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2 初出勤日、朝

「お兄ちゃん、ほんっとうに気をつけてね!」

 初出勤の日。玄関先で優は、結衣に何度も念を押された。優はそのたびにうなずいて、フルフェイスのヘルメットごしに「いってきます」を伝えた。

 優の通勤手段は原付バイクだった。反対車線の渋滞を横目に、優は郊外に向けて制限速度でバイクを走らせた。

 原付バイクは大学の4年間、通学とバイトの通勤で乗り続けていた。さらに優は初出勤にそなえて2回、野の上病院まで試走していた。

 両車線とも交通量がまばらになると、道ばたに「野の上病院、右折」の看板があった。優は右折した。目の前に見えるのは小高い山で、野の上病院は見えなかった。電柱に取りつけられた案内板は「野の上病院↑」。野の上病院は小高い山の頂上にあった。

 優は森をぬう坂道を進んだ。坂の傾斜はところどころで急になり、優は予行練習どおりに急な傾斜をアクセル全開にしてのぼった。

 この日、明け方まで雨が降っていた。予行練習の時にはなかった水たまりの場所を、優は知らなかった。

 バイクの後輪が横にすべった。驚きで目を閉じる間もないうちに、優の見る景色は大きく変わった。

 茂る木の葉の間から、青い空が見えた。きらきらと水滴が落ちてきて、優のヘルメットのシールドを濡らした。それ以上に優はスーツの上下を濡らしていた。転倒した優は水たまりを背にして、空を見上げていた。

 運動神経のなさは自覚していた。ただそれを今日、発揮したくなかった。

 優は体を起こした。痛みはなく、服も破れていなかった。ただスーツは泥だらけだった。優はスーツの上着を脱いで、ネクタイをはずした。シャツはスーツより汚れていなかった。

 優はバイクを起こした。エンジンが止まっていたので、優はスタータースイッチを押した。エンジンはかからなかった。キックスタートを試してもエンジンはかからなかった。

 社会人1日目。今までとは違う自分になるはずだった。泣いたらいけないと思いながら、優はキックスタートを試すたびに鼻をすすった。

 1台の車が坂をのぼってきた。坂道の先は野の上病院だけで、時刻から病院のスタッフだと察しがついた。優は車から見えないようにして涙をぬぐった。緑色の四輪駆動車は優のそばで停まった。

 女性が車から降りてきた。淡いベージュのシャツとジーンズのラフな姿は、オフロード車に似合っていた。一方で長い髪にすらりと伸びた手足。気品を感じる顔立ちは車と不釣り合いに見えた。印象深い、綺麗な女性だった。

「大丈夫?」

 声も綺麗だと思った。目が覚めた心地がして、優の「はい」は上ずった。

「痛いところはある?」

 優は首を横に振った。女性は泥のついたバイクにふれた。

「あ、手が汚れます」

「大丈夫よ」

 女性はハンドルとブレーキレバーを確認してから、スイッチとキックを試みた。やはりエンジンはかからなかった。女性は優に顔を向けた。

「プラグが濡れただけと思うけど。バイク屋さんに見てもらったほうが良いかな」

 落ち着きをはらった女性の表情と声色に、優の「はい」は自然と口をついた。

「新入職の子でしょ。名前は?」

「坂元です」

 女性は車からスマートフォンを取り出した。

「職場には私が電話をするから。あなたはバイク屋さんに電話をかけて」

 女性は優のバイクに貼られたステッカーを指差した。優はリュックサックからスマートフォンを取り出した。

「おはようございます、伊敷(いしき)です」

 女性の電話がつながった。伊敷さん、と優はすぐに覚えた。

 伊敷のスマートフォンのストラップが優の目にとまった。「長崎」と大きく書かれた洒落気のないストラップだった。旅行みやげだろうかと優は眺めた。

 優の電話もつながった。

「そっちに行けるのは10時くらいになるけど。大丈夫かい?」

「10時……」

 優の言葉に伊敷が反応した。

「野の上病院の受付に、バイクの鍵をあずけておくと伝えて」

 病院に電話をかけながら優の話まで聞いていた。頭の良い人だと優は思った。

「わかりました。バイクの鍵は野の上病院の受付にあずけておきます」

「バイクは道の脇に置いて、鍵は受付にあずけさせます。大丈夫です。坂元さんは私が乗せて行きますから」

 二人は同時に電話を終えた。

「助手席に乗って」

 伊敷は当たり前のように優に勧めた。優は両手を横に振りながら答えた。

「その、服が汚れていますから」

 伊敷は後部座席からナイロンのカバーを取り出して、助手席にかぶせた。

「荷物置き用のカバーだから、逆に申し訳ないけれど。まあ、これで遠慮はいらないよ」

 伊敷は笑顔だった。この上ない優しさを感じた。だからよけいに優は、自分の失態にこれ以上つき合わせるのが心苦しかった。

「靴も汚れています。ここからなら歩いて行けますから」

 伊敷は優に首をかしげて見せた。口元は笑みを浮かべたままだった。伊敷は優のそばに寄って、優のほおを指でなぞった。

「ほら、顔にも泥がついてる。歩いて行ったら、顔を洗う時間がないかも」

 伊敷は微笑みを優に向けた。

「無理をしないで。困った時はおたがいさまだよ」

 優は赤面を隠したい気持ちもあって、深くうなずいた。伊敷は運転席に乗り込んだ。優は深呼吸をしてからそっと助手席に座った。

 伊敷は滑らかに坂道発進をした。運転もうまいと優は思った。自分は教習所で何度失敗したことかと思った。

 伊敷は優に話しかけた。

「原付バイクだと、ここの坂道きついでしょ。車の免許は持っていないの?」

 優は間を置いてから答えた。

「持っています。でも……」

 身長145センチ。運転席に座ると前が見えづらく、座席を高くするとアクセルペダルに足が届きづらくなる。この話をすれば笑われるのが常だった。

 優の話を聞いた伊敷は、うなずいてから口を開いた。

「そっか。そういう苦労があるんだね」

 伊敷の反応が意外で、優は返事ができなかった。伊敷は話題を続けた。

「ワンボックス系なら乗りやすいのかな。ペダルの位置を調整すればうまくいきそうだけど」

 優は伊敷の視野の外でうなずいてから答えた。

「自動車店の方も、そういう方法があるとおっしゃっていました。ただ金額が高くなるそうで。なので車を買うのは、給料をためてからと思っていて」

 社会人になった優の、目標のひとつだった。

「えらいね」

 伊敷は横目を優に向けた。あたたかい視線、綺麗な横顔だった。優は顔のほてりを再び感じた。優は小さな体をさらに小さくした。

 優のほてりがおさまらないうちに、木々に囲まれた白壁の建物、野の上病院が見えてきた。車は建物の脇を行って、裏側にある職員駐車場に停車した。

「私についてきて。鍵がないと病院に入れないからね」

 車を降りた優は伊敷のあとについて行った。職員通用口の扉を鍵で開けて、二人は建物に入った。薄暗い廊下を進み、つきあたりの扉を伊敷は開いた。

「鍵のささっているそこが、あなたのロッカーだからね」

 優は伊敷に低頭した。優は伊敷から教わったロッカーを開いた。中のハンガーには服がかかっていた。ピンクのナース服だった。

 え?

 優は口にしかけた言葉を押し殺した。

「おはよう碧依(あおい)

 一人の女性が室内に入ってきた。「おはよう」と返事をしたのは伊敷だった。伊敷碧依(いしきあおい)。碧依はシャツを脱いで下着姿だった。碧依はその姿のまま優に顔を向けた。優と碧依の目が合った。

「洗面台は部屋の奥にあるよ」

 優はロッカーに顔を突っ込んだ。優の目は見開いていた。

 優が女の子に間違えられた経験は山ほどあった。ショッピングモールでトイレに行ったり、温泉に行った時は2度見、3度見されるのが常だった。

 しかしここは新しい職場で、初日だった。

「あなた新人さん?」

 優の背後から女性の声が聞こえた。数名の女性たちがそばに寄ってきた気配を優は感じた。背中を軽く叩かれたので、優は恐る恐る女性たちに顔を向けた。

「あら、かわいい子ねえ」

「大丈夫よ、とって食べたりしないから」

 年配の女性たちは笑った。女性の一人が優にたずねた。

「あなたが今日入職の五ヶ別府(ごかべっぷ)さん?」

「え、あ、あの……」

「おはようございます!! 先輩方!!」

 大きな声で勢いよく、日焼けしたマッチョな人が入室してきた。

「今日入職しました五ヶ別府っす! 先輩方より遅い出勤なんて人間失格っす!!」

 五ケ別府と名乗った人はいきなり土下座をした。額を床につける五ケ別府に、年配の女性が声をかけた。

「いいのよ。就業時間よりずっと早いし。私たちは年寄りだから朝が早いだけよ」

 別の女性が口を開いた。

「なら、このかわい子ちゃんは?」

 優は、五ケ別府にならう以外の選択肢を思いつかなかった。

「すみません! その、女性の、更衣室に……」

 五ケ別府のとなりで優は土下座をした。

「いいのよ、気にしないで」

「おばちゃんばかりでゴメンね」

「それより私は、あなたのお着替えを見たかったわ」

 年配の女性たちは笑った。

 一方で碧依。服で前を隠しながら目がすわっていた。

「ちょっと(みどり)

 碧依に呼ばれたのは、碧依とあいさつをかわした事務服姿の女性だった。

「アンタさ、坂元が新しい看護師って言ったよね?」

 翠は悪気なく答えた。

「言った。だって看護師が女性で精神保健福祉士が男性って聞いたから。履歴書の写真をチラ見したら、そう思うでしょ?」

 優に顔を向けた五ケ別府が口を開いた。

「自分もそう思うっす」

 周囲の女性たちもうなずいた。優はどう反応すれば良いかわからず、碧依に顔を向けた。

 碧依は優を睨みつけた。

「ぼさっとしてないで、さっさと出ろ!!」

 すみませんと消え入りそうな声を残して、優は更衣室を駆けて出て行った。

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