襲撃の夜
二、三日経ったころ、部屋で読書をしていた私の元に、月明かりと共に一羽の小鳥が舞い込んできた。
その足には小さな紙が紐で結ばれている。私は訝しげに眉をひそめ、本を置くと、すぐさまその紙を手に取って読んでみた。中にはこう書かれていた。
『男爵の手土産に気をつけて。
さようなら、僕はもう君には会えません』
あまりに唐突な手紙だ。それをぐしゃりと握りつぶし、私は慌てて父のところへ行った。
ところが父の部屋にたどり着く前に、ちりりん、と玄関の鐘が鳴る音が聞こえた。
はっと私は足を止める。
「やあこんにちはメリーウェザー」
階下で喋っているのが、ゴードン男爵だと分かった。慌てて階段の下を見下ろせば、父が男爵を出迎えるのが見えた。父にとって、男爵は特別仲が良い訳でもないが、無下にできない貴族仲間であった。ゴードン男爵は口髭を動かし、どこか楽しそうに微笑む。
「実は狩りが思いの他うまくいってね、おすそ分けしようと持って来たんだ。君の家族にご馳走しようと思ってね」
「それはそれは」父は何の疑いもなく男爵を中へ入れた。「どうぞお入りください」
止める間もなく、ゴードンは応接室へと入ってしまう。そこに続く父の背中へ向かって、私は駈け出した。
持って来た箱をもくもくと上機嫌そうに開くゴードン。玄関へ続く扉は閉まってしまった。
彼を眺める父の服の裾を、くいくいと私は引っ張った。父が声をひそめ、私に注意するような目を向ける。
「どうしたんだいジェシカ。今はお客様がいらしているんだぞ」
「そのお土産は危険なの」
私が言うと、父の表情がかすかに変わった。
「どうしてそんなことを?」
「それは……」
「さあ伯爵」
男爵が振り返り、箱の中から出した皿を父に向けた。そこには器用に切り分けられた肉が乗っている。狩の帰りにしては、用意が出来過ぎている。なんだか不自然だと私は思った。男爵は笑って言う。
「鹿の肉です。おいしいですよ」
父が少しまごついた隙に、私は一歩前に出て、こう言い放った。
「男爵、まずあなたが召し上がってください」
「なに?」
「ここまでご足労頂きましたから、先にお腹を満たしていただきたいのです」
うっ、と男爵が言葉に詰まる。私はそれで、確信した。リゲルが伝えたことは本当なのだと。この手土産には何か問題がある。恐らく毒でも入っているのだ。私はじっと彼を見据えた。
「男爵、どうかなさいましたか」
「この――小娘……!」
そこで父もとうとう何かを悟ったらしい。「男爵」と諭すような口調で言った。
「大方、日持ちのしない肉を捨てることもできず、持って来たのでしょう。我々の口には合いません。来ていただいたところ申し訳ないが、お帰りいただきたい」
父はただ「それだけのこと」にしようと決めたようだ。ただ古くなった肉を食べさせようとしたと。今回のことは見なかったことにすると。
ところが男爵はそうもいかないようだった。
「おのれ……!」
彼が突き飛ばす対象に選んだのは――父ではなく私だった。
「ジェシカ!」
はっとする。私の前に立ちはだかった父が、男爵の拳を受ける。けれどふらついた父は、そのまま体制を立て直し、男爵を殴り飛ばした。
「っ、メリーウェザー……!」
「私の娘に手出しするとは何事か……!」
「何事かね」
応接間の扉を開けて入って来たのは、バルバトス公爵だった。
倒れた男爵を見て、彼は眉をしかめる。
「ゴードン、これはどういうことだ」
私はほっとする。彼に説明すれば、この事態を解決できるはずだ。ところがバルバトスは続けて告げた。
「しくじったな。なぜこんな騒ぎになっている。私が入って来た時は、皆動けなくなっているはずだろう」
「サーペンティン公」
父が怪訝な顔で口を開いた。
「一体どういう訳です、私達は――」
ひゅっと、耳元で風の鳴る音がした。次の瞬間、バルバトスは父の胸に、ぐさりと剣を突き立てた。
きゃぁあああ、と甲高い悲鳴が上がる。それが他の誰の物でもなく、自分の声なのだと気が付いた時には、父の胸からだくだくと血が流れて出るところだった。
ばん、と奥の扉が開く。顔を出したのは兄だった。
「何事だ!」
「来ちゃ駄目!!」
兄の後ろには母がいる。兄が入るよりも早く、母は半狂乱になって部屋へと飛び込んできた。
「ああ、あなた――あなた!!」
父の死体にすがりつく母は、もう敵の姿さえ見えていない。私は母に覆いかぶさり、バルバトスを睨んだ。
「母上に手を出さないで!」
「どけ!」
バルバトスは私を掴み上げ、部屋の端へと突き飛ばした。背中を壁に打ち付けられ、うっと声が出る。倒れ伏した私は、自分の身を預けた床が、地鳴りのように揺れていることに気が付いた。誰かこちらへ歩いてくる。それもたくさん。どうにか身を起こせば、玄関の方の扉から、武装した男たちが数人入ってくるところだった。
「おい、剣を寄越せ」
バルバトスがちらりと視線をやると、後ろにいた男の一人が長い剣を鞘ごと渡した。バルバトスはそれを、立ち尽くしているゴードン男爵へと放り投げた。ガチャンと金属の音が鳴る。
「メリーウェザーの妻は、お前が殺れ」
ゴードンがひくりと、喉を鳴らす。
「わ、私は毒を飲ませるだけと」
「しくじったのはお前だろう!」
びくりとゴードンが身体を揺らす。
「さあ、落とし前をつけろ! お前の覚悟を見せてみろ!」
その言葉に、ゴードンは震える手で剣を拾い上げた。しかしそのまま、意を決したように鞘を抜き取る。
母がはっとしたように振り返る。
やめてえと私は叫んだ。叫んだけれど、それよりも剣が振り下ろされるのは早かった。
嫌な音がした。人の肉を切り裂く音だ。鮮血が飛び、母は父の上に倒れ伏した。
「貴様あああああ!」
叫んだのは兄だ。そのままゴードンに体当たりする。からんと落ちた剣を兄が拾い、ゴードンへ突きつける。そんな兄にバルバトスが剣を向けた。
ざっざっと足音がして、彼の部下たちが私と兄を取り囲もうと動き出す。
「行くんだ、ジェシー!」
兄が叫ぶ。私は首を振った。
「できないわ! 兄上を置いていくぐらいなら、私も一緒に、」
「馬鹿を言え!」
兄はいつになく厳しい声を張り上げる。
「助けを呼んでくるんだ! さあ!」
はっとして、私は駈け出した。この家には裏口がある。廊下を抜け、奥の扉を潜り抜ければ、「追え!」と声がして、二、三人の足音が続いてくる。ちらりと振り返れば、彼らが弓を背負っているのが見えた。逃げた私に、矢でとどめを刺すつもりだ。
私は裏庭に出て、森の方へと駈け出した。
本当は一緒に戦いたかった。でもこの小さな体でできることなんてない。あるとすれば、兄の言った通り、助けを呼んでくることだ。