金星
大好きな人を嫌いになりたくないのに……
暑かった夏休みが終わった。まだ日差しは夏のようだけれど、空の高さや夕方の風が少しずつ秋を思い出させるようになってきた。
「なっちゃん、お使い頼まれてくれない?」
学校から帰って来るや否や、猫なで声で母が言う。
「叔父さんが新米送ってくれたから、お兄ちゃんと佑ちゃんに届けてあげて欲しいの。」
「……いいよ、別に。」
一瞬、返事に詰まった。
夏休みに海に行ってから、佑ちゃんに会っていない。わざと避けてるわけではないけれど、真由美さんとお兄ちゃんと佑ちゃんの関係が、何か釈然としなくてどんな顔をして佑ちゃんに会えばいいのかわからなかった。でも、会いたかった。私の考え過ぎ!真由美さんはお兄ちゃんの彼女で、佑ちゃんは真由美さんの幼なじみ、そしてお兄ちゃんと佑ちゃんは親友!それだけ!難しくもなんともないじゃない?私、中学生だし、まだ子供だし、全然わかんないし〜!
……と自分をごまかしてみる。まあ、いっか。とりあえず新米を渡すという口実があるんだし、普通に会えばいいよね。
一応、自分の中で折り合いをつけて、制服のままで自転車に新米を積んだ。
我が家からお兄ちゃんと佑ちゃんが住むマンションまで、自転車で20分弱かかる。お米を積んでのこの距離は、思ったよりキツい。汗だくでマンションの前についた。1人じゃ運べないのでお兄ちゃんに電話してみたら、なんと留守だった。
「マジ!?今日帰るの遅くなるんだよ。佑二はいるはずだから、俺の分も預けといて!悪いな!」
と一方的に電話を切られた。連絡しないで来たし、実験中で忙しいのはわかるけど……。お米2人分で10kg以上あるんだけど!担いで佑ちゃんちまで上がれって!?佑ちゃんに電話とか緊張しちゃうし、管理人さんに手伝ってもらおうかなあとか、あれこれ考えてる間にマンションから誰かが話しながら出てきたようだ。
「…だからって、なんで私が帰らなきゃいけないのよ!」
ドキン!この声……。
「大輔がいない時に、俺の家にお前が居るのはおかしいだろうが」「どうしておかしいのよ!私が佑二と2人で会ってちゃいけないの!?」
「突然やって来て何を言ってんだよ、俺は元々この後用事があるって言ってるだろ」
佑ちゃんと真由美さんだ。喧嘩してる?私がいる所より少し高い位置にあるエントランスポーチを出た所で2人が立ち止まる。
「突然で何が悪いのよ。大輔も佑二も2人とも私のものよ!!」
「いい加減にしろよ!!俺も大輔も、ものじゃない!!人が誰でも自分の思う通りに動くと思ったら大間違いだ!!」
金切り声をあげる真由美さんに、佑ちゃんが大声を出した。冷たい、相手をねじ伏せるような絶対的な声だった。
真由美さんは泣き出すと、佑ちゃんの胸にしなだれかかった。佑ちゃんは真由美さんの背中に手を回すわけでもなく、何か耳元で話しかけながら通行の邪魔にならないように端に移動させた。
すると真由美さんは、佑ちゃんを睨みつけると、そのまま強引にキスをした。佑ちゃんは、抵抗するわけでも受け入れるでもなく、なすがままで、目だけで周りを伺った。
その時、少し低い位置で立っていた私と目が合った。佑ちゃんは慌てて真由美さんを引き離した。
私はどうしていいかわからなくて、急いで自転車のスタンドを蹴り上げ、佑ちゃんに背中をむけて思い切り自転車をこいだ。
真由美さんが何か叫んでいる。佑ちゃんも何か言ってる。2人が何を話しているかは耳に入ってこない。
追いつかれないように、必死にこいだ。マンションが見えなくなった位の所で、お米の重みでバランスを崩して転んでしまった。初めて振り返ってみたけれど、佑ちゃんは追いかけて来ていなかった。
制服のスカートからむき出しの膝から血が出ていて、前かごにいれていたお米は袋ごと地面に落ちていた。涙が溢れてきた。ぽたりぽたりと落ち始めた水滴は、いつのまにか涙の道を私の顔に作っていた。
通りかかりの、犬の散歩をさせていたおばさまグループが、驚いて私に駆け寄って来た。口々に心配の言葉を発しながら、自転車を起こしてくれたり、むき出しの私の足にスカートを整えてくれたり、背中をさすったりしてくれた。犬たちも驚いたように私の周りで様子を伺っていた。
見ず知らずの人の優しさが温かかった。
私は、お礼と大丈夫だと言うことを伝えて、「突然転んで驚いた」と嘘の言い訳をした。泣き止んだ私を見て安心したように、おばさま達は散歩に戻っていった。
もしも誰も来なければ、私はきっと、ずっと泣き続けていただろう。佑ちゃんが来るまで。追いかけてこない佑ちゃんを、いつまでも泣きながら待っていただろう。おばさま達が、私に立ち上がるきっかけをくれた。私は立ち去って行く一行の背中に深々とお辞儀をした。
自転車を押しながら、歩き出した。
歩きながら考える。
考えながら、また涙が出てくる。なんで涙が出てくるんだろう?
足が痛いから?追いかけてこないから?怒鳴り声?真由美さん?キス?
頭の中に無数の「?」が産まれる。そしてふと、1つの言葉が浮かんだ。
「共犯者」
私が嫌いな真由美さんと、私が大好きな佑ちゃん。
2人が私の大事なお兄ちゃんを裏切ってる。
好きな人が他の人とキスしていたという失恋的なショックよりも、好きな人が親友の信頼を裏切っていた事の方がショックだった。
きっと何か事情があるんだ、子供の私にはわからないような。
そう思いたい自分がいる。
佑ちゃんに「そんな人だと思わなかった」と思いたくない。
神様、お願いだから「私の誤解だったのね、それじゃあしょうがないよね」と納得できる答えや言い訳を下さい。
もう、頭も心も膝も限界。道沿いにある小さな公園のベンチに座った。辺りはもう大分、日が暮れていた。まだ明るさは残ってるけど、金星が見える。
その時、携帯が鳴った。佑ちゃんからだ。そのままディスプレイを見つめていた。言い訳を聞きたいけど聞きたくない。呼び出し音が止まって、もう一度鳴る。何を話せばいいかわからないから、無視する。
少しして、メールの着信音がした。
「今、どこにいるの?」
最後の「の?」に心配と優しさを感じて、それを嬉しいと思ってしまう自分を感じて、また涙が出てくる。返信が出来ない。
そのまま、私は座り続けるしか出来なかった。
もう辺りは真っ暗だった。お兄ちゃんには言えない。お米持ったまま家にも帰れない。こんな顔じゃお母さんが心配する。
友達と話す気になんかなれない。
私は途方にくれていた。
もう思考も涙も止まっていた。
車が停まる音がしたような気がする。ハザードランプの規則正しい点滅が辺りを明るくしていた。車から人影が降りてくる。私はそれをぼんやりと見ていた。
金星はさっきより明るく輝いていた。