5 幸せとリスク
「お弁当持った? 忘れ物ない?」
出勤前、優は結衣から何度も念を押された。
「初日からスーツを汚して。お兄ちゃん大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、気をつけるから」
通勤は私服で良いとのことで、今日はおとなしめの私服を着た。そもそも優は派手な私服を持っていなかった。
「大丈夫よ、結衣。心配しなくて」
結衣と同じくらい小柄な母が言った。
「根拠は?」
「ないわよ」
母は笑った。
「父さんも大丈夫だと思うよ。根拠はないけどね」
優と同じくらい小柄な父が笑った。ため息をついてから、結衣は優を送り出した。
「ほんっとうに気をつけてね!」
優は今日も認知症治療病棟に向かった。病棟内の広々とした空間、デイルームと呼ばれる場所の椅子に腰かけて、魚見と話をした。
「息子がいてね。およめさんにどうだい?」
「ごめんなさい。自分は男です」
「本当に?」
優たちのもとにおばあさん、星ヶ峯がやってきた。
「ご一緒してよろしいかしら?」
星ヶ峯をまじえた3人で、優は会話を続けた。
星ヶ峯はスタッフや入院している人たちによく声をかけてきた。星ヶ峯は自分のことはしゃべらずに人の話を聞いてばかりいた。星ヶ峯に話をふると、星ヶ峯は「私は先週入院したのよ」と答えた。本当は1年以上前に入院していた。
確かに物忘れは目立っていた。だからと言って、ずっと入院している必要があるのか。優にはわからなかった。星ヶ峯はもちろん魚見も物忘れがあるだけで、性格は穏やかで体調も良さそうだった。カルテなどの情報を見ると、収入面も問題なさそうに思えた。
昼食をとりながら、優は五ケ別府とその話をした。
「お二人ともトイレじゃない場所でおしっこしたり。他の人の病室に入ったりはあるみたいですけど。なんで入院を続けているのか、自分も不思議に思うっす」
午後。碧依は事務所で書類を作成していた。遠慮する優に碧依は一目向けて口を開いた。
「聞きたいことがあるんだろ? 良いよ、聞いて」
優は疑問を語った。魚見と星ヶ峯が長く入院している理由がわからない。碧依はキーボードを打つ手を動かしながら、優にたずねた。
「魚見さんの家族構成は?」
優は答えた。
「妻の直子さんを8年前に亡くしてから一人暮らしです。長男の福也さんは神奈川県に住んでいますが、次男の颯一郎さんは市内に住んでいます。車で20分ほどの場所です」
「次男さんと同居できる可能性は?」
「ええと。颯一郎さんは夫婦共働きで、子供が3人いて。一番小さい子は小学3年生か4年生と記録に書かれていましたが。わかりません」
碧依は作業を続けながら答えた。
「入院の時、次男さん泣いていたんだよ。面倒をみれなくて申しわけないって」
タイピングの音だけが聞こえた。碧依は続けた。
「家で放尿したり。昼夜問わず外に出て行ったり。魚見さんのお金を管理していた次男さんの妻は泥棒呼ばわりされてね」
碧依はタイピングの手を止めた。
「いわゆる認知症の症状、物盗られ妄想があって。魚見さんが悪いわけではないけど。次男さんも、ご家族もきつかったと思うよ」
優は口を開けずにいた。
「星ヶ峯さんの長女さんは、病気の症状でも泥棒呼ばわりを許す気はないと言ってた。世間はほとんど核家族で、家族の負担はかなり大きくて。そもそも家族みんなが仲良しなわけでもないし。無理をして家族で親をみるのは、みんなを傷つけるだけだと私は思ってる」
優は口を開いた。
「お二人とも、施設に入所されるのですか?」
碧依は軽くうなずいてから優にたずねた。
「魚見さんたちの収入は?」
優は迷いなく答えた。
「魚見さんは月25万円の老齢厚生年金。星ヶ峯さんは月21万円の遺族厚生年金となっていました」
碧依はプリントアウトした書類を整理しながら優に言った。
「収入面は問題ないから、グループホームを申し込んでいるけど。お二人とも1年近く空くのを待っている状態でね」
優は聞いた。
「高齢者住宅の看板を通勤途中にいっぱい見ます。どこも待ちが長いのですか?」
碧依はしばらく間を置いてから答えた。
「他人の部屋に入ってしまう。いたるところに放尿してしまう。歩ける認知症の方々をみてくれる施設は少なくてね。施設は他の入居者とのトラブルを避けたいからね」
「それと転倒、骨折も訴訟リスクがあるから施設は神経質になっている。ご高齢の方は身体機能が落ちているから、ただでさえ転倒しやすいけど。認知症を患っていると注意障害とかもあるから、さらに転倒リスクが高くなる」
碧依のまなざしはどこか達観していた。
「歩けないほうが、動けなくなったほうが。受け入れ先が多いのが現実だよ」
優の視線は床に落ちた。碧依は優に伝えた。
「アンタが今できることは病棟に行くこと。魚見さんたちに関わること。魚見さんたちは今も人生を歩んでいるからね」
優は病棟に行った。魚見たちと語り合った。午後3時のお茶の時間になり、看護師に呼ばれた魚見と星ヶ峯は会話の場を離れた。
「どうしたんだい?」
場にとどまっていた優に声をかけたのは荒田だった。優は目をうるませていた。優は碧依から聞いた話を口にした。そして思いを語った。
「動けなくなったほうが受け入れ先があるって。それが悲しくて」
荒田はうなずきを見せてから口を開いた。
「カルテに挟んでいる同意書、見たかい?」
看護ステーションで、荒田は優に魚見のカルテを開き見せた。「拘束を行わない旨の家族の同意書」が挟んであった。
「歩くことで転倒のリスクがある。それでも歩くことをスタッフは止めない。ご本人の自由、幸せのためにね。うちの病院では、この同意がとれなければ入院を断っているんだ」
優は荒田に視線を向けた。
「でも実際のところ、他の精神科病院のほとんどは拘束している。精神科は精神保健指定医の指示があれば拘束が許されるからね。それどころか固定という名目で、精神保健指定医の指示なしに、ご本人が外せないベルトを使って車椅子から立ち上がれないようにしている病院もある。これが現実で良いのかなと思うよね」
荒田は優に視線を向けた。優も弱い瞳を荒田に向けた。二人の目が合った。
「拘束をしない!! 自分がこの病院に入職した理由っす!」
五ケ別府が元気よく二人の間に割って入ってきた。
「お年寄りには健康、筋肉が大事っす!」
「そう、筋肉大事!!」
声の先、看護ステーションの入り口に男性職員が立っていた。ノースリーブの日焼けしたマッチョだった。
「俺は作業療法士。当院は筋トレ器具を県下一にそろえて、ボディビルディングにも対応している」
作業療法士は親指を立てた。
「しかも業務時間外の器具の利用をスタッフに許可している」
「本当っすか? すごいっすね!」
「君もどうだい? 筋トレ同好会。現在会員俺1名!」
「自分も入って2名っす! 坂元先輩もどうっすか?」
「いえ、僕は……」
盛り上がる作業療法士と五ケ別府。巻き込まれた優。彼らの姿を荒田は眺める他になかった。
数日後の昼すぎ。この日も優は魚見たちと語っていた。
「あら、魚見さん?」
星ヶ峯の言葉で優は気づいた。魚見のズボンが濡れていた。魚見は失禁していた。魚見も気づいて戸惑いを見せた。優は失禁時の対応を知らなかった。
「看護師さんを呼んできます」
優は席を立って看護ステーションに向かった。看護ステーションに荒田の姿があった。
「荒田さん、すみません」
その時、優の背後でガタンと音がした。「きゃあ!」と声を上げたのは星ヶ峯だった。優は振りかえった。魚見が床に倒れていた。
「大丈夫ですか!?」
荒田は急いで魚見のもとに向かった。優も他のスタッフたちと向かった。
「いたたた」
魚見は足の付け根を押さえて汗を流していた。スタッフたちの介助を受けて、魚見はストレッチャー(※車輪のついた担架)に乗せられた。
魚見は院内のレントゲン室に運ばれた。
「頸部かなあ」
X線画像を見ながら院長がつぶやいた。
「頸部ですね」
希里子が続いた。
院長の指示で病棟の看護師が次男に電話をかけた。一方で碧依は総合病院の整形外科に連絡を入れた。
「左大腿骨頸部骨折の疑いです。診療情報提供書(※別の病院に患者を紹介する際に用いる、診療情報を記載した書類。いわゆる紹介状)をFAXします」
「家族には連絡済みです。家族同伴で貴院に向かえます」
30分後、次男が野の上病院に到着した。診察室で院長は、魚見の状態を次男に説明した。説明を終えたところで碧依が診察室に顔を出した。
「今から受診して良いとのことです。救急窓口で、車両は当院の搬送車を使います。ご家族はご家族の車で向かってください」
次男は「わかりました」のあとに、「ありがとうございます」を続けた。
「いたい、いたい」
ストレッチャーに乗る魚見は何度となく口にした。付き添う五ケ別府は泣いていた。優も泣いていた。
「父さん、大丈夫?」
次男が魚見に声をかけた。優は涙声のまま次男に言った。
「魚見さんは自分とお話をしていました。でも自分が席を立って、そのあとに魚見さんが転んでしまって」
優に続いて話したのは、魚見の受診に同行する荒田だった。
「魚見さんが失禁されたので、新人の彼は看護師を呼びに行ったんです」
優はまた口を開いた。
「自分が介助の方法を、対応を知っていれば。転ぶことはありませんでした」
荒田と五ケ別府は首を横に振った。次男は優に頭を下げた。
「ありがとうございます。父に関わっていただいて。好きなだけ歩いて、転んだんですから。父は幸せです」
優は搬送車の出発を見送った。
左大腿骨頸部骨折で総合病院に入院。明後日に手術予定。荒田からの連絡を受けた碧依は院長に報告をした。
あわせて碧依は院長に書面を示した。
「県への事故報告書。内容はこれで良いですか?」
目を通した院長は碧依にうなずいた。
「事故……」
居合わせた優から言葉が漏れた。碧依は優に目を向けず言葉を口にした。
「手術を要する怪我をした場合、医療事故として県に報告する義務がある」
碧依は淡々と続けた。
「一方で転倒を防ぐために拘束を続けて。筋力が落ちて寝たきりになっても。怪我をしたわけではないから無事故。県への報告義務はない」
優は想いを口にした。
「骨折するのは不幸せです。でも、拘束されるほうが幸せとは思えません」
碧依は返事をしなかった。院長はにこりと微笑んだ。
終業時刻の午後5時30分。優も帰り支度を終えた。
「60点」
優は声の方向に目を向けた。碧依は事務所の出入り口にいた。
「今日の想いを忘れずに持ち続けて、深められたら。100点に近づくから」
言葉がうまく出てこず、優は碧依に頭を下げた。
魚見の手術は成功した。しかし物忘れなどのためにリハビリがうまくできず、結局立ち上がるまでにはいたらなかった。車いすで退院した魚見は有料老人ホームに入居した。
「笑顔を見せてくれるんです。幸せそうですよ」
次男から電話があり、優は少し救われた気がした。