9 統合失調症?
「それって統合失調症の慢性期だからだろ? 若い急性期の患者は耳を貸さないって」
同期との飲み会。優が訪問時の出来事を話すと、体格の良い男性が口を挟んだ。
「うちの患者で国立大卒の統合失調症がいるんだけど。上から目線で人の話に耳を貸さないんだよね。薬も効かなくて暴れてばかりいるから、ずっと保護室を使ってさ。保護室を出ても3日以内にまた保護室行きを繰り返しているんだぜ」
統合失調症。全国の精神科病院に入院している者の半数は、統合失調症およびそのカテゴリーの疾病を患っていた。発病の原因は明らかになっておらず、脳内の神経伝達物質の機能障害、環境要因やストレスなど、さまざまな要素が絡みあっていると考えられている。
症状として、周囲に誰もいないのに人の声が聞こえるなどの幻聴。現実でないことを信じ込んでしまう妄想などがある。
野の上病院の精神科一般病棟。その保護室。
「FBI! CIA! こちら月面宙返り! ははぁ!!」
入院して20年を超える本城は、ほとんどの時間を外側から施錠された個室、通称保護室ですごしていた。
「確かに本城さんは難治だよね。常に本城さんを攻撃するような幻聴があって、ちょっとした刺激で症状が増悪してしまう。40歳すぎまで未治療だったから、回復は難しいかもしれない」
タイピングしながら優に語った碧依の言葉には、無念さがにじんでいた。
「うちらにできることは、本城さんの内面にある不安や恐怖を理解して。なにがあっても本城さんの味方でいることだと私は思ってる」
碧依はキーボードから手をはなして背伸びをした。
「まあ難治と言われている人でも。そもそも統合失調症だったかってところが、一番の闇だと思うけどね」
碧依の言葉の意味を優は理解できなかった。碧依が口を閉じてタイピングを再開したので、優は質問を止めた。
本日の初診。21歳の男性が両親とともに来院した。碧依の予診に優も同席した。
男性は小学校の低学年から学校を休みがちで、中学校には一度も登校しなかった。高校には進学せず、自宅に引きこもる生活を送っていた。
数か月前より幻聴を訴えるようになった。「いじめられる」と言って自室からほとんど出てこなくなった。碧依が男性にたずねると「小学生の時にいじめられた光景が、突然目の前に広がる」との内容をたどたどしく答えた。
「1歳半や3歳時の健診で、保健師から指摘はありましたか?」
碧依は母にたずねた。
「いいえ」
母の返事は小声だった。
「勉強は得意でしたか?」
「学校に通えていませんので、得意ではないです」
予診が終わり院長の診察。院長は診察の途中で碧依を呼んだ。
「心理検査の手配をしてください」
碧依は電話をかけた。すぐにつながった。
「心理検査をお願いしたい。WAIS-Ⅳは必須で。AQも」
「明日? 忙しければ来週でも。ああ、わかった」
電話を終えた碧依は院長に報告した。院長は男性と両親に伝えた。
「よろしければ明日、また来院してください。心理検査を行います」
診察終了後、碧依は優に伝えた。
「うちは常勤の心理士がいないから、心理検査が必要な時に外部からきてもらうんだ。都合をつけてすぐにきてくれるから、その点はありがたいけどね」
その「点」の部分を、碧依は強調した。
翌日、心理士が来院した。若い女性だった。
「碧依さん、お久しぶりです♪」
心理士は碧依の前で両手を広げた。
「空に飛び立つのか。いいぞ、行ってこい」
「なに言ってるんですか、ここはハグですよ」
翠が顔を出した。
「こんにちは、音暖ちゃん。今日も元気ね」
音暖は満面の笑みで答えた。
「当然です。碧依さんに会えましたから」
碧依は明らかに迷惑という表情をしていた。
「ところで、このかわいい女の子は?」
音暖は優を指差した。
「坂元です。その、男性です」
「碧依と同じ精神保健福祉士だよ」
翠が音暖に教えた。
「ええっ、本当に? 碧依さんの後輩、部下?」
音暖は碧依と優を交互に見た。音暖は両手で顔を覆って、指のすき間から優に視線を向けた。
「いいなあ。碧依さんの綺麗な肌、透き通った瞳。すらりと伸びた長い手足を見放題なんて。もしかしたら胸元が見えるチャンスがあるかも。やいちゃうわ。かわいいけど許さない♪」
あぜんとする優。碧依は小声で伝えた。
「大丈夫。いかれているけど腕は確かだから」
男性と両親が来院した。心理士の泉音暖は、男性の心理検査を実施した。1時間半ほどで検査は終了した。
「どうだった?」
男性と両親が病院をあとにしてから、碧依は音暖にたずねた。
「碧依さんや先生の見立てどおりでしょうね」
にこりと笑った音暖に、碧依はうなずいた。
翌週、検査結果をまとめた音暖が来院した。男性と両親が来院して、検査結果の説明が行われた。
IQは56。処理速度の弱さ、検査項目のばらつきが目立った。各種心理検査の結果および生活歴、現在の症状から導き出された診断は「自閉症スペクトラム障害および軽度知的障害」だった。
母は流涙した。父が母をなぐさめた。
「生まれつきの障害を認めたくないお気持ちは、お子さまを愛しているからです。ご両親に非はありません」
院長の続く説明は、主に父と男性本人が聞いていた。
診察室の外で、碧依は優に教えた。
「自閉症の傾向が強いと、感覚の過敏性から幻聴に発展しやすくてね。それに過去の不快な体験を映像として浮かべるのも、自閉症の特徴を持つ人には見られることなんだ」
優はメモをとりながら話を聞いた。
「自閉症以外でも、たとえば自我境界が脆弱な人格障害に苦しんでいる人は、統合失調症の幻覚妄想に極めて近い症状を呈することがあるから。それも頭に入れたほうが良いかな」
一方の診察室。院長は慎重に薬物を選択した。
「ごく少量ですが、気分が悪くなるなどの副反応が出たらご連絡ください」
院長はその他に、聴覚の過敏性への対処としてイヤーマフの使用などを説明した。
診察が終わって夕方。この日にすべき書類業務を終えた碧依は優に語った。
「院長は統合失調症と診断された人たちの中に、発達障害や知的障害の人たちがふくまれていることに1980年代から気づいていたんだ。難治という以前に診断が違うことにね」
「高学歴の人たちは自閉症の傾向を持つ割合が高いことは、今は広く知られているけど。当時はそんな考えがなかったから。幻覚妄想があったら、ほぼ一律に統合失調症と診断されていたそうだよ」
優は碧依にたずねた。
「間違った診断で治療をしたら、どうなるんですか?」
碧依は答えた。
「効かないからって薬を増やして、最大量に近い薬を投与され続けていたら。人格を壊すよ」
優は目を見開いた。碧依は続けた。
「抗精神病薬は劇薬だからね。的外れな投薬は一生ものの幻覚と妄想を固着させて、人格水準を低下させてしまう」
碧依は硬い表情を少しゆるめて、優と目を合わせた。
「だからと言って、統合失調症を患っている人への薬物治療は有効だからね。昔と比べて薬剤の選択肢が増えたおかげで、作用と副作用をコントロールしやすくなって。家庭での生活をじゅうぶんに送れる人が増えてきたのは、まぎれもない事実だから」
優は碧依にうなずいた。うなずいた頭を上げずに優は固まった。間を置いて顔を上げた優は、碧依にたずねた。
「今の精神科は、間違った治療はしていないのでしょうか?」
碧依は答えた。
「わからない。精神科の医療は科学的に証明できない部分も多いから。今の標準的な治療が適切かどうかは、未来にならないとわからない」
「昔、脳の一部を切除することで興奮をおさえるロボトミー手術というのがあって。今ではありえないけれど、できた当時は画期的と言われて。ノーベル賞を受賞しているからね」
さえない表情の優に碧依は続けた。
「でも、間違いのないものもあるよ」
碧依は優に穏やかな表情を向けた。
「ひとつは坂元君が言ったように、自分たちがやっていることへの疑問を持つこと」
はじめて優は「アンタ」以外の呼ばれ方をされた。碧依は自身の胸元に手をおいた。
「それと、病気を患った人の不安をわかろうとする、心を持つこと」
保護室を頻用する患者のことを語った同期の男性。
その人は、本当に統合失調症ですか?
その人の不安、わかろうとしていますか?