今日も空が憎いから
今夜は空が高い。
都市の光に照らされたうろこ雲が、暗いビルの隙間に漂っている。眼鏡越しの疲れたまなこには、月はまだ映らない。今日は満月のはずなんだけどな。雲の裏かな。そう思いつつ、足元を見た。
今日も、私はビルの縁を歩いている。
コンクリートの群れの中の、背の低い古い雑居ビルの屋上。そこの低いフェンスを越えて、柵も安全もないところで私はステップを踏んだ。足を滑らせたら死ぬだろう。いや、微妙な高さだ。多分ギリギリ生き残れる。痛そう。
ヒールの小さい靴は履いたままだ。それどころかコンビニで缶コーヒーを買って、ピクニック用のビニールシートまで持参している。完全に休憩気分。だけどこんな危険な場所にいるのは、スリルを味わおうとしているのか、非日常を味わいたいのか。どれが理由なのかは、もはや自分でもよく分からない。
でも命を断つなら、高いところから落ちるということだけは、前から決めていた。
だから安全基準に問題があるフェンスをよじ登り、こんな所を歩いている。私の会社からの信用は高い。だから屋上の鍵を自分で管理している。杜撰だ。こんなことをするなんて思いもよらないのだろう。だから私のこの異常な行動は誰にも気づかれていなかった。
縁の部分にビニールシートを敷き、そこに座る。こんなビルの隙間の屋上を見る人なんか誰もいない。ビニール袋の中から微糖の缶コーヒーを取り出す。さっき買ったばかりでまだ温かい。プルタブに指をかけ、かしゃりと開けた。変に引き立つ酸味と、甘ったるい砂糖が混ざる匂いが鼻腔を擽った。
一口。啜る。少しのミルク感。そこから半端な苦さと甘みが口の中でまとわりついた。コーヒーの香りなんかオマケの安い味だ。そう思いながらも嗜み続けている。私の舌は残業続きの社会の波に揉まれて既にイカれていた。
メール出さなきゃな。そう思って一時間が過ぎた。サボり始める前から億劫で指が動かなかった。戻ったら気合を入れて文面を考えなきゃな。そう思いつつ、身体は動かない。ただ瞳はレンズを通り抜け、鈍い灰色に輝いた空に揺蕩う雲を、空虚な気持ちで眺めていた。
浮かび上がりたい。月光で溶けて、雲になりたい。気持ちが良いんだろうな。
ビルの森を背に、喧騒をBGMに眠りながらふわりふわりと滞留するんだ。そこから風と共に流されて、電車とともに実家まで帰ろう。最近帰ってないな。でも帰ってもお母さんがはよ結婚しろってうるさいだけだ。彼氏にフラれたばかりだよ。帰らないほうがいいな。やめとこう。
空を眺め続けていると、この薄暗い夜空に紛れるように、豆粒のような飛行機が空を流れていた。私の意識はその隣まで浮かび上がり、飛行機に連れ回される。
飛行機は好きじゃない。ジェットで無理やり飛んでいる感覚が苦手だ。だけど私を連れて行ってくれるんだから仕方がない。あれは羽田に向かう途中かな。つまらないな。遠い方がいい。どこがいいかな。そうだ。社員旅行で行った北海道にしよう。
来た。私の思考に移動速度は関係がない。広い滑走路だ。グライダーの体験会があったからそれに参加したんだっけ。あの時の感覚を思い出す。
軽飛行機に引っ張られて空へ近づいて、途中で切り離された。エンジンの音が消え、風を切る音だけが聞こえる静寂の世界へ到達した。身体が風に乗ってふわっと浮き、広がる大地を眺めて、自分の心がざわついた。
落胆だった。
緩やかにただ滑空していったそれは、私が求めていた感覚にすごく近くて、果てしなく遠かった。せっかく空まで来たのに、ただ浮いていたかっただけなのに。重力に縛られて落ちていった。
落ちた。明日の会議どうするかな。資料まだ用意できてないや。面倒くさい。飛び降りのことを考える。ただ一瞬。ほんの刹那だけ、何もない宙に浮く瞬間を感じられそうだ。その後の死を感じられるスリルがある。だけど私は痛いのは嫌だ。普通に嫌だ。だから死なない。バンジージャンプも興味無いな。安全なのが問題かもしれない。
雲の切れ間から月が顔を出した。遅いぞ。宇宙空間で何をしてた。雲とお話でもしてたのか。宇宙。そういえば宇宙遊泳とかも気に入らない。昔見たテレビ番組で、遊泳中の映像を放送していた。全く憧れなかった。仕事っぽいからかな。宇宙空間が身近にないからイメージができてないだけかもしれない。宇宙よ、私の元まで降りてこい。
でも中学生の頃に観たヒーロー映画を思い出した。マントで空を飛び回っていることで有名なヒーローが、簡単に大気圏を突き破り宇宙空間まで飛んで行ったシーンがあった。そしてそのヒーローは、マントだけを慣性で揺らしていた。本人は微動だにせず、目を瞑り、宇宙空間でしばらく何もせずにただ揺蕩っていた。
ずるい。
ほんの一瞬のシーンだ。すぐに使命を思い出し、戦いに戻る前の地味な一幕。誰の記憶にも残らないだろう。だけど私には、その一瞬が酷く羨ましかった。映画は面白くなかった。もう見ない。
だけどあの時。彼と私は、広がる地球を眺め、月に見守られ、星が輝く空間にいた。
妬ましい。私はそこに戻れない。ヒーロー業はスクリーン越しで充分だ。ぷかぷかと浮いていた私の心は、屋根に当たったシャボン玉のように弾けて消えた。そして缶コーヒーからは何も垂れなくなった。そろそろ仕事の続きでもするか。メールから片付けよう。私はフェンスを登り、安全な屋上へ降り立った。浮遊感は手放した風船のようにどこかへ飛び立っていった。今はコンクリートの感触しか感じない。
今日も空が憎い。
雲は高く、漂っていた。
お前らだけふわふわぷかぷかずるいぞ。
そうやって雲に八つ当たりをして、屋上の施錠を確認し、退屈な仕事に戻っていった。




