後編
「ご気分はいかがですか、旅人様」
ボクの脳内に直接語りかけるみたいに、めづるさんがささやく。
「なんとなく……ほっとする感じ、かな」
「それは何よりです。さあ、もっと、もっと、私に心をおゆだねください」
彼女の声が頭の中に響くだけで、全身がとろけて消えていくような心地だった。
けど、そのときボクは気づいた。
「ねえ、めづるさん?」
「はい、なんでしょう」
「ボクたちの他にも、この部屋に何かいる?」
肌を粟立たせるような気配。それも一つや二つじゃない。
四方八方から、視線が突き刺さるような気がした。
めづるさんは、くすくすと忍び笑いをもらす。
「最初からおりますよ」
「えっ?」
「旅人様が私と感覚を共有して、やっとそれに気づける段階まで至った……。ただ、それだけのことです」
驚き、ボクは目隠しを取ろうとした。
けど、めづるさんの手が、そっとボクを押しとどめる。
「ああ、どうかそのままで」
「でも……」
「目を見開かれては、せっかく感じ取れるようになった彼らの姿も、消えてなくなってしまうでしょう。――そういうものたちなのです。ですが、ご安心ください。旅人様に危害を加える存在ではありません」
――ご安心ください。
幾度もささやかれたその声が、快感を生み思考を奪う。
他に何も考えられなくなる。
「さあ、気枯れの治癒もいよいよ最終段階です。私とともに、彼らの声に耳を澄ましてください」
そう言われても、ボクには“何かがいる気がする”という程度のことしかわからず、声なんて聞きようもなかった。
「何も聞こえないよ」
「あせらないで。まずは、もっと深く、私と一つになってください」
もう一度ぴったりと、めづるさんの身体がボクにくっつく。
そのまま、呼吸を一つに合わせる。心が澄んでゆき、一体感が強まった。
肌をざわつかせるような無数の気配を感じる。
でも、その気配は、いまだごくかすかなものだ。
「そのまま、ゆっくりと……。心を澄ませてください」
めづるさんの呼吸がとても小さく、静かなものになる。ボクの上で微動だにしない。
血の流れすら止まってしまったかのようだ。――まるで、死人だった。
ボクの身体は敏感にそれを感じ取り、頭で考えるよりも早く合わせようとする。
最小限の呼吸。それとともに心臓の鼓動も弱まり、手足がひんやりしてきた。
脳に酸素が足りないのか、意識が白くかすんでゆくみたいだった。
仮死状態をもし体験できるなら、いまのそれが近いのかもしれない。
身体の感覚は失せ、めづるさんの意識とまじりあう。
まるで、お互いの全身が水になって溶け合うみたいだった。
――すると。
ざわざわ。ざわざわ。ざわざわ。
ボクたちの周囲でうごめくものたちの気配が、はっきりと感じ取れた。
なんで、こんなものたちをいままでいないものと思っていたのだろう?
ひとたび知覚すると、それは強烈な存在感を宿していた。
巨大な――あるいは無数の――深淵の闇たち。
明らかに人ならざるその気配を、無理やり形容しようとすれば、そんなふうにも呼べるだろうか。
ちっぽけな人間の存在なんて一瞬でかき消えてしまうんじゃないかと思えるような、超常的な力。
「めづるさん……!」
理屈じゃない。
本能的な恐怖感が腹の底から湧きおこり、臓腑をしめつける。
圧倒的な存在をまえに身体が震えだすのを、意思の力ではどうすることもできなかった。
「申しあげましたでしょう。闇はあなたの味方です。どうか、安心してください」
――安心してください。
その魔法の言葉も、今度ばかりは効かなかった。
底冷えするような怖ろしさが、あとからあとから湧きあがってくる。
けれど、めづるさんは、口調を変えることなくゆったりとささやく。
「ご安心ください。何も怖くありません。何もあなたを傷つけたりはしません。安心して――。安心して――。何も怖ろしいものはありません。どうかご安心ください」
繰り返し、繰り返し。
彼女はささやき続ける。
あまりにもその声は近く、まるで自分の魂の内側から聞こえてくるような錯覚を抱いた。
「私とあなたはもう分かちがたくつながりあっているのです。あなたの恐れも、不安も、私がともに受けいれて差しあげます。だから、どうか、ご安心ください」
美しくも儚いしらべのように、ささやき声が旋律となってめぐる。
繰り返される言葉が螺旋を描き、ボクの心の外縁から深奥までを、ゆっくりとなでさすった。
その声音に触れられた部分から順に、甘く麻痺していく。
とうとう――。
恐怖は屈服させられ、ボクの中から遠のいた。
それと同時、うごめく闇たちの気配がさらに近づいてくる。この時を待っていたとでもいうように。
「さあ、旅人様。いざ、ともに参りましょう――」
ごく静かに、めづるさんは告げた。
そして――、闇が一斉にボクの中に浸食した。
――うああぁぁ‼
ボクは悲鳴を上げたのだろうか。
だとしても、自分の耳がそれを知覚することはなかった。
全身の皮ふという皮ふに……、骨の髄に……、五官の奥深くに……、そのものたちが絶え間なく押し寄せてきた。
かつて味わったことのない、圧倒的な異物感がボクを襲った。
何がなんだかわからず、ボクは必死に逃れようとした。
けど、動けなかった。
上に乗るめづるさんが、ボクの動きをいっさい封じていた。
額を押しつけ、口腔を一つにつなぐように、唇を重ね合わせる。
腕と腕、唇と唇、脚と脚がぴったりと重なり合い、のしかかってくる。
その圧倒的な力に押しつぶされ、ボクの身体は沈みこむ。
逃れることのできないボクの中に、無数の気配が絶え間なく侵入しつづける。
そして――うごめく闇が、ボクを満たした。
「もう私たちは一つです。ご安心ください」
唇だけを少し離し、耳元でささやく。
ボクではない何かが、ボクを支配する。
たぶん、見た目には何も変わりないのだろう。
けど、ボクはそれまでの自分ではなくなっていた。
そう、はっきり自覚できた。
――闇はあなたの味方です。
繰り返し何度もささやかれた言葉の意味が、ようやくわかった気がした。
ボクを満たすものに自身を明け渡し、めづるさんとつながり合いながら……。
ボクはとても幸福だった。
他の何ものでもたとえようのない愉悦がボクを包み込んでいた。
暴力的なまでの多好感がとめどなくあふれかえった。
「あははははは」
めづるさんが笑った。
それは、これまでの優しい微笑とはちがう、感きわまったような哄笑だった。
もう、彼女はボクの上に乗っていなかった。その必要がないことを、ボクも知っていた。
この結びつきがあれば、物理的な接触なんて些細なことだった。
「ついに――、ついにこの境地まで辿り着かれのですね。心より祝福しましょう、旅人様」
彼女の声は、いままでになくはずんでいた。
それを聞くボクも嬉しかった。
「さあ、もう横たわるのはやめにしましょう。私の手を取って、立ち上がってください」
「うん……」
言われるままに、差し伸べられる手を取り、ボクは布団から這い出た。
目隠しはつけたままだ。取りたいとも思わなかった。
ただ、つないだ指の柔らかさと、ひんやりとした感触だけがしるべだった。
「では、ともに表へ参りましょう」
うなずく必要もなかった。
地の上を滑るように、ボクは彼女に引っ張られ、歩く。
ボクの中を満たす闇たちは、どこへ向かうのか予感しているみたいだった。
途中、何度か段差もあったようだけど、つまずくこともなかった。
二人を包みこむものたちが、めづるさんの意思をボクに伝え、ボクの身体が、即座にそれにしたがうからだ。
しばらくして、この神社の表に出たようだ。
裸足の足裏に、土の感触が伝わってくる。
秋の夜風が吹きつけ、肌を震わせる。
――そう思ったのも束の間のことだった。
「さあ、こちらへ」
呼びかけにしたがい歩くと、熱気が前方から押し寄せてきた。
目隠しごしにも、目の前が明るくなっているのがまぶたに伝わる。
手を引かれ、ボクの身体はさらに熱気のほうへと進む。
肌がひりつき、まばゆさにまぶたがくらみそうだった。
「めづるさん、これは?」
自分でも驚くほど、とろんとまどろんでいるような、寝ぼけた声が出た。
めづるさんが微笑を深めたのが、気配でわかる。
「覚えておいでではないですか。夜闇に浮かぶ幻燈のことを」
言われ、記憶のどこかが反応した。闇夜を圧倒するような無数の幻燈の光。
僕はそれに導かれ、ここまでやってきたんだった……気がする。
「ここは当お社の庭です。そして、そこにあるのは、あなた様の気枯れを滅ぼす浄化の炎。さあ、これももう、いまのあなた様には不要でしょう」
言って、めづるさんが目隠しを取った。
砂利を敷きつめた、広い庭にボクたちはいた。
そして、暗い夜空に向かって立ちのぼるような、背の高さの何倍ものかがり火が目に映る。
それは、炎の壁となり、ボクの四方を囲んでいた。
その炎の明かりを照り返す、白い肌……。
目の前に、何も身に着けていない、裸のめづるさんの姿があった。
長い濃紺の髪もいまはほどき、海原のように腰まで伸びている。
妖艶。そんな一語では言い尽くせない姿だった。
彼女の巫女装束は、この彼女の本性を抑えるためにあったのかもしれない。
肩の稜線も、柔らかな乳房も、腰の丸みも、うっすらと毛に覆われた陰部も、しなやかに伸びる両の腿も、炎に照らされてあらわとなっていた。
長い髪が全身にまとわりつき、装身具のように彼女の白い肌をきわだたせる。
もちろん、彼女とつながりを持ったボクは、その姿にいまさら驚いたりはしなかった。
けど、視覚情報としてめづるさんの姿をこの目にできるのは、新しい喜びだった。
この世に、これ以上美しい光景は他にない、と思えた。
たとえ幾百年眺めていたとしても、見飽きることなんてないだろう。
ボクも、とうに何も身に着けていなかった。
心も身体も、すべてをうごめく闇たちに明け渡し、身を守る術は何もない。
裸の肌を四方から熱気が舐め、焦がす。
「恐れることは何もありません。私もあなたと共に参ります。さあ、こちらへ」
こんな状況でも、彼女の微笑は変わらなかった。
ボクに一歩近づき、ふわり、とボクの身体を抱きしめた。
その声音はあまりにも甘美で、その肌はあまりにも柔らかく、ボクは意識のすべてを預けていた。
この人と一つであり続けられるなら、どこへ行くのであろうとかまわなかった。
「衣服も――身体も――命さえも脱ぎ捨てて、私とともに生まれ変わりましょう」
一歩、一歩……、めづるさんと一つになりながら、光のほう――炎へと近づく。
ごうごうとうなる業火の音が四方から聞こえてくる。
恐ろしいはずのその音も、なぜかいまのボクには祝福の鐘の音のように響いた。
「さあ、焼き尽くしなさい!」
その声に応じて、ボクたちを包みこんでいた闇たちが一斉にはじけた。
それと同時、四方の炎が迫ってくる。
信じられないほどの灼熱が全身に襲いかかった。
ボクはめづるさんの肩に爪を立て、無我夢中でしがみつく。
――熱い、熱い、熱い、熱い!
それ以外、何も考えられなかった。
思考も、願望も、過去も未来も、何もかもが溶けていく。
溶けていく――。
溶けていく――。
うなる炎の中、めづるさんの笑い声が響くのが聞こえる気がした……。
***
――ふと、我に返る。
目の前には、ぽっかりと地面に穴が開いたような水面が広がっている。
川を見つめながら、ぼんやりとしていたみたいだ。
いったいどれくらいのあいだ、そうしていたんだろう。
星のまたたく夜空を見上げる。
いまさらながら、空腹感に気づいた。
早く駅に戻らないと、本格的に食いっぱぐれそうだ。
――なんだろう。
何か……何かを忘れている気がした。
いままでの自分と何かが変わったような、不思議な感覚があった。
おおげさな言い方をすると、まるで生まれ変わったみたいな気分だ。
でも、その感覚がどこからやってきているのか、とうとうボクは思い出せなかった。
けれど、忘れてしまってもいいような気もした。
何も覚えていなくても、ボクの中に残るものがたしかにある。
誰かがそうささやいた。そんな気もする。
さあ、そろそろ夜の探索も終わりにしよう。
旅はまだ続くのだから。
もと来た道を引き返そうとして――なんとなくボクは後ろを振り返った。
川の向こうの遠くの景色に、ぼんやりと明かりが灯っているのが浮かんで見えた。
――了