上がった。これからは、一人の家に慣れていかなければいけないのだから。



「また出たんだって! 今度は隣のクラスの子だよ」

 翌朝、宵待が教室に入ったとたんに女生徒達の大きな声が聞こえた。

 次の少女行方不明事件が起きたのだ。教室の一画に数人の少女達が集まって、怖がりながらもどこか興奮して話している。

「最近、よく黒いものを見るって言ってたらしいよ」


(黒いもの――)

 昨夜の、黒い服装の青年。今朝もまた、黒い影を見た。

(不気味ではあったけど……)

 早く帰るように言ってくれたのに、それは油断させるためのただの甘言なのか。迷った時に、脳裏に少女の姿が浮かんだ。

(駄目、あんな人を信じちゃいけない。あの子に相談しよう)

 宵待を心配してくれる友人。信じるべきは、彼女だ。



「宵待、絶対に近付いちゃ駄目なんだから! 危ない人だよ」

 友人は宵待の両肩を掴んで、まっすぐに見つめて言う。真剣な瞳は、心から気遣っていた。

「うん……わかった」

「寄り道なんてしないで、すぐに帰ってね。宵待が心配なの」

 宵待が深く頷くと、友人はほっとしたように微笑んだ。

「大事な宵待。あたしがいるから大丈夫よ」

「ありがとう」

 優しくて、きれいな友人をこれ以上気に病ませないように、宵待も笑顔を返した。



 とろりと溶けだしたようなオレンジ色の太陽が、山の際に消えようとしていた。空には灰色の暗い雲が広がっていたけれど、西の空だけは僅かに雲が途切れ、奇妙に色が混ざり合っている。

 前方に家が見えて、自然と安堵する。宵待は鍵を取り出しておこうと、鞄を探った。

「あっ! 黒魔女が外に出てるぞ!」

「おばけ屋敷の黒魔女!」

 後ろから駆けて来た小学生達がいつものように囃し立てて通り過ぎていく。


「魔女じゃないってば! 早く帰りなよー」

 苦い呆れ顔をしつつ笑って手を振り、後ろ姿に声をかける。

 まったくもう、とぶつくさ文句を言って鍵を取り出し、顔を上げると家の前に誰かが立っている。夕日が逆光になって、よく見えない。背の高い誰か――思い当たって、足を止める。


「気を付けるように、言ったじゃないですか」

 ひっと、喉が鳴った。目の前に、不機嫌に目を眇めた青年がいる。あの夜に見た、美しい顔が間近にある。

「何を付けているんですか」

 顰められた顔にあるのは、敵意だろうか。青年の手が伸びる。


「――いや!」

 その手が触れそうになった時、宵待は身を翻して走り出した。

 夕闇が迫る街を、振り返ることもなく一心に走る。足を止めれば何かに捕まる気がした。走っても、逃げても、すぐ後ろに迫っているものがあるようだった。


 いい加減、限界が来て身を隠そうと考えて、裏路地に入って足を止めた。壁に手をついて、激しい鼓動と呼吸を落ち着けるために目を閉じる。少し先で何かが動いた気配がして、顔を上げた。

 そこには、黒い髪と、黒いセーラー服姿の少女の後ろ姿。

「あ……」


 それは、宵待の友人。安堵が胸に広がり、名前を呼んで駆け寄ろうとすると、違和感に襲われた。

 友人。彼女を、何と呼んだだろう。名前が、出て来ない。

「あなた……」

「すぐに帰るように言ったじゃなぁい」

 絡みつくような、鼻にかかった甘えた声。振り返った友人の手が、別の少女の腕を掴んでいる。身体は地面に横たわり、ぐったりとしたまま動かない。やけに、腕が長くはないか。


「何、してるの……」

 ずるりと、少女の肩が地面に落ちた。友人の手は、少女の腕を掴んだまま。中身を失くした袖が、ぺたりと平らになって少女の体の上に乗る。

「――!!」

 声は出なかった。友人だったはずの少女は大きく口を裂けさせて笑いながら、白い歯で血の滴る腕を食む。


「あーあ、もうバレちゃった」

 くすくすと笑う声は楽しそうで、一緒に話していた時と何も変わらない。

「あなたは、誰……?」

「酷いわぁ。友達じゃない」

「違う……あなたなんて知らない!」

 宵待は叫んだ拍子に腰が抜けて座り込んだ。


 ぽつ、と冷たいものが頬にあたったかと思うと、地面に次々と丸い水滴の跡が生まれ、あっという間に埋め尽くされた。雨の帳が宵待を閉じ込めるように降り注ぐ。

「あんなに優しくしてあげたのに。もっともぉっと優しくして、絶望に歪む顔を見たかったわぁ……本当に残念」

 言いながら、無造作に少女の腕を放って、黒いセーラー服姿の何かが歩み寄って来る。


 小さな唇が、血で真っ赤に染まっていた。蠱惑的な笑みが浮かぶ。

「まだ熟れてないけれど、仕方ないわね」

「来ないで……」

「あなたって本当、なんて美味しそうな匂いがするのかしら。他の奴に盗られちゃわないように、いつもいつも見守って――早く食べたくて我慢するのが大変だった」

「全部、あなただったの……?」


「他の子で気を紛らわせたけど、駄目よね。やっぱり御馳走じゃなきゃ満たされないの」

 ひたりと、冷たい手が宵待の頬を包んだ。大事なものを傷つけないように、やさしく、やわく触れる。宵待はもう動けない。恐怖のせいか、目の前の化け物のせいか、分からない。頬を濡らすのは雨ばかりではない。

「いや……!」

「可愛い可愛い、大事な宵待。美味しく食べてあげる」

「助けて――おじいちゃん!」

 必死で呼んだのは、もういない人。


「僕の言うことを聞かないからですよ」

 低い声に、短い不気味な叫び声が重なった。冷たい手から解放されて、宵待は涙に歪む視界に目を凝らした。そこに立つのは、黒い正装姿の青年だ。

「本当に危なっかしい子ですね。千信(ちあき)の苦労が忍ばれます」

「え――」

 その名を聞いたのは、久しぶりのことだ。交友関係が全くないように思われた祖父の名を呼ぶ人など、もういないと思っていたのに。


「姿を現す気なんて、なかったんですからね」

 僅かに振り返った青年の声は依然聞いたものよりも柔らかく、横顔は拗ねているように見えた。それを呆けて見上げ、宵待は何を言えばいいのかも考えられない。

 青年の向こうで地面に蹲っていた、少女の姿をしたものがゆらりと動いた。注意を促そうとした時には、青年は前方に向き直っている。


「こそこそと隠れて、よくもやってくれましたね」

「何よ……あなただって、この子を食べようと思ってたんでしょう? 隠したって無駄よ。同族だってあたしにはわかるんだから」

 青年の少女の会話に、宵待は息を呑む。青年もまた、害を為すものだというのか。

「あなたと一緒にしないでくださいよ」

 鼻で笑って、腕組みする。ひとつひとつの所作が優雅で、どことなく品があった。危険な生物を前にしているとは思えない。


「一緒でしょ。何が違うのよ。同じ、人間を捕食するモノ。吸血鬼のくせに! あたしみたいに宵待を安心させようとしてももう遅い」

「違うと言っているじゃないですか」

 青年は溜め息交じりに言って、首を振る。呆然としたまま動かない宵待を振り返った。

「ここから先はあまり見ない方がいいかと思います」

「え――」


「すぐに済みますので」

 目を細めてにこりと笑う。祖父がいなくなって、宵待に笑顔を見せる人はもう現れないと思っていた。こんな状況なのに心が緩んだことを、すぐに後悔した。

 青年の姿が掻き消えたと思った次の瞬間、少女が膝をついて大きく目を見開いて顔を上向けていた。驚愕していたのは宵待ばかりでなく、彼女もまた同じだった。青年の長い指が、その首に食い込んでいる。


「な、なに……」

「訂正します。わたしは捕食者ですが、あなたと同じではない」

「――ひっ」

「わたしが接種するのは、あなた方魔物の血――ですよ」

 ぐしゃりと、湿った音がして宵待は目を閉じることも忘れて固まった。


 青年の唇が少女の首元に喰い付いて、そこから赤黒い体液が零れ出る。耳を劈くような少女の悲鳴はやがて途切れた。抵抗しようともがいていた手が落ち、指先からぼろぼろと崩れていく。瞬きする間に、少女は砂のように姿を変え、地面につく前に跡形もなく消えていった。

 何が起きたのか、宵待にはわからない。優しげに微笑んでくれた青年が、少女の形をしたモノの血を吸った。

 青年が振り返る。その表情を認めるより先に、宵待は意識を失った。



 ――ひとつ、頼まれてくれないか

『なんですか、嫌ですよ』

 ――まぁ聞いてくれ

 ――わたしはどうしたって、あの子よりも先に逝ってしまう

『それで?』

 ――わたしに代わって、あの子を守ってくれないか

『……嫌ですよ。人間は嫌いです』

 ――千歳、頼んだよ

 ――約束だ

『千信、勝手にそんなもの結ばないでくださいよ。絶対、嫌ですからね』



 目を覚ますと、家の自分の部屋のベッドの上だった。

 長い夢を見ていたかのように、頭がぼんやりする。周囲を見回しても、誰もいない。

 雨にあたって、地面に座り込んだ時に着ていた制服が、クローゼットの扉にかけてあった。汚れは綺麗に落としてある。

 外は雨が去って、晴れ渡っていた。



「ただいま」

 学校から帰宅し、宵待は小さな声で言いながら玄関の扉を閉めて施錠した。

 もう家には自分以外の住人はいない。それでも帰宅の挨拶をしてしまうのは、クセであり、一人であることを認めたくないためでもあった。


 古い家の中は薄暗く、しんと静まり返っている。靴を脱いで上がると、丁寧に靴を揃える。一人になってからも、祖父の教えは守っている。

 廊下にある背の高い木製の置時計は、もう時を刻んでいない。宵待がネジを巻くのをやめたわけではなく、ある日突然止まってしまった。祖父がいたのならともかく、宵待には修理できるような知識はない。

しばし時計を見つめたまま立ち止まっていた宵待の耳に、微かな音が聞こえて来た。


 紙をめくる音――リビングで祖父が本を読む姿が思い出された。古くなって、時々軋んだ音を立てる揺り椅子に腰かけて、そうして顔を上げて眼鏡を外しながらあたたかく笑うのだ。おかえり、と言って。

 そんなはずはない。

 けれど、宵待は駆け出していた。

「――――」

 リビングに駆け込んで、宵待は立ちすくんだ。大きく瞠った目には、そこにいる誰かが映る。

「おかえり」


 そう言って迎えてくれたのは、当然ながら祖父ではなかった。

 いつも祖父が座っていた場所に、青年がいた。膝の上には、閉じられた本がある。

「……あなた……?」

 座り込んでしまった少女に、青年は目を細めて笑った。

「おかえりなさい、宵待さん」

 けれど、すぐに笑みを消す。立ち上がって、真摯な表情で宵待を見つめた。視線を受けた宵待の目が、炎を映したように煌めく。


「どうやって着替えさせた!」

「……まず、そこですか?」

 非難され、嫌悪されることを覚悟していたらしい青年は、拍子抜けしたように身を引いた。けれど、睨む宵待の威勢が削がれないため、両手を上げて首を振る。

「濡れたまま放置するわけにもいかないでしょう。見ても問題ない方に任せました」

 曖昧な言い方だったけれど、女性に任せたという解釈で合っているはずだ。

「あなたじゃないなら、とりあえずいい」

 うん、と一つ頷いて宵待は、青年を睨みつけたまま腕を組む。


「何者なの? どうしておじいちゃんの名前を知っているの」

「友人ですよ」

「聞いたことないけど」

 祖父は大学教授を退任した後は、宵待が読んでも意味がわからないような本を書いていた。ほとんど、家に閉じこもっていたはずだ。


 視線を俯けて考え込む宵待を見て、青年の方が困ったように笑う。

「……あれを見て、恐ろしくなったのでは?」

「わたしに危害を加えないなら問題ないよ。人間は襲わないんでしょ?」

「ええ、それを聞いてあなたが千信の家族だと確信しました」

 深い溜め息を吐いて、青年は目を閉じて眉間を揉んだ。変わり者の部分が見事に受け継がれている。


「今後もああいった輩が、あなたに吸い寄せられて現れるでしょうね」

「そうなの? 今後も助けてもらえるなら嬉しいんだけど、そういうわけにはいかないか」

 どうしよう、と小さく呟いた宵待は、青年に見つめられていることに気付かなかった。唐突に腕を引かれたかと思うと、気づいた時にはソファに組み敷かれていた。


「……な、何だ」

「本当は昨夜、どうにかしようと思っていたんですけど、意識のない時にするのはいかがなものかと思いまして」

「え……な、何を」

 そんな問答は、数秒延命する程度にしかならない。覆い被さる青年を見上げ、宵待は顔を引き攣らせた。


「あのお嬢さんがあなたになかなか厄介なことをしてくれまして。いつからあれが傍にいたのか、覚えていないのでは?」

 確かに、そうだった。いつから彼女を友人と思い込み、どこでどう会っていたのか。

 けれど、それが何故この体勢に繋がるのか、それもまた疑問だった。

「それを解きます」

 失礼、と一言断る声音は、いかにも紳士的だった。が、次の行動はそれに反する。


 抵抗しようと手を上げた宵待の腕を左手で捕らえ、右手が宵待のあごに添えられて上向かせる。親指で唇をなぞる青年の目が、伏せられる。睫毛が陰を下ろした瞳に浮かんだのは、愉悦。

「ちょ――」

 最後の抵抗の手段は、あっさりと封じられる。乾いた冷たい唇が、宵待の唇に触れていた。驚きで一瞬頭が真っ白になり、抵抗を忘れた。どちらにせよ、宵待の力では青年の拘束を外すことは出来ない。


 ぱきりと、脳裏で薄い硝子が割れるような衝撃があった。視界がちかちかと明暗に揺れ、ややあって鮮明に映る。目の前の、至近距離の青年が。

「――! ――っ!!」

 くすりと、青年が笑ったような気がした。唇が離れ、宵待は噛みつかんばかりの勢いで怒鳴――ろうと口を開いたところを、再び捕らえられた。


 もう触れるだけでは許されず、深く、深く繋がる。氷を舐めたような感触が舌に絡む。それが青年の舌と気付いた時には、思考の限界に達していた。気付かない方がよかったのかもしれない。性急に、狂暴に絡めとられるわけではなく、あくまでも優しさを持って乱される。

 意識が強制終了されそうになる寸前、今度こそ青年が離れた。身体を起こして床に膝をつき、宵待を見つめる。とても凶行をしたとは思えない、清廉な微笑さえ浮かべて。


「申し遅れました、名を千歳といいます」

 驚きと、怒りと、理解の及ばない何かによって涙目になった宵待は、何一つ言葉に出来ずに真っ赤になって睨むしかない。

「好きです、宵待さん」

「…………は!?」

 渦巻いた感情を原動力に起き上がる。


「どんな順番だ! 順序立てて行動しろ!」

「出会い、自己紹介と順調なお付き合いだと思いますけど」

「どこが! さっき多大な間違いがあったでしょ! き……キスする必要ある!?」

「あ、そういう言葉に詰まるところ可愛いです」

 ぐっと宵待の拳が握られたのを瞬時に覚り、千歳はその手を握った。軽く握られているだけなのにぴくりとも動かず、宵待は諦めざるをえない。暴力はいけない、と自分を取り戻した。


「挨拶程度です」

「あんな挨拶があってたまるか! 絶対、後の方のはいらないでしょ!?」

「思わず」

「そういう短絡的な思考が犯罪を生むんだ!」

「宵待さんにしかしたいと思いません。初めてなんです。一目惚れというのでしょうか」

 恥ずかしそうに俯く千歳に絶句する。


 何度か視線を上げて、下げて、と繰り返した後、長く、肺の中を空っぽにする勢いで息を吐く。

「それが免罪符になるとでも……?」

 静かな声は震えていた。

 千歳はにこりと笑って小首を傾げる。仕草と相まって少し幼く見える笑みだった。

「まぁ、そうですね。これからたっぷり時間はあるわけですし、ゆっくり時間をかけてお互いを知っていくというのもいいですね」


「え、なに、これからって」

 ぽかんと表情が抜け落ちた顔で、宵待は右手を中途半端に上げた。ちょっと待て、の制止の手だったのかもしれない。宙で迷子になった手は、千歳の大きな手の中におさまる。

「今後も助けてもらえるなら嬉しいと言ったじゃないですか。傍にいられるなら、わたしも嬉しいです」

「状況が変わった! 前言撤回だ!」

「千信からも頼まれていますし、ご家族の了承は得ています。ご安心を」

「何を安心するんだ。危険しかない!」


「幸せな家庭を築きましょうね」

 新婚のお決まりの文句を言って、にこにこと笑う。

「わー!」

 あまりにも話が通じないことに言語中枢が故障した宵待は、ひと声叫んでがつんと青年の額に頭突きしてソファに突っ伏した。単純に痛みと、ままならない状況から逃避したかった。けれど簡単に放棄できるはずもなく、悔し紛れに叫ぶ。

「この石頭! 覚えてろ!」


「敵の下っ端みたいな台詞ですね」

 ふふっと笑われ、肩にやさしく手がかかる。反射的に顔を上げた。人離れした美貌が、見る者の心を溶かすような笑みを浮かべていた。

「ゆくゆくはわたしの眷属(花嫁)となって下さいね」

「……え?」

 何やら物騒な意味が込められた言葉に聞こえた。


「人間の血は好みではないので、ちょっと種族を変えてください。こんなに美味しそうなのに堪能できないなんて拷問でしかありません」

 ちょっと着替えてください程度の軽さで言われて、言葉を取り込むのに時間がかかる。やっと脳に伝達された時には、口が半開きになっていた。人差し指で唇をつつかれ、宵待は無言で叩き落とす。

「自分のままがいいので遠慮します」

「やっと一緒に生きたいと思える方に巡り合えたのに」

 しょんぼりと肩を落とす。


 宵待はふと思い当たって、瞬きして千歳を見つめた。

 千歳が言うことは理解したくないし、するつもりもないけれど、最後の言葉ならば少しわかる。祖父が全てだった日々から祖父が消えて、宵待には何もなくなった。家族を作りなさいと、生前に祖父が言ったことも不可能だと思った。

 けれど、一人がいいわけではない。一緒にいたいと思える誰かを、願わなかったわけではない。それが千歳に該当するかは別の話だ。


「まぁ、何かあれば呼んでください。いつでも駆けつけます」

 昼間と川の中はかなり困りますけど、と千歳は困ったように笑って立ち上がる。

「――えっ、どこ行くの?」

 口を衝いて出た言葉は、無意識だった。

 両者、動きを止めて見つめ合う。宵待が自分の失言に気が付くのと、千歳が嬉しそうに微笑むのは、ほぼ同時だった。


「待て、三秒ルールだ! 今のはなかったことに!」

「そんな、まさか宵待さんから同棲を持ちかけられるとは」

「違う! てっきり居座るつもりかと思っていたから……」

 どうにも頭が正常に回っていないらしい。宵待はこれ以上失言を重ねないように、一番注意したいことを言っておくことにした。

「いきなり妙なマネをするのだけはやめてよ」


「妙なマネとは?」

「だ、だから、さっきみたいな」

「ああ」

 頷いた千歳が腰を屈めて、宵待の唇に軽く口付ける。

「――こういうことですね」

「実践するな。今さっき言ったことを軽々と踏み越えるな! 唇は駄目だ!」


「それ以外ならいいと」

「やめて。言質を取ろうとするな。駄目だ、何を言っても通じている気がしない」

 ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしり、宵待は身を屈めて小さく丸まった。何をどう言えば今後の安全が確保できるのだろう。主導権を握る必要がある。

「そうだ、主はわたしということにしよう。ね、言うことはちゃんと聞いてよね、千歳」

 人差し指を立てて、宵待は顔を上げて胸を張る。けれど、その表情はすとんと抜け落ちた。


 千歳は漆黒の瞳を揺らして、呆然と佇んでいる。

「千歳?」

 もう一度呼ばれて、はっとしたように千歳が動いた。右手の甲を口元にあて、視線を逸らす。泣くのを堪えるような、初めて見る顔だった。

「ごめん、わたし変なこと言った?」

 ソファの上に立ち上がると、千歳と目線が合った。


「いえ……違うんです、ただ……名前を、呼んでくれたので」

「それだけ?」

 拍子抜けして、ほっと息をつく。

「それだけじゃ、ないですよ」

 千歳の顔が近づき、しまったと思ったけれど、ぎゅっと抱きしめられただけだった。

 抱擁を“だけ”と思ってしまうあたり、相当毒が回っている。


「宵待さんが呼んでくれることが、重要なんです」

 何かの香のような匂いがした。祖父の部屋の匂いに似ていて、緊張がとける。ぼうっとして千歳の背に腕を回しかけた時、千歳が体を離した。慌てて手を引っ込める。

「もう一度呼んでください」


「や、やだ! 無理」

「無理!?」

「や、改めて言われると……」

 何をしようとしていたのか、自分の行動に動揺していた。千歳に何度ねだられようと、宵待は首を振って拒み続けた。

 本格的に頭がどうかしている。防御の後、撤退をするしか身を守る術はない。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、起床時間を知らせる。

 人一人分盛り上がった布団からにゅっと手が伸びて、見もせずに器用に時計を止めて、再び引っ込む。

 五分後にまた起動し、じりじりと鳴り続けた。なかなか起きない主に、目覚まし時計は容赦なく叫び続ける。


「うっさい!」

 自分で頼んでおきながら、この言い草だ。宵待は布団を跳ね除けて起き上がると、ぺんと時計を叩いて黙らせて、のそのそと床に降りる。寝る前にゆるく編んだはずの髪は、ほどけてぼさぼさになっていた。


 ふらふらと一人掛けのソファまで歩いて行って、ぺたんと座り込む。まだ眠そうだった。座面に頬を載せると、瞼が勝手に落ちてくる。

 今一度眠りの国の住人になった宵待は、ベッドから這い出てきっかり五分後、スヌーズ機能を切り忘れた目覚まし時計の最後の抵抗に屈した。

「ああ――もう!」


 宵待は立ち上がって目覚まし時計に駆け寄り、裏返して完全に機能をオフにすると、大きく伸びをした。

 何やら懐かしい夢を見た気がする。懐かしいと言っても、まだ一月前のことではあったけれど、奇妙な同居人との生活は毎日が濃くて疲労が溜まり、一人で過ごした時間がずいぶん遠いことのように思えた。


 階下に降りると、廊下の置時計がこちこちと音を立てている。千歳が修理してくれたおかげで、祖父がいた頃のように正確に時を刻んでいた。自然と笑みが浮かぶ。

 静まり返ったキッチンカウンターの前のテーブルに朝食が用意されていた。料理を上手くできない宵待と違って、千歳は見た目も味も上手に仕上げる。

 はじめは「慣れていないだけだから」と千歳も言ってくれたけれど、一回だけ一緒に料理をしたら見たことのない表情をして「料理は僕の担当にしよう」と言われてしまった。ずっと前に祖父ともそんなやり取りをしたことがあった気もする。


 吸血鬼という生物らしく、彼は夜明け前に地下の自室に引っ込んでしまう。また現れるのは夕方以降だ。

 宵待はテーブルの上を見つめ、小さな声で言う。

「……いつもありがとう、千歳。困ることも多いけど、救われてる」

 面と向かっては言えないけれど、今なら言える。

「千歳、愛してる」


「――っ何でいる!」

 突然低い男の声で台詞が挿入され、宵待は室内を見回した。低いテーブルを囲むように配置されたソファから、むくりと千歳が起き上がる。

「何で寝てないの!?」

「直射日光じゃなければ割と平気なんですよね」

「ここをサンルームに改築して、下を川床みたいにするぞ!」

 真っ赤になって捲し立てる宵待の言葉は、なかなかの死刑宣告だったけれど、千歳は楽しそうに笑うばかり。


「こちらこそ、ありがとうございます」

「何も言ってないし」

「昨夜も聞きましたけどね」

「えっ……嘘つくな!」

「言ってましたよ。千歳大好きーって、寝入りばなに」

「え――」


「え? ……何でそこで詰まるんですか」

 宵待は壊れかけの人形のようにぎこちなく顔を俯けたかと思うと、猛然と走り出してリビング前のウッドデッキへ飛び出して、そのまま庭へと降りる。さんさんと朝日が降り注ぐ庭で頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「ちょっと、ずるいですよ! 何で逃げるんですか」


「何も言ってない! 何も言ってない!」

「分かったから戻ってきてください! ご近所迷惑ですよ!」

「千歳のあほ! ばか! なんかもう絶対許さないからな!」

「宵待さん、しっかりして! 頭が退化してます! さっきのは冗談ですから!」

「なんだと!? 勝ったと思うなよ!」



 未だ、祖父を思い出して泣く夜もある。それはどうしようもなく、今後も続いていくだろう。

 けれど、穏やかに過ごす日もある。思い出を笑い話に出来る日もある。

 それは、一人ではないから。

 悔しいことに、たぶんもう宵待はこの青年を手放すことは出来ないだろう。様々な事情があって、それに付属する理由もいろいろあるけれど。



 -了-



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― 新着の感想 ―
[良い点] え…か、かっこいいです。(語彙力皆無)
2018/10/11 23:18 通りすがりのヴァンパイアファン
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