消毒
どの位、傷つけてしまったんだろう?
電話をしても、出ない。
メールをしても、返事がない。
家にも帰っていない。
おばさんが心配している。
大輔にも連絡はない。
制服のままで、米と自転車を持ったまま、どこに居るんだ?
大輔から、奈津子が来ると連絡があり、少し前に突然やってきた真由美を慌てて追い返そうとしていた。まさか、もう奈津子が来ているとは思わなかった。
あの時、マンションのエントランスで目が合った時の奈津子の表情を思い出す。
怒りでも哀しみでもなく、……「無」だった。
あの子にあんな顔をさせて、なぜすぐに後を追わなかったのだろう。
真由美が居たというのは言い訳だ。なんと説明すれば、どこから話せばいいのか、わからなかった。
奈津子に嘘はつきたくない。でも、何を話してもきっと彼女は傷つく。いや、もう傷ついている。
あの、人の心を感じすぎてしまう位に繊細な奈津子が、俺と真由美の様子を見て普通でいられるはずがない。
途中にあるコンビニや本屋、ショッピングセンター、立ち寄れそうな場所を片っ端から覗く。
見つからない。
もし、どこかで事故にあっていたら……
もし、おかしな輩に捕まっていたら……
あの子は人の目を惹く位に整った顔立ちをしているし、中学生には見えない大人びた雰囲気を併せ持っているから、きっとそういうタイプを好む大人には格好の標的になってしまう。
もう、辺りは暗くなっている。嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
「私よりもあの子が大事だっていうの!?そんなの絶対に許さない!!」
そんな捨て台詞を吐きながら駄々をこねて粘っていた真由美を車で駅まで連れて行き、なんとか車から降ろして、そのまま奈津子を探した。
流石に、あの状態の真由美をマンションの入り口に置き去りにする事は憚られた。
しかし、今ではそれを悔やむ。
真由美は、傷つけた人間を憎む。少なくとも、相手の気持ちを考えることなどしない。同じように相手を傷つけるための方法を考える。
自分の身はきちんと守りながら。
奈津子はきっと、相手の理由を考える。そして受け入れようと努力する。それでも許せない時、きっと自分を責めるんだ。
無事でいてくれ、俺の事を憎んでもいいから……
そう思いながらもう一度、マンションと奈津子の家をつなぐ道をゆっくりと周りを見ながら車を走らせる。
その時、最近売り出した建て売り住宅が並ぶ一角の、小さな公園が目に入る。
ちょっとした遊具とベンチと少し植え込みがあるような、昼間は小さな子供をママさん達が遊ばせているような公園。
俺は車を停めて、祈るような気持ちで公園の中に入って行った。
植え込みの陰になっている所に、かごの重みでハンドルが大きく傾いて停められている自転車と、傍らのベンチに泣きはらした顔で座っている奈津子が居た。
姿を見つけたら、なぜか足が震えた。奈津子は茫然とした様子で俺の方に顔を向けた。
奈津子が座っているベンチの目の前に思わず座り込んだ。
「よかった、居た……」
最初に出て来た言葉はそれだった。
ほっとしてうなだれる俺の頭を、奈津子は何も言わずに撫でた。
そして
「心配かけて、ごめんなさい……」
と呟いた。
何も言えなかった。
この子は人を責めるより、まず自分の否を詫びるような子なんだ。
普通は、おれを問い詰める事を言ったり、泣いて非難したりするだろう。奈津子の中には「自分の事は棚に上げて」という言葉は存在しないのだろうか?
目線の先に、血が出ている奈津子の膝小僧が見えた。
「転んだの?」俺の問いに小さく頷いた奈津子を、たまらなく抱きしめたくなったけれど、ギリギリの理性が体が動くのを押し留めた。
かろうじて動いた手を頭に乗せると、奈津子は一瞬体を固くした。
「ごめんな……」
としか言えなかった。
奈津子は何も答えなかった。
そのまま二回、頭をポンポンしてから奈津子のお母さんに電話を入れた。すぐに送り届けると約束しようとすると、奈津子が電話を取り上げ明るい声で、「ちょっと行きがけに本屋に寄ってて遅くなっちゃった。連絡しなくてごめん。重いの届けたんだから、佑ちゃんに美味しいものご馳走してもらってから帰るから」と一気に話し、俺に電話を渡す。
責任持ってお預かりしますと挨拶をし、電話を切った。
その後、奈津子は自分から大輔に電話をし、同じように明るい声で説明する。
そして電話を切って、1つ大きな溜め息をついて、俺に向かって小さな声で言った。
「足が痛いです。お米が重いです。自転車もう漕ぎたくないです。……話しが聞きたいです。」
その言い方が可愛くて、俺の為に無理をして家族に嘘をついた気持ちが愛おしくて、今まで強張っていた自分の顔が少し緩んだのが自分でもわかった。
俺は
「了解」
とだけ言って、まず車に米を積み、自転車を積んで、最後に奈津子の前で「おんぶ」の体制をした。
俺が背中を向けると、奈津子は無言で背中に乗ってきた。今まで無理をしていた分、精一杯の甘えだったのだろう。
ギュッとしがみついてきたので、抱きしめる代わりに強く足を抱えこんで立ち上がった。
初めて奈津子は俺の背中で泣き出した。
押し殺すように泣く声を聞いて、歩きながら胸がしめつけられた。
多分、奈津子は俺に恋心を抱いてる。
その相手の、目の前で繰り広げられた状況を理解しようと一生懸命考えて、転んで、泣いて、どうすればいいか途方に暮れて、泣いて、泣きはらして、無理して、嘘をついて、平気なふりをして、やっぱりダメで、また涙が出てくる。
きっと、奈津子の頭の中は、「?」と「!!」そして「許せない」と「好き」でいっぱいなんだろう。
俺は壊れ物を置くように、そっと奈津子を助手席に座らせた。
「まず、足の手当てをしよう。それから、美味しいもの。その後、話そう。奈津子の知りたい事、全部話すから。」
俺がそう言うと、奈津子はコクリと頷いた。
車の中は、二人とも無言だった。途中で奈津子を車に残したまま近所のケーキ屋に立ち寄って、食べきれない位のケーキを買った。
好きなだけ食べさせてあげようと思った。
マンションの駐車場につくと、奈津子にケーキを持たせ、俺は米を抱える。結構重い。こんなものを載せて、ウキウキしながら自転車を走らせて来たんだなあ、と思うと、改めて罪悪感を感じる。
部屋に入り、まずは傷の手当てをする。
とはいえ男の一人暮らしの救急箱には、大したモノは入っていない。とりあえず消毒をして絆創膏を張る位しか出来ないが……。
消毒液をかけると、少し滲みたようで、奈津子が顔を歪める。その後、大きめの絆創膏を傷口に張り、応急処置の真似事を終える。
「よし、オッケー」
と奈津子の顔を見ると、ほっぺを赤くしている。
うっかりしていた。手当てに夢中で気付くのが遅くなった。
少し焦って
「ごめんごめん、男の俺に足を見せるのは恥ずかしいよな。でも俺、部活の時に人の手当てしなれてるから、気にしなくて平気」とフォローにならないフォローをしてしまう。
奈津子が、はにかみながら
「何それ。フォローのつもり?」
と軽い調子で答えてくれたのでホッとした。
次は、心の傷の方だ。
きちんと消毒してやらなきゃいけない。
市販薬なんてないから、きちんと殺菌できるかわからないけど、誠意を尽くして話しをしよう。
もしかして、いや、きっととても滲みるだろうけれど、言い訳も嘘も封印して真実を話そう。
例え奈津子が俺を許せなくても、自分を責めずにすむように。
人を責めないこの子の心に、傷を残したくないから。