賢者の石の願い
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気づけば私は、木造建ての屋敷に立っていた。部屋は静かで、扉の傍に小さな少女が座り込んでいる。アイボリー色の髪が、白い服によく似合っている。声を掛けようとして、彼女が別の何かに気を取られていることが分かった。
階下から声が聞こえる。どうやらここは二階だ。そして目の前で震えている五歳ほどの少女は――幼いヴィヴィアンだと私には分かった。
「ヴィヴィ……」
声を掛けるも、少女には私が見えていないようだ。ここは一体どこだろう。時間も場所も全く別の世界。まるで夢の中みたいだ。
階下からは恐ろしい悲鳴がいくつも聞こえてくる。少女は扉を開ける勇気がないらしく、ただ小さく縮こまっていた。
やがて嵐のような悲鳴がやむと、ぱち、ぱち、と焔の爆ぜるような音がした。ハッとしたように少女が立ち上がり、扉を開く。
そこは吹き抜けのような造りで、下の階が見て取れた。一階では人がたくさん倒れ、死んでいる。血の海だった。炎が少しずつ広がっていたが、外に続く扉は開け放たれていた。おぞましい光景を瞳に移しながら、少女は階段を降りていく。彼女に続いて、私も足を動かした。
下につくと、血の匂いと、炎の熱さが伝わって来た。轟音がして、屋敷のところどころが崩れ落ちてくる。木造だから燃え広がりやすいのだろう。少女が入り口に向かおうとした途端、その周囲が崩れ落ちる。ハッと彼女は小さく息を呑む。扉への道が隠されてしまったのだ。
数えきれないほどの死体からは、ただ血が流れている。誰も彼女を救えない。少女は中央の机を見た。
炎が上がっているのはそこからで、近くに散らばった金貨が見えた。少女は金貨に目もくれず、ただ炎の中央を見据える。
私はわずかに目を見開いた。そこには真紅に煌めく、賢者の石があった。
少女は両手を胸の前で合わせ、石に告げた。
「……お願い、あたしを助けてください」
遠くで炎が爆ぜ、壁が崩れる音がした。少女は構わず、懸命に言葉を紡ぐ。
「ここから出る力がほしいんです。賢者の石には生贄が必要なんでしょ。代わりにあたしの片目をあげる。だからどうか――どうか、あたしの願いを、叶えて。」
石が一瞬、どろりと光ったように見えた。次の瞬間、少女は「うっ」と小さく呻く。そうしてふらふらと片手を上げ、右目に触れた。それはもう、何も映していなかった。
彼女は少しだけ放心していたが、やがて何かを悟ったように机から離れると、傍にあった斧を手に取った。
そしてそれを――いとも簡単に持ち上げた。
少女の左目が、驚きと歓びに光る。次の瞬間、彼女は斧を持ったまま駈け出して、入り口をふさいだ木材に、斧を振り下ろした。爽快な音を立てて木材が割れる。少女はどこか疲れた様子だったが、にやっと笑い、続けざまに斧を振り下ろした。やがて入り口をふさぐ瓦礫はすっかり割れ、少女はそれをどかしながら、とうとう扉へと辿りついた。片手で斧を引きずったまま、扉に手を掛ける。開かれた先は、白い光が滲んでいた。おかしい、窓の外は夜だというのに。彼女は光の中に消えていく。
「ヴィヴィ――ヴィヴィアン!」
声を上げて後を追う。扉をくぐった途端、景色ががらりと変わり、私はハッと息を呑んだ。
振り返れば、もう屋敷も何もなく、そこはただ騒がしい町中だった。
馬車が行き交う町はずれで、ぼろ布をまとった赤茶色の髪の少女が、背の高い男と共に立っている。あれはバルバトスだ。小さな子どもは、キーラだろう。
私は彼らの傍に駆け寄る。彼らにはやっぱり、私が見えてないようだった。
「お前はこの辺りに詳しいようだな。私を案内してくれたこと、礼を言おう。――受け取れ」
バルバトスが差し出した金貨を前に、キーラは首を振った。
「そんな高価なもの、受け取れません。盗んだと疑われます」
「ふん、よく聞くと良い。それはお前の働きに対する正当な対価だ。――賢い娘よ、もしお前が私の子になるのなら、誰もお前を疑わないだろう」
キーラがハッとしたように男を見上げた。
「私を――私を娘にしてくださるのですか」
「お前がそれを許容するなら」
「それでは、お父様と呼んでも」
「それは駄目だ。私はお前の養父ではあるが、本当の父ではない」
どこか厳しい声でバルバトスが言う。キーラはめげなかった。
「それではおじさまと呼びます」
「好きにしろ」
金貨を少女の手に握らせ、バルバトスは言った。
「お前、名は?」
「キーラです。ただのキーラ」
「そうか。ならお前は、今日からキーラ・サーペンティンだ」
少女はまるで、太陽の光を見つけたかのように、顔を綻ばせた。瞳を輝かせ、宝物のように、その名を口の中で転がした。
「キーラ・サーペンティン」
男の緑の瞳を見つめ、少女は嬉しそうに笑った。
「おじさま。私、嬉しいです。――初めて家族ができたんですもの!」
辺りにまぶしい光が溢れる。男と少女は白に包まれ、追いかける間もなく、掻き消えた。
気づけば私は、また別の場所に立っていた。
ここはどこかの屋敷。その部屋の中だ。天蓋付きの小さなベッド。床には積み木が置かれている。どうやら子ども部屋らしかった。
一人の小さな少女が、じっとこちらを見ている。風もないのに、少女のミルクティー色の髪はなびいていた。
「――君は?」
「わたしは、ナターシャ」
緑の瞳が、私を射抜く。
「ナターシャ・サーペンティンよ」
私はわずかに眉をひそめた。バルバトスにはキーラの他にもう一人――正しくは血の繋がった娘がいたとは聞いていた。だが彼女は死んだはずだ。
「あなたが見たのは、石に呼応した人々の記憶なの。本当はヴィヴィアンも、バルバトスもキーラもここにはいないの」
「じゃあ、君も?」
「わたしは違うわ。夢だけど、ここに存在しているもの。わたしは願い。バルバトスの悲願」
「願い?」
「そうよ。わたしを蘇らせるのが、バルバトスの願いだった。あの人はかわいそうな人なの」
「とてもそうは思えない。彼は人殺しだ」
「例えあなたにとってそうだったとしても、わたしにとってはひとりぼっちの寂しい人なのよ」
ナターシャが、長い睫毛をまたたかせ、わたしを見上げる。
「あなたにお願いがあるの」
「彼の手助けをしろと? お断りだ」
「その逆よ」
私は目を細める。ナターシャは少し悲しそうに続けた。
「彼は賢者の石に願ったわ。ナターシャ(わたし)を蘇らせてくれと。わたしは彼を愛している。でもこれが正しくないってことは分かるわ。死んだ人間が蘇るなんて、世界の理に反している。今ここにあるわたしの意識も、きっと残骸のようなものだわ。もし蘇ったとしても、それはきっとわたしではなく、怪物か何かよ。そうなったら、彼は苦しみ続けるだけ。だから、すべてを終わらせるために――賢者の石を破壊してほしいの」
私はわずかに身じろぎする。
「破壊する方法は、誰にも分からなかった。――どうすればいい?」
「賢者の石の願いを叶えるの。今はバルバトスの願いが据えられ、わたしが石の核となっている。――どうか、哀れなバルバトスを止めて」
「それが君の――賢者の石の願いか」
「そうよ。あの人は、とてもかわいそうな人なの。止められるのは、あなたしかいないわ」
「……分かった」
「物事には順序があるの。彼の願いを止めるには、リゲルを探さなくてはならない。――なぜならリゲルが死ねば、わたしは賢者の石の力によって、蘇るから」
私は思わず一歩踏み出した。
「リゲルが……死ぬ?」
「そうよ。彼は不死になったけれど、それは石の力の恩恵を受けたため。一度目、石はリゲルの『死』を贄にしたの。バルバトスは二度目の生贄として、彼を再び選んでしまった。この夢の世界では、不死の概念も意味を為さない。リゲルの意識は、虚ろの世界で彷徨っている。意識が死ねば、現実の彼の魂も消えるわ。それは虚無と同じ。すなわち死と同じよ」
動揺を押し隠し、私はじっと少女を見る。少女は何もかも分かった顔をして、その緑の瞳で私を射抜くのだった。
「リゲルを見つけ出すのよ。あの孤独な魂は、ずっと昔から人知れず傷ついて、もうその灯も消えそうなの」
「彼が……」
「時間はあまり残されていないわ。彼の記憶へ案内してあげる。それは今まで見た誰かの思い出とは違う。ここに捕われた彼の、生身の記憶よ。でもそれは記憶の中の出来事でしかないし、本物の彼はもっとずっと深いところで彷徨っている。あなたしか見つけられないわ」
どこか労わるように、少女は私を見上げる。
「あなたの魂もまた、似たようなものね。それでいて独特だわ」
「私の、魂……?」
「そう。時と宙を越え、ここに在る。それがあなたの魂。今ですら生まれてきた意味を求めて、彷徨い続けている」
彼女の言う通りだった。私は生まれ変わった魂だ。前世では家族はおらず、今世で手に入れたそれを失った。悲しみのあまり、何かを失くしてしまった感覚はあった。生まれてきた意味、そのものを。だがその答えなど、私には分からなかった。スペンサーにも言われたものだ。過去を求める姿は、ある意味亡霊のようだと。
ナターシャはどこかやさしく言うのだ。
「覚えがあるはずよ。あなたはどこか、心に空洞を抱えている。その虚ろを押し隠したまま、毎日を過ごしている。――でもね、その意味も、この小さな旅の果てに見つかるかもしれないわ」
「それは一体、どういう……?」
「そのままの意味よ」
少女は微笑んだ。窓から降り注ぐ日差しが強くなる。逆光に突き刺されるようにして、世界は白に包まれていく。
「ナターシャ……!」
少女は消えゆく光の中、ただ繰り返す。
「リゲルを探して、リゲルを……」
そうしてすべては、眩しい光に閉ざされた。




