ホモジナイザー涼子
涼子はその日、大学の実験室にて理化学機器を前にして教授の講義を受けていた。
『理化学実験基礎』、涼子が専攻する化学では様々な理化学機器を扱う。
この講義はそれらに必要であろうと受けたものではあったが、あいにく彼女の友人達はそう思わなかったらしく、こぞって別の講義を取り、結果今は一人だ。
唯一の救いはある程度顔見知りで会話をしたこともある男子が何人か近くの席にいる事だろうか?
彼女は折角の大学生活の一コマが、つまらない説明を聞くだけに終始してしまうことにうんざりしながら、目の前で説明を行う老齢の教授に目をやる。
「えー、それではー、本日は皆さんに実験機器の基本的な使い方を学んでもらいますー」
白衣を着た教授がそう口を開くと、彼のゼミに所属する上級生がそれぞれバラけて講義を受ける者達の席へとやってくる。
この教室は実験室の為、一般的な高校の理科室で見られるような専用の実験台が並んでいる。
その為、いくら自由に座ったところで自然と班ができるような構造になっており、教授側もそれを見越してか、予め実験機器を各実験台に置いており、それぞれの上級生が詳しく機器の取扱について説明するようだった。
「えーではー、班毎にそれぞれ順番に使用していきましょうかー、まず1班は分光光度計――」
教授が機器を指差しながら簡単な説明をしていく。その話を上の空で聞きながら、涼子はボーっとした表情で窓の外を眺めている。やがて教授が他班の説明を終え、涼子の班の場所へとやってきた。
涼子はそれに気がつくと形ばかりに顔を向け、一応聞いている振りをする。
彼女はあまり熱心な生徒ではなかった。もっとも皆それぞれ知識を吸収する事に精一杯で涼子に気づくことはなかったが……。
「では6班の皆さんはこのホモジナイザーを使って頂きます」
教授が涼子の所属する6班の席に据え置かれた機器を指差しながら説明をする。
それは顕微鏡をもう一回り大きくした様な形をしており、レンズの代わりに大きなモーターらしきものと、その尖端にスクリューらしき物が付いている理化学機器だった。
ホモジナイザーと呼ばれるそれは化学の分野に置いて比較的よく知られるものであり、使用頻度が高いことから教授もその取扱を講義に盛り込んでいた。
だが、良かれと思われたその考えは、脆くも崩れ去る事になる――。
「ホモ痔ナイザーですかっ!?」
涼子は血相を変えて立ち上がった。
その表情には先ほどの発言に対する驚きと、微かな期待が含まれている。
彼女は教授の話を今まで一切耳に入れておらず、そして何より腐っていた。
「……? はい、ホモジナイザーですが、どうかしましたか? えっと……」
「高梨です、高梨涼子。それよりも教授、今、ホモ痔ナイザーって……」
困惑する教授に歓喜の表情で涼子が尋ねる。
彼女は少しばかり想像力が逞しい人間であった。もっとも、それは妄想力と言っても差し支えない物だ。
鬼気迫る涼子に何を感じたのか、教授は穏やかな表情を浮かべると丁寧に説明を始める。
「はい、ホモジナイザーですね、二つの試料を撹拌します」
「いきなりプレイがハード過ぎます!!」
涼子は叫んだ、彼女は順序を重視するタイプだった。
初めてはもっとお互いの想いを確かめ合うような、背徳感と恋心がせめぎ合い、それでいてなお自分達の欲望に負けてしまうような、そんな初々しいシチュエーションが好みだったのだ。
もちろんそんな涼子の趣味など教授は預かりしらぬ所である。
「えっと、良く分かりませんが、均一化させる為の機器なので試料に対する負荷は大きくなりますね。まぁ今回の試料は別に問題ありませんが、衝撃によって変性する物や危険物には細心の注意が必要です」
「城尾君だって初めてなんだからもっとソフトに扱って上げないといけません!!」
「えっ!?」
涼子の突然の言葉に興味深そうにホモジナイザーを眺めていた城尾正は驚いたように顔をあげる。なぜいきなり自分の名前が出たのか、彼は全く理解していなかった。そして彼は被害者であった。
「は、はぁ……。では高梨さんは城尾君と一緒にホモジナイズ……つまりホモジナイザーを使った処理の事ですね、それをしていただきます。高梨さんが満足いくまで城尾君を見てあげて下さい」
「ふざけないでください教授! 私が城尾君とホモ痔ナイズできる訳ないじゃないですか!?」
「「えっ!?」」
教授と城尾が同時に驚きの声をあげる。
教授はなぜ自分の好意による説明がこれほどまでに否定されたのか理解できなかった。同時に城尾も何故涼子がこれほどまでに自分と実験をするのを嫌がるのか理解できないでいた。
「ホモ痔ナイズはっ! ホモ痔ナイズだからこそ男の子同士でしなきゃいけないんじゃ無いんですか!」
バンッと眼の前にある実験台を力いっぱい叩きながら、怒りの表情で涼子が教授に反論する。
彼女は怒っていた。それは自らの信念を否定された事によるものだ。
彼女の信念は、男性は男性と恋愛すべきと言う歪んだものであり、一般的にあまり理解されないものである。
つまり端的に説明すると、涼子はホモ同士の絡み合いが大好きで大好きで仕方がなかったのだ。
「た、高梨さん……僕と一緒に実験するの嫌なの?」
どこか小動物的な愛らしさの残る表情で、城尾が涼子に静かに問う。
思わず抱きしめてしまいそうな、女性の母性本能をくすぐる仕草の城尾は大学でも人気者だ。
主に女性の先輩などから熱心にデートに誘われている事を涼子も十分に承知している。
確かに城尾君は受けとしては天性の逸材だわ! ホモ痔ナイズされて当然ね!
つまり……涼子は腐っていたのだ。
「城尾君……。 誤解しないで、貴方が私とホモ痔ナイズしたいって気持ちはとっても嬉しい。でも私は女、決して貴方とはホモ痔ナイズできない関係なのよ……」
「い、意味が分からないよ高梨さん……」
城尾は困惑の表情で呟く。
城尾は普段からいつも優しく穏やかで、大和撫子とも言える涼子に密かな恋心を抱いていた。
その思いがあっけなく砕かれた事によるショックは計り知れない。
そして、本日の涼子は普段彼が知る涼子ではなかった。
何やら興奮気味で勢いがあり、、鼻息も荒い。
決して言葉に出すことはなかったが、正直、城尾は涼子の事をなんだか気持ち悪いなぁと判断した。
「城尾君にはもっと相応しい相手がいるはずよ。そう、思う存分ホモ痔ナイズできる相手がね、それは……」
「あのー、高梨さん? 実験が進まないのでそろそろ……」
キョロキョロと辺りを見回す涼子。
獲物を狙う野獣の眼光だ。
机から立ち上がりねっとりとした視線で実験に参加する男性を視姦する。
もちろん、教授の注意も自然とスルーされている。
そして、哀れな獲物がついに決まる。
「そう……、そうよ! 舘君よっ!」
「えっ! お、俺!?」
実験テーブルで肩肘をつきながら、興味なさそうに自らのスマートフォンをいじっていた舘雄一は、突然自らの名前が呼ばれた事に驚き顔をあげる。
「どう考えてもお似合いだもの、攻めの舘君に受けの城尾君。キャラ的にもピッタリだわ! そもそも舘君の名前を聞いた時から期待していたの! 猫君がいないか必死で探した程よ!」
金髪とも言えるほどに染め上げた茶髪で、指や腕に付けた銀のアクセサリーが遊び慣れている印象がある舘は難しそうな顔をして周りを見渡すと、涼子の指名に対して苦々しい表情でつっけんどんに返す。
「意っ味わかんね……なんで俺が出てくるんだよ」
「強気な所がなおさら舘君だわ! でも誤解しないで! 貴方が強気に責めるのは私じゃなくて城尾君なの!!」
「僕!?」
だが、涼子は意に介さない。
それどころか、自らの意見を押し通す様にグイグイと攻めてくる。
それは普段から強面で通り、ちょっとした事では動じない舘ですら一歩引いてしまうものだ。
そして、もちろん哀れな城尾もいまだに彼女のターゲットである。
実験室は……すでに涼子の独壇場と化していた。
「はぁ、良く分かりませんがそれでは城尾君と舘君がホモジナイザーをメインに使って実験を進めていくと言う事ですね、では他の皆さんもしっかりと作業の様子を見ていてくださいね」
「待ってください教授!!」
「な、なんでしょうか高梨さん?」
教授は恐る恐る涼子に尋ねる。
上手くまとめた筈だった。にも関わらずこの問題児は何が不満なのだろうか?
教授は、涼子の単位と評価をどうすべきか、内心で考えながら、動揺を隠した穏やかな表情で彼女の言葉を待つ。
「こんな、皆がいる場所で! 皆に見られながらホモ痔ナイズなんて過激過ぎます!」
教授は意味が分からなかった。
「え!? でも皆さんが見ていないと勉強にならないでしょう?」
「そうですね、勉強なら仕方ないですよね。私も勉強の為にしっかりと見ておきます!」
教授は意味が分からなかった。
涼子は満面の笑みだ。これ以上ない程に眩しい表情を見せている。
とりあえず、教授は彼女の事を無視して話を進める事にした。
なんとかして授業を進めたかった。その為には、横で鼻息を荒くする涼子の事などこれ以上構っているわけにはいかなかった。
「ああ、ようやく話が進められますね。ではまず城尾君、事前に配っている液体試料と粉末試料をビーカーに入れてください――はい、それで結構です」
教授の指示の下、城尾と舘が手際よく作業を進めていく。
彼らが用意したビーカーの中には、化学薬品と思わしき液体と、そこに沈殿した白い粉末試料が見て取れる。
教授はその様子を見て満足気に頷く。
涼子は期待に胸を膨らませ、城尾と舘を見て満足気に頷いた。
「では舘君、早速このビーカーをホモジナイザーの下に設置してスイッチを押してください。はい、これでホモジナイズができます。」
ビーカーをホモジナイザーにセットする舘。
彼がホモジナイザーのスクリュー部分を試料に浸けて固定し、城尾がスイッチを押すと、ヴイーンと独特の音が鳴り、機器が振動する。
同時に、その音を聞いた涼子も、恍惚の表情で静かに震えていた。
「へー、結構簡単なんすね」
ホモジナイザーによって撹拌され、乳白色の液体となった試料を物珍しそうに眺める城尾。
その表情に、涼子も体の芯からゾクゾクとした感情が沸き起こってくる。
「初心者の僕達でもすぐにできたね、舘君!」
「まぁ俺に全部任せておけばバッチリだよ!」
ガタッ!!
物凄い勢いで涼子が席より立ち上がる。
息が荒く、鬼気迫る表情だ。
先ほどのやり取りに、何かとても輝かしい物を感じたらしい。
「「…………」」
舘と城尾、そして教授は涼子を無視した。
そうすることが最善であると判断した為だ。これ以上涼子に付き合う訳にはいかなかった。
何か恐ろしい予感めいた物を感じていたというのも理由の一つだ。
鼻息荒く舘と城尾を交互に見つめる女性は居ない。
そう、自らに言い聞かせ、教授は機器の説明を続けていく。
「はい、それではホモジナイズが終わりましたね。普通では混ざり合わない二つの試料ですが、この様にホモジナイザーを使用する事によって均一に混ぜる事が可能なのです」
「嫌がる二人を無理やり混ぜ合わせてしまうなんて、やっぱりホモ痔ナイザーってハードなのね……」
うっとりとした表情で語る涼子。
それはある意味で恋する少女のような、純粋な物だ。
だが、見る人が見れば、彼女がただただ純粋にいかがわしい思考に汚染されているという事が理解できるだろう。
涼子は……どこまでいっても腐っていた。
「……そしてこの様に通常では混ざり合わない物が均一に混ざった状態の液体をエマルジェンションと言います。日本語で言うと乳濁液ですね」
「白濁液ですって!?」
教室中をに雷鳴のごとき叫びが響く。
涼子は驚愕の表情で舘と城尾を見つめている。何がなにやら理解できない舘と城尾も涼子を驚愕の表情で見つめ返した。
「そ、そんな! ホモ痔ナイザーで白濁液を作るなんて……。業が深い! 業が深すぎるわよホモ痔ナイザー! どこまで私を楽しま――苦しめれば気が済むの!?」
「あの……高梨さん? これは白濁液ではなく乳濁液と――」
控えめに語る教授。
だが、涼子はその言葉に激怒する。
「誤魔化さないでください! 男の子が! 男の子同士が作った愛の結晶に誤魔化しや言い訳なんて失礼です! ありのまま受け止めてあげてください!」
「は、はぁ……」
涼子はお互いの愛情を重視するタイプだった。
互いが様々な障害を乗り越えながら、お互いの気持ちにすれ違いが生じながら、それでも苦難を乗り越え、そして幸せなキスをしてエンディングを迎えるような……。
そんなピュアな恋に憧れていたのだ。
もちろん、男同士が、である。
涼子は自分の恋愛よりも、男性同士の恋愛に興味津々であった。
「こうしちゃいられない! 二人の気持ちが高まっている今でないとホモ痔ナイズが失敗しちゃうかもしれないわ! さぁ、舘君! 城尾君! ホモ痔ナイズして!」
感極まったのだろう。グイグイと舘と城尾に迫り、なにやらまくし立てる涼子。
そんな彼女に流石の二人も見て見ぬふりをする事は出来なかった。
なにか危険な物に触れるように、控えめに二人は涼子に返答する。
「えっと、高梨さん? 僕達今さっき実験やったけど……」
「ちゃんと見てたのか? お前そんなんじゃ単位落とすぞ?」
「そう、そうね! やっぱり恥ずかしいわよね! 二人が迎える初めての共同作業だものね! 白濁液まみれの姿なんて見せられないよね! 安心して、私がとってお気の場所を知っているから! 二人共行くわよ! レッツホモ痔ナイズ!!」
涼子は基本的に人の話を聞かない。
彼女は完結していた、自分の中で全ての物語が出来上がっていたのだ。
そして、歓喜の表情のまま舘と城尾の手をとり、グイグイと引っ張る涼子。
年頃の女性らしからぬその力強さに思わず二人もたたらを踏みながら、抗議の声をあげる。
「あっ! っちょっと!」
「おいおい、どこ連れて行くんだよ!」
だが、それで止まるのなら、涼子とてこのような有り様にはなっていない。
あれよあれよというまに、彼女は舘と城尾を連れたって教室から出て行く。
教授や、講義を受ける他の者達はポカンとその様子を眺め送るだけだ。
――そして、涼子は行ってしまった。
扉の向こうへ、舘と城尾を連れて。彼らの知らない世界へと……。
「授業を続けましょうか……」
教授は深い溜息をつく。不本意な事に、彼の授業において三人も単位を落さなければいけない生徒がでてしまったのだ。
現代日本に蔓延る深い闇。その事を憂いながら、教授は静かに講義を続けた。
――ちなみに、舘と城尾は付き合うことになった。