煌めく星
気がつけば、石壁の屋敷の廊下に立っていた。ここはどこだ、と辺りを見やる。なんだか暗くて、燭台の光が壁に揺れている。
目の前の扉から光がこぼれて伸びている。扉を開いたとたん、衝撃的な景色が飛び込んできた。
「男爵! お赦しください!」
五歳ほどであろう小さなリゲルが、ゴードンに襟首を掴まれている。
「僕は仕事を果たしました! ちゃんと歌いました!」
「うるさい! 生意気な奴め!」
ゴードンが思い切りリゲルを殴る。殴って、蹴って、床に叩きつけた。
「っ……」
床に倒れたリゲルは、小さく呻いている。
「痛いか。痛いだろう。それは罰だ。お前はあの貴族に気に入られなかった」
ゴードンが近くにあった鳥かごから、何かを取り出した。それは白い鳥だった。
「やめて!」
少年は叫んだ。
「お願いです、それだけは……!」
ゴードンが左手を握りしめる。小鳥の喉は締められ、きゅうと声に鳴らない声を上げた。そうして、かくりとその首が垂れる。
「あ、あ、ああ……!!」
ぽろぽろと泣く少年が、小鳥に手を伸ばそうとする。ゴードンはそれを渡さず、右手で少年を押さえつけ、再び床に叩きつけた。
「お前がいけないんだ。お前が!!」
「返して……! 僕の小鳥だ、返してよ!!」
「リゲル!!」
私はいても立ってもいられず、彼の傍に走り寄った。見えないのは分かっていても声を上げずにいられなかった。
「リゲル! 私だ!! しっかりしろ!!」
不意にリゲルがぎっとこちらを見た。瑠璃色の瞳に射抜かれ、ハッと私は息を呑む。
「あんたはうそつきだ!」
立ちすくんだ私に、少年は叫ぶ。
「僕を愛せないくせに、助けようとするな! あんたは――あんたは酷いやつだ。このうそつき!!」
世界がねじれて歪んでいく。
リゲル!! と私は叫んだ。彼は何も知らない。分かっていない。私がどれだけ彼を愛しているか。どれだけ彼を憎んでいたか。ああそうだ。私は一度も言葉にしたことがなかった。勇気を出せなかったことを、どれだけ悔やんでももう遅い。
ひゅうと冷たい風が吹いて、私の髪を揺らしている。我に返れば、今度は暗闇の中に立っていた。森の中のようだ
「こっちだ!」
「音がしたぞ!」
二人の男が走り抜けていく。二手に別れたその片方を、私は追った。どこかで聞き覚えのある光景だったから。男は森を突っ切って歩いていき、ふとはずれの茂みの前でしゃがみこんだ。知らない男だ。見たところ、バルバトスの部下と同じ格好をしていた。
茂みの先には、開けた場所があって、その先は切り立った崖になっている。
月の光に照らされ、かがみ込んだ少年の後ろ姿が見えた。ぎょっとして私は立ち尽くした。
「ジェ、シカ」
あの少年は、下に向って声を掛けている。恐らく彼の伸ばした手の先に、小さな私がいるのだ。
「僕――僕、男爵に」
「リゲル」
ここから見えない少女が、精一杯声を上げるのが分かった。
「兄上を、助けなくちゃ。一緒に来てくれる?」
「駄目なんだ、行けないよ」
彼の左手に力が込められている。今見れば、彼がわたしを引っ張り上げようとしているのが、嫌でも分かった。
「僕は、一緒には行けないんだ」
「どういう、ことなの」
茂みに隠れた男が、弓を構える。その光景を見て、鳥肌が立った。私はその瞬間、すべてを理解したのだ。
少年が告げる。
「……でも、これだけは知っていて――僕は、」
引き絞られた弦が、放される。矢はまっすぐ飛んで行って、少年の背中に突き刺さった。衝撃を受け、少年の指先が緩む。
リゲル! と高い悲鳴を上げ、少女が崖の下へ落ちていく。
絶望的な水しぶきの音が響いた。
少年は言おうとしたのだ。僕は君の味方だと。けれど言えなかった。少女を助けようとして、矢を受け、手を離してしまった。
「じぇ、ジェシカ」
少年は叫ぶ。
「――ジェシカ!!」
水に溺れている少女に、その声は届くはずもない。
はあ、はあと息を切らしながら、少年は背中の矢を引き抜いた。うっと声を上げ、引き抜いた矢を投げ捨てる。
それと同時に、茂みから男が立ち上がる。少年は青い目でぎろりと男を睨んだ。
「お前は、バルバトスの……!!」
「お察しの通り彼の部下です。今夜はゴードン男爵も共に動いている。あなたは彼の持ち物でしょう? 帰りますよ」
「いやだ!!」
「あなたみたいな駄々っ子、崖から突き落としてしまいたいぐらいですが――男爵に文句を言われても困ります。さあ、行きますよ」
言いながら、男は少年の右手を引っ張った。背中に傷を受けた少年は、逃げ出すこともかなわず、ただ引っ張られるがまま、連れて行かれる。
「いやだ、いやだ――ジェシカ――ジェシカ!!」
やがて男と少年の黒い影は、闇に呑まれ、その叫び声も遠く離れて行った。
いつしか辺りは霧に包まれていく。おかしい、あの夜は霧も出ていなかったはずだ。そう思いながら立ち尽くしていると、どんどん霧は濃くなり、やがて少しずつ晴れて行った。
また別の場所だ。森の中のようだが、崖はなく、ただ木々が広がっている。
あちこちに時計がある。木にかかっている小さな鳩時計も、無造作に置かれている大きな振り子時計も、チクタクと時を刻んでいる。何百もの数えきれないほどの時計。そのどれもに白い鳥が乗っていて、眠るように目を閉じていた。
振り子の音を聞きながら、足を動かす。さく、と草を踏み分ければ、その傍にも小さな懐中時計が落ちていた。傍にはやっぱり鳥がいる。
ゆっくり進んでいくと、やがて木々の向こうが開け、大きな湖が見えた。見覚えのある場所だ。幼い頃、私とリゲルがこっそり会っていた場所だろう。
溶けるように美しい満月が、水面に映っている。湖の傍に、誰かが立っていた。
声を掛けようとしたその時、異変が起きる。すべての時計の針が無秩序にぐるぐる回り始め、やがてすべてが十二時を指した。ゴーン、ゴーンと振り子時計が鳴る。甲高い音を立て、鳩時計から鳩が顔を出す。数えきれないほどの白い鳥が、一斉にバサバサと羽音を立てて飛び立った。羽根が舞い散り、やがて羽音が遠くなると、すべてが静寂に包まれる。ごう、と風が吹き、木々がざわざわと揺れた。
向こうから、聴き覚えのある歌が聞こえてくる。
月の泣く夜 あの場所で
どうか 私を埋めてください
彷徨う男の 亡骸は
娘を探して 揺蕩うばかり
家路を忘れた鳥達が 子守唄を歌うでしょう
君よ 君よ 愛し君よ
どうか私を 忘れてください
「――リゲル」
もう時計の音は聞こえない。目の前にいるのは私が探し求めた彼だ。私が彼のためにデザインした、あの白い衣装を纏い、三日月の耳飾りをつけている。彼が本物だと、なぜか分かった。その深い悲しみと絶望に触れ、ちりりと指先が焼けるような気がした。
草を踏み分け近づこうとすれば、振り返らない彼から、静かな声が放たれる。
「あの鳥たちは、死んだ僕の心だ」
私は小さく身じろぎする。
「僕の心は何度も死んだ。どんなに殴られても、どんなに燃やされても、死ねなかった。僕の存在は矛盾している」
「リゲル、お前を探しに来たんだ。帰ろう」
「僕に帰る場所なんてない。あんたの体のいいやさしさなんていらない。僕はもう疲れたんだ。この深淵に入れば、僕の意識は虚無に呑まれていくだろう。僕はようやく安寧に辿り着ける」
リゲルははだしのまま、湖に一歩踏み出した。ぞっとしてその後を追いかける。
「帰る場所がない? 本気でそんなことを考えているのか? 私がどれだけ心配したと思ってる!」
彼は振り返らず、少しずつ進んでいく。もうその腰までが水に浸かった。白い衣装が、月明かりを受けて静かに水面を揺蕩っている。
「ジール。僕はもううんざりだ。あんたはあの仮面の男と一緒にいた。あんたが誰を好きなのかは分かってる。――僕にやさしくしたのは、憐みからでしょう?」
私は水の中に入り、水面をかき分けるようにして彼に近づいていく。
「リゲル! そっちへ行くな! お前を助けたいんだ!」
「慈悲の心を持つ、ジルウェスタ―・キーリング。あんたの善意は僕にとって迷惑だ。――僕を愛せないくせに、やさしくなんかするな!」
とうとう私は彼に追いつき、その腕を掴んだ。
「リゲル!」
じゃぶりと水しぶきが上がる。リゲルは尚も拒み、叫ぶように声を荒げた。
「僕に触るな、近づくな。声をかけるな!――あの子はいなくなった。皆僕の前から去って行く。あんたもそうだ。あんたは僕のことなんてこれっぽっちも愛しちゃいない!」
「リゲル! 私だ! ジェシカだ!」
「――ジェシカ?」
少年がやっと振り返る。
「ずっと昔、言っただろう。お前を迎えに行くと」
「ジェシカ……」
私は彼の頬をやさしく両手で掴んだ。
「約束を果たしに来たんだよ」
どろりと空の月が溶ける。森の木々に白い花が一斉に咲き乱れる。
「……僕は、すべての人間が嘘つきだと思っていた。この世界は僕の敵だと思っていた」
空に輝いていた星が、次々に流れ星になって落ちていく。
少年の瞳が、星々を映して青く煌めく。そこから溶けるようにして、大粒の涙が零れ落ちた。
「あんたを、待っていたんだ」
二つの瑠璃に、悲しげな顔をした私が映っている。
「長いこと、本当に長いこと待っていたんだ」
彼は私の手に、自分の右手を重ねた。
「ジェシカ。僕のジェシカ」
白い花が風に吹かれ、はらはらと一斉に散っていく。
「僕は城の奥にいる。迎えに来てくれる?」
「ああ、約束だ。必ず迎えに行く。だからもう少し待っていてくれ」
「うん、待つよ」
どこか無邪気にさえ思える笑みを浮かべて、少年は微笑んだ。
「待ってるよ、ジェシカ」
白い花吹雪の中、溶けていく月の下で、少年の姿が揺らいでいく。そうしてすべては遠ざかり、どこかへと消えていった。




