6 経験値不足
4月末。大学のゼミの同期生たちが居酒屋に集まった。
「うちの病院って精神保健福祉士が20人いるんだけど。全然足りなくてさ。オレ急性期病棟の担当になったけど、入職して3日目で入院対応をさせられたんだぜ」
地域で一番大きな精神科病院に就職した大柄な男性がみんなに語った。入院を1日3件こなした日もあったと言った。
「優はどんな仕事をしてんの?」
大柄な男性が優に聞いた。
「ええと。おじいさんやおばあさんと歩いたり。話をしたり」
「のんびりしているな。お前っぽいね」
大柄な男性は笑った。優はつけくわえた。
「病院の方針で拘束をしないようにしているから。そのためにも関わることが大事で」
「拘束しないって、激しい患者がいないだけじゃないの?」
細身の男性が口を挟んだ。症状が激しく興奮する若い患者の対応を男性は語った。
「加減を知らないから力が強くて。ほら、ここに傷跡」
みんなは男性の腕をのぞき込んだ。仕事の体験談で盛り上がるみんなの話を、優はただ聞いていた。
飲み会が終わった。帰路についた優は同期の女性に声をかけられた。彼女は病院ではなく、地域の相談支援センターに勤めていた。
「坂元君は利用者さんと、どんな話をするの?」
「ええと。ご家族のこととか、仕事のこととか。若い頃のこととか」
いろいろと思い浮かぶ話が、とりとめがないように優は感じた。うつむき気味の優に女性は感心した表情を向けた。
「すごいね、坂元君って。利用者さんのことをいっぱい知ってる。私は年配の利用者さんに怒られてばかりでね。きっと私は寄り添えていないの。利用者さんの大切な人生に」
優は首を横に振った。
「そんなことないと思うよ。寄り添おうとするから、怒られたりすると言うか。それでも自分が寄り添えていないと思うって、すごいと言うか……」
酒は一滴も飲んでいなかったのに、優は言いたいことをうまくまとめられなかった。優は「ごめんなさい」を口にした。すると女性はくすりと笑った。
「ありがとう、坂元君。坂元君の優しさは、じゅうぶん伝わったよ」
優は女性に頭を下げた。
「こちらこそありがとう。僕のことをほめてくれて」
女性は優に微笑んだ。
「で、そのあとは?」
野の上病院の事務所内。翠が優にたずねた。
「あ、はい。バス停まで送りました」
そこに碧依がやってきた。
「なにをしてるんだ、お前らは?」
「優君のロマンスの確認」
「バカかお前は」
翠は再び優に聞いた。
「でさ、優君。パワハラやセクハラで訴えないって約束してもらった上で、答えてほしいんだけど」
「はい」
「彼女いる?」
「いません」
「彼女いた?」
「いいえ」
「彼氏は?」
碧依は翠の後頭部を殴った。
「ここ重要だから」
翠の言葉に事務所の奥で芙美がうなずいた。
「いいえ」
「アンタも答えなくていいから」
翠はほおに手を添えた。
「ならあれだ。優君は魔法使いになりたいんだね」
「言っている意味が、よくわからないのですが」
「意味がわからないなら、見せたいドラマがあるのよ」
翠は私物のバッグからブルーレイを取り出そうとした。
「妙な勧誘をするな」
碧依は翠の頭をぐりぐりした。二人の様子を眺めていた優は口を開いた。
「お二人は仲が良いですね」
「これを見て、どうしてそんな言葉が出てくる?」
碧依は優にあきれた表情を向けた。翠が優に答えた。
「私たちは中学まで同級生なの。高校は違うけどね。碧依は鶴角高校だから」
県下一の進学校だった。碧依の頭の良さを優は納得した。
「だから優君。これからは碧依のことを大賢者として崇めてあげてね。魔法使いとはレベルが違うのよ」
優にはよくわからなかったが、翠は碧依に襟元をひっぱられて連れて行かれた。
「伊敷さんはいるかな?」
院長が事務所に顔を出した。希里子もついてきた。
「今、席をはずしています」
社会人っぽい返答ができたと優は思った。
「なら伝言を」
そこまで言って院長は静止した。希里子が笑顔で院長の後頭部をチョップした。
「私は河原で石を積んで……」
「いろいろ間違っていますわ、おじいさま」
院長はあらためて優に伝えた。
「午後の入院希望の方の予診(※診察前に症状や病歴などを聞くこと)を、伊敷さんにお願いするね」
院長は診療情報提供書を優に渡した。
入院。機会がやってきたと優は思った。はじめての入院対応。戻ってきた碧依に優は伝えた。
「ああ予診ね。同席するか?」
優は力強くうなずいた。一方で診療情報提供書を開き見た碧依のテンションは低かった。
「どうかされましたか?」
優の問いに碧依はつぶやくように答えた。
「通院していたクリニックも、紹介元の内科も、ヤブ医者なんだよね」
午後、車いすに乗った66歳の女性とその夫が来院した。
昨年末からうつ症状が目立ちはじめ、市内の精神科クリニックへの通院を開始した。食事量が減少して身体的な不調も出てきたため、内科の病院に入院した。入院中も食事が入らず、クリニックで診断された「うつ病」の悪化が考えられるとのことで、野の上病院に転院の打診があった。
「お待たせしました」
待合室の隅にいた女性と夫に、碧依が声をかけた。碧依の口調は、優がはじめて会った時と同じあたたかさがあった。
「私は相談員の伊敷と申します」
「同じく相談員の坂元です」
伊敷は女性に穏やかな表情を向けた。
「医師の診察の前に、20分ほどお話をうかがいます。お話しいただいた内容は診療にいかすために、医師と共有させていただきます。ご本人の同意なしに個人情報を外部に漏らすことはありませんので、ご安心ください」
優は碧依の余裕を感じた。女性は言葉のかわりに小さくうなずき、夫はどこか安心したような表情を見せた。
女性が来院する前、優は事務所で予診について予習をしていた。
「本人と同伴者がなにに困っているか。いつ症状がはじまって、だれの意思で病院を受診したか。どのような治療を受けてきたか。成育歴は生まれた時から聞く。家族歴。アレルギー。飲酒と喫煙と……」
碧依はひょいと、優から予習の書面を取り上げた。
「知識を詰め込もうとすると、アンタ自身の余裕をなくすよ」
硬直した優に、碧依は続けた。
「人間はね、話を聞こうとする人に話をするんだ。大切なのは聞く構え。いっぱいになっているアンタの心の器を、少しでも空けるイメージ、かな?」
予診は診察室のとなりにある相談室で行われた。碧依の質問に答えたのは夫だった。
「もともと少食でしたが。今回のようにまったく食べないのは、はじめてです」
夫の心配は優にも伝わった。
碧依は夫が答えるたびに、女性に視線を向けた。夫の返答が正しいかを確認し、女性が不安そうな顔を見せると微笑んで見せた。
同時に碧依の目は、女性の浅くて早い呼吸と、左手の小刻みな震えをとらえていた。
「失礼します」
碧依は優しく女性の手に触れた。
「手、冷たくなっていますね。私の手、握り返せますか?」
女性はぎこちなく手を握り返した。
「ありがとうございます」
微笑む碧依に、女性は小さな笑みを返した。
「多くの人は不安や恐れを抱えて病院を受診している。病気への恐れはもちろん、今後の生活への影響とか、いろいろ想像するからね」
「だから不安で恐れている感情に目を向けることが、予診の一番の役割。情報収集は二の次だから」
予診の前に、碧依が優に伝えた言葉だった。
予診が終わり、碧依は院長に報告をした。
「神経内科のドクターに診てもらいたいと思いました」
院長はにこりと笑った。
院長の診察がはじまった。女性の身体状態を入念に確認した院長は、診療情報提供書を作成した。宛先は神経内科だった。碧依は神経内科を有する病院に電話をかけた。本日の受診可能との返事を得た。
「院長の紹介なら、どこも断らないからね」
そう言った碧依に優はたずねた。
「どうしてですか?」
碧依は優に顔を向けず、笑みを浮かべて答えた。
「信用ってやつ」
女性は紹介先の病院を受診して、即日入院となった。野の上病院にFAXで送られてきた神経内科の診療情報提供書には、「パーキンソン病」と記されていた。
「パーキンソン病は手がふるえるとか、体を動かしづらくなる病気だと学びました」
優に碧依はうなずいた。
「パーキンソン病は神経伝達物質の減少が関連しているから、抑うつ症状が出やすくなる。それと手足の症状はわかりやすいけど、呼吸器とか嚥下機能とか、一見わかりづらい内部の異常もある」
優はメモ帳を取り出した。優のメモが終わってから碧依は続けた。
「あの女性はパーキンソン病の影響を受けた抑うつと、呼吸器、嚥下機能の低下が問題だから。治療すべきはパーキンソン病で、専門はうちじゃなくて神経内科ってこと」
碧依は「ここから先はメモ不要」と告げた。
「まあ最初の医者がうつ病ってつけちゃったから、入院先の内科はそう思ったのかもしれないけど。入院しているのに静止時振戦に気づかないのは、内科のスタッフが女性に関われていたか疑問に思うところ。うちの看護師ならすぐに気づくと思うからね」
優は押し黙っていた。碧依は優に聞いた。
「入院にならなくて残念だった?」
優は首を横に振った。
「教科書にも、体の病気をまず検査して。その上で精神科にかかるほうが良いと書かれていたので。こういうことだと思いました」
優は続けた。
「それに、なによりも。あの方々を助けられたので良かったです」
碧依は優にうなずきを見せた。碧依は話題を切り上げて書類仕事をはじめた。リズミカルなタイピングの音が優の耳に届いた。
経験や知識、能力もふくめて。碧依との差はわかっているつもりだった。しかし実際にその差を目のあたりにすると、優は自分の未熟さを痛いほど感じた。
「自分は仕事を。できるように、なれるでしょうか」
つぶやきに近い優の言葉を碧依はひろった。
「どうしたんだ、急に?」
優は間を置いてから答えた。
「自分は今、自信がないです。大学の同期のみんなと比べても、経験が足りないみたいで」
優は碧依に飲み会での話題を語った。
入院対応の経験がない。
「入院が少ないのは、外来の方々の病状が安定している証拠だよ。入院するほど苦しんでいる人が少ないのは良いことでしょ?」
症状が激しい患者の対応をしたことがない。
「激しい症状とご本人のつらさは比例しているからね。つらい思いをしている人が少ないのは幸せなことだよ」
ひとつ息を吐いてから碧依は言った。
「若いうちはアピールしたくなるからね。自分がどれだけ大変なことや難しいことをしているとか。どれだけできているとか。でも他人の不幸を肥やしにするのは違うね」
自分に言い聞かせるようにしてうなずいた優に、碧依は続けた。
「まあ自信がないのは当然だよ。入職して1か月で自信を持たれたら逆に心配だし。それより私はアンタの言葉に安心したよ。助けられて良かったって言ったから」
優は碧依に顔を向けた。碧依はタイピングを再開してから口を開いた。
「アンタが毎日病棟に行って、みなさんと関わって。その関わりが私たちの仕事にとって一番大切な経験値だよ。関わって、相手のことを知って。相手を想う気持ちを育めば、この仕事をできるようになっていくよ」
ありがたい言葉だった。優の「ありがとうございます」は自然と口をついた。碧依は反応を返さずに、タイピングを続けた。
碧依にかわって、翠が優に続けた。
「相手を想う気持ちはもちろんだけど、アピールも大切だからね。若いうちのアピールが足りないと、碧依みたいな大賢者になるのよ」
碧依はタイピングの手を止めて、翠の襟元をつかんでどこかに引きずって行った。