4 初出勤日、午後
食堂で、優の箸はすすまなかった。優は落ち込んでいた。
荒田が優を見つけた。荒田は優に声をかけようとした。その前に、五ケ別府が優に声をかけた。
「同期として、いっしょにお昼をよろしいでしょうか!!」
「あ、もちろんです」
ソーシャルディスタンスで、ひとテーブル二人までだった。
「あらためてよろしくお願いします、坂元先輩」
五ケ別府は深々と頭を下げた。
「先輩はいらないです、五ケ別府さん」
「いいえ、先輩っす。自分は高校を出たばかりっす」
失礼とわかりつつ、優はおどろきの表情を漏らしてしまった。
五ケ別府は運動会の家族分レベルの二段弁当を取り出して、「いただきます」を口にした。優が小ぶりの弁当を半分食べきらないうちに、五ケ別府は「ごちそうさま」を二段弁当に告げた。
五ケ別府は優にたずねた。
「先輩はどうして精神保健福祉士を目指されたんすか?」
急にたずねられた気がして、優は即答できなかった。ただ質問の意味を理解すると、答える前にため息が出てしまった。
「みんなに頼られる人を目指したんだけど……」
五ケ別府は不思議そうな顔をした。優は五ケ別府に質問を返した。
「五ケ別府さんこそ、どうして看護師さんになったの?」
五ケ別府は満面の笑みで答えた。
「子供の頃からの憧れっす」
五ケ別府が幼い頃の話。市内の病院に祖母が入院していた。ある日、その病院で火災が発生した。
「患者さま3名と看護婦1名が取り残されています!!」
屋外に避難してきた病院スタッフが、すすにまみれた顔で叫んだ。しかし消防隊は炎の勢いを前にして、建物に進入できなかった。
「おばあちゃん!」
幼い五ケ別府が炎に向かって叫んだ。大人たちは口を閉ざして現場を見つめるだけだった。
その時、炎の中から大きな人影が飛び出してきた。
「あれは……っ!?」
みんなは息をのんだ。マッチョな看護婦が、お年寄り3人を抱えて脱出してきた。3人を抱えたまま、仁王立ちの看護婦は力強く叫んだ。
「救助完了!!」
「自分もあんな看護婦さんになりたいと思って。ずっと鍛えてきたっす」
なにか違う気がしつつ、すごいのは確かだと優は思った。
「先輩は頼られる人を目指したいって、どうして思ったんすか?」
優はぽつり、ぽつりと答えた。
「僕は体が小さくて、力もなくて。今まで人に助けてもらってばかりだったんだ。高校までは仲の良い友だちが助けてくれて。大学に入ってからもいろいろと。バイトの時でもお客さんが高いところの本をとってくれたり。今朝も伊敷さんに助けてもらって」
「すごいっすよ先輩」
五ケ別府は感心した表情を見せた。
「なにがすごいの?」
優はたずねた。
「そんなに助けてもらえるって、才能っすよ」
「そうかな?」
「そうっす。人を助けるには清い心が必要っす。先輩は人の心を清くしてるっす」
「どうした、翠、芙美?」
碧依がたずねた。
「いや。急に自分が汚れた人間に思えて」
「私もです……」
碧依は冷たい口調で言った。
「ああ、知ってるよ」
正直すごいなんて思えなかった。ただそう言ってくれる気持ちがありがたく、優は「ありがとう」を五ケ別府に伝えた。優は話を続けた。
「でも、うまくいかなくて。さっきも伊敷さんに0点って言われて。何度も名前を聞いてくるおじいさんのことを伝えた時に」
「魚見さんのことっすね」
五ケ別府は言った。言われた優は気づいた。
「本当だ……。僕は、0点だ」
五ケ別府は理解できていない顔をした。優は自分に言い聞かせるように続けた。
「名前も聞かずに認知症なんて。僕がおじいさん、魚見さんの立場だったら。絶対に悲しい」
優の目がうるんできた。五ケ別府は口を開いた。
「やっぱり先輩はすごいっすよ。会ったばかりの人のことで泣けるなんて」
「いや、僕自身が情けないと思っただけだから」
「いいえ先輩。感動っす」
二人で泣きはじめた。
「新人さんたちに声をかけようと思ったけど」
「あれはかけられないねえ」
そう話す年配のスタッフたちの後ろで、残念そうにする荒田がいた。
午後、優は再び認知症治療病棟に向かった。病棟に入ると廊下の向こうから、あのおじいさんがやってきた。おじいさんは優にたずねた。
「名前はなんていうの?」
背の高いおじいさんは、小さい優にはやはり威圧感があった。
「坂元、優です」
小声になった。優は勇気を意識して、おじいさんの顔を見上げた。優はおじいさんにたずねた。
「あなたのお名前は、なんですか?」
おじいさんは、にこりと笑った。
「魚見だよ」
優もつられて笑みをこぼした。
優は魚見とともに廊下を歩いた。歩きながら言葉を交わす彼らを眺める五ケ別府。そして荒田がいた。
「やっぱり感動っすよ、先輩」
五ケ別府の目はうるんでいた。
「素直な子だね、坂元君は」
荒田はゆるんだ口元を手で覆った。
魚見がどこで生まれて。両親はどんな人で。きょうだいは何人いて、どんな人たちで。
どんな学校を出て、どんな仕事をして。
「玉里団地の第一公園かあ。なつかしいねえ。せまいから設計が難しくてねえ」
家族がいて、子供がいて。話題はいくらでも出てきた。魚見は昔のことをよく覚えていた。だから魚見が歩んだ人生を優は知った。
魚見が口にした自身の年齢は間違っていた。今の季節も間違っていた。でも確かに魚見は今まで生きて、今ここに生きていた。
そして人生の年輪を重ねた魚見は、とても優しいおじいさんだった。
午後5時30分、終業時刻になった。優はあわてて事務所に戻った。待合室のあかりは消えて、事務所には一人、碧依が残っていた。
「遅い。終業時刻には帰れるようにしろ」
「すみません」
優は碧依に頭を下げた。頭を上げてから、優は言葉を口にした。
「魚見さんは自分の家の近くにある、公園を作った人でした」
「それで、とても優しい人でした」
碧依は表情を変えなかった。ただ、そらしていた視線を優に向けた。碧依は優に原付バイクの鍵を渡した。
「出張費だけで済んで1,000円。事務長が立て替えたから、明日返すように」
「はい。ありがとうございます」
優は碧依に低頭した。
「30点」
碧依の言葉に優は顔を上げた。
「赤点じゃないよ」
背を向けた碧依に、優は再度、深々と頭を下げた。