8 精神科訪問看護
休日明けの月曜日。碧依から優に伝えられた業務は、訪問看護の同行だった。
「この間、うちの病院は入院が少ないって言ってただろう? その理由の一端が見えるはずだから」
優は碧依に深々と礼をして、訪問スタッフのもとへ向かった。
「うまく距離をとったわね」
翠は碧依に言った。
「以前から考えていたことだよ」
「へえ」
「なんだよ。その、へえは?」
訪問看護のスタッフは、にこにこと笑う60代の男性看護師1名だった。訪問に使う軽自動車の助手席に優は乗った。
「精神科の訪問看護は、在宅で暮らす利用者さんを医療の目線でサポートするって目的だけど。利用者さんそれぞれに訪問看護の意味は違うんだよ」
到着した古びたアパート。その1室に一人で住む清水という58歳の男性が、本日一人目の対象者だった。
「ごはん食べてる?」
畳敷きの室内で、看護師は清水に聞いた。
「朝と夕の薬にあわせて、2回は食べてますよ」
買い置きのカップ麺と、ゴミ袋に入っている「からあげサン」の空袋が、日頃の食生活を物語っていた。
「しっかり寝てる?」
「6時間は寝てます」
座卓の上にはノートパソコンが置かれていた。ネットサーフィンが趣味で、清水の生活リズムは乱れがちだった。
「それでも生きているからね」
看護師が優に言うと、清水は笑った。
「君は新人さん?」
「はい、坂元と言います」
清水は穏やかな笑みを見せて、優に語った。
「自分は統合失調症にかかって、若い頃から入退院を繰り返していたんだ。このアパートに住む前は、10年くらい野の上病院に入院していたんだよ」
優は清水にたずねた。
「退院されたのは、なにかきっかけがあったのですか?」
優が大学時代に学んだ長期入院患者の退院支援。精神保健福祉士があらゆる面で手助けをして退院に導いていた。清水は答えた。
「同じ病室の人に、前と比べて落ち着いたねって言われたのが、ひとつきっかけかな」
「年をとってくると、若い頃より激しい症状が目立たなくなるよね」
清水の返事に看護師がつけ足した。清水はうなずきを見せてから続けた。
「それから春日さん。以前同じ病棟に入院していた人なんだけど、時々面会にきてくれて。年上だけどパソコンを使えて。いいなあって思って。自分もやりたいと思って。それを春日さんに話したら、春日さんも住んでるこのアパートが空いてるって教えてくれたんだ。インターネットも無料で使えるって」
「大家さんが理解のある人だから、話が早かったよね」
看護師の言葉に、清水はにこりと笑った。
「春日さんの日頃の行いでしょうね。それに春日さんが入居した時に、保証人になってくれる団体を使っていたから。自分も保証人になってくれる人がいなくて。その団体を通せば良いって大家さんが教えてくれたのは、ありがたかったですね」
優の予測とは異なる話だった。しかし、とても興味深かった。
「退院してすぐの頃は一人暮らしに慣れなかったけど。春日さんとか、もちろん訪問さんもですけど。常盤君も家にきてくれたから、なんとかなりましたね」
語っていた清水は、思い出したような表情をした。
「これから常盤君のところにも行きますよね? 自分と春日さん。あと平川さんも、常盤君のところに顔を出そうかなと思っていて」
「調子が悪いの?」
看護師が聞いた。清水はうなずいた。
「ちょっと怪しいです。早めが良いんじゃないかって、みんなで話していたところです」
玄関のドアがノックされた。清水がドアを開くと太ったおじさんが立っていた。おじさんは看護師に声をかけた。
「すみません、訪問看護の途中で」
「良いですよ。ちょうど常盤さんのことを聞いたところです」
優はおじさんに頭を下げて「はじめまして、坂元です」とあいさつをした。おじさんも頭を下げて「こちらこそはじめまして。春日です」とあいさつをした。
春日はみんなに言った。
「平川さんと合流して、常盤君の家に行きましょう」
徒歩で5分、別のアパートに移動した。部屋から出てきたメガネをかけた細身の男性、平川と合流した。そこからさらに徒歩3分、常盤のアパートに到着した。
春日が玄関のドアをノックした。
「常盤君、いますか?」
しばらくするとドアが開いた。40代くらいの男性で、髪はボサボサだった。
「え? みんなそろって」
計5名の団体を見て、常盤は不思議そうにした。それから察した表情に変わった。
「マジっすか。オレそんなに調子悪いですか?」
玄関から見える室内は散らかり、コバエが玄関まで飛んできた。
「絶好調って言いまくってる時点で、あやしいかな」
清水が常盤に言った。常盤は頭を抱えた。
「うわあ。いやだな入院。むっちゃ久しぶりですよ」
「面会に行きますから」
春日の言葉にあわせて平川がうなずきを見せた。
「もしもし、ベッド空いてますか?」
看護師が野の上病院に電話をかけた。電話を終えた看護師はみんなに伝えた。
「昼の2時に来院ってことでした」
うなだれる常盤の肩に平川が手を置いた。春日は「おじゃまします」と言って室内に入った。みんなもあとに続いた。
「ゴミ収集は昼からですよね。生ゴミを出しておきましょう」
「冷蔵庫のもの。これは捨てておこう」
「着替えは普段着と、下着5枚くらい。あとタオルも」
「持っていくコップは、プラスチック製ですよね?」
みんなで掃除と入院の準備をした。
「2時にみんなで病院に行きます。院長先生によろしくお伝えください」
春日たちは優と看護師を見送った。
帰りの車内で、看護師は優に言った。
「病院のスタッフにできることなんて、本当に限られているよね。友だちと比べたら」
優は実感をこめてうなずいた。
「思いがけず、入院だったな」
帰院した優に、碧依は苦笑いを見せた。優は碧依に伝えた。
「入院が少ない理由は、とても理解できました」
碧依は苦笑いの苦味を消して、うなずきを見せた。
午後2時。友人たちに連れられて常盤が来院した。
「先輩方に入院したほうが良いって言われたら、しょうがないっすよ」
診察時、常盤は院長に語った。優にとってはじめての入院手続きに碧依が同席した。入院費の保証書などを書くのは常盤自身だった。
「安心してアパート生活が再開できるように、応援しています」
そう伝えた優に常盤が笑顔で答えた。
「ありがとう。こんなにかわいい子がいるんだったら、入院も悪くないね」
優は固まった。碧依は申し訳なさそうにして常盤に伝えた。
「すみません、彼は男です」
常盤は明らかにショックを受けていた。
「常盤君、独語がはじまりましたね」
「入院治療が始まりますから、大丈夫でしょう」
清水と春日は、常盤を見つめながら言葉を交わした。
「平川さん。三次元は恐ろしいっす」
常盤は平川に泣きついた。
「大丈夫だよ常盤君。二次元は我々を裏切らない」
病棟に案内される常盤。見送る春日たちと優。そして優の背中に視線を向ける碧依がいた。
「どうしたの、碧依?」
翠が碧依に聞いた。
「いや。見た目への反応をいちいち気にしていたら、身が持たないだろうなと思って」
「へえ」
「だからなんだよ。その、へえは」
後日。優は常盤に、訪問看護についてどう思っているかをたずねてみた。
「週に1回、同じ時間にきてくれるから。掃除をしておいたり、その時間にあわせて起きたり。1週間の区切りだね」