それでも彼女は希(こいねが)う
*
――――お前の名前は今日から、キーラ・サーペンティンだ。
そう言ってくれたおじさまの顔を、私は今でも思い出す。
あれは遠い日の、忘れられない思い出だ。けれどもおじさまが愛しているのはナターシャだけで、ナターシャはとうに死んでしまった。私は彼女に成り代わることもできず、ただおじさまの与えてくれた家名だけを信じて生きているのだった。
私の人生は常に誰かの影にあった。
麗しいサーペンティンの屋敷で、ただ一人愛されていたナターシャ。白亜の城で、皆に慕われるキャンディス王女。
私は彼らの引き立て役だった。けれどもいつか、人の上に立つのだと信じてやまなかった。そうして今日、初めておじさまに命を受けたのだ。
賢者の石を盗んで来いと。
私には愛する人がいる。伯爵ジルウェスタ―・キーリングだ。彼のことは、出会った時から気になっていた。貴族牢に入れられた後、彼に告白したけれど断られた。出した手紙が全部捨てられているであろうことも知っている。でも私は彼が好きなのだ。
おじさまの命を遂行することは、伯爵への裏切りでもある。
私は悩んだ。たくさん考えて、おじさまを信じることにした。もしも喜ばせることができたら、今度こそおじさまが、私を一人の家族として認めてくれると、そう願って。
王女キャンディスの部屋の前には、いつも三騎士の一人がいる。今日はペドロだ。ヴィヴィアンは廊下の見回りをしていて、伯爵は非番だ。伯爵がいないのは都合が良かった。私が王女を裏切るところを、彼に見られたくはないから。
王女の部屋に紅茶を持っていくと、案の定ペドロが不躾な視線を向けて来た。
「何の用ですか」
「見れば分かるでしょう。姫君に紅茶を淹れてきたのよ」
「俺はあなたを信用していない」
「私情で通す人間を決めるのはいかがなものかしらね。あなたと違って、姫君は私を信頼しているはずだわ。通してちょうだい」
「…………」
ペドロは物言いたげな視線をしていたが、諦めて中へ入れてくれた。
中にはキャンディスがいる。彼女は私の欲しい物をたくさん持っていた。
幼い頃、結婚式を模して遊んだ時、私は王女の役になって、花冠を被ったのだ。けれどもおじさまはそれを見つけて、怒りを露わにした。彼は花冠を王女の頭に載せ、私を連れ去ると、ひどく叱った。
あれはきっと、王女への忠誠心からではない。おじさまには何か計画があって、私はその邪魔をしてしまったのだろう。
あれから私は、王女以上に目立つことは避けた。伯爵と踊るときだって、長く彼を独り占めしないよう抑えた。
今もそうだ。だがもしも賢者の石を手に入れ、おじさまに認めてもらえたら。私はこの国の王女にだってなれるかもしれない。
キャンディス王女は書類を前にしていたが、私を見ると表情を少しだけ緩めた。
「あらキーラ、どうしたのかしら」
「姫君、紅茶を淹れて参りました」
「気が利くのね。――ふう、少し休もうかしら」
キャンディスが書類を置き、私に向き直る。私は丁寧に紅茶を淹れて、姫君の前に置いた。そこには睡眠薬が入っている。
私は一度、ペドロの事件で彼女の信頼を裏切っている。しかしそれでも、キャンディスは私によくしてくれた。二度目の裏切りをすれば、彼女は二度と私を信用してくれなくなるだろう。構うものか。もう私は決めたのだ。
キャンディスがティーカップに手を伸ばし、美しい所作で紅を飲んだ。
私は上がりそうになる口角を抑える。
「おいしいわ。あなたは紅茶を淹れるのが上手ね」
「ありがとうございます」
「独特の風味があるわ。さすがは――」
かたん、と姫君は机に崩れ落ちる。眠りについた彼女の首から、そっと首飾りをとる。そこには賢者の石が怪しく光っていた。今までに多くの盗人がこの城に入り、この石を狙って動いてきた。それを三騎士はことごとく捕えてきた。牢屋に入れられた盗人の数は二十人以上だ。だがその隙を縫うように、盗みに成功する者もいた。この部屋で賢者の石が盗まれるのは、前代から数えれば、これで三回目だろう。一度目はペドロがおじさまの手引きで入ったのだ。二度目のデズモンドと三度目の私は、王女の信頼を勝ち得て盗みに成功した。そう、盗みに成功した者は皆、人間同士の繋がりを利用していたのだ。私は首飾りを隠し、トレイを持って、何食わぬ顔で部屋を出た。
すかさずペドロがこちらに目を向ける。私は表情一つ変えず言ってやった。
「姫君はお疲れのようよ。休憩しているようだから、そっとしておいてあげなさい」
「――俺の主は姫君だけです。命令をしないでくれませんか」
「あら、命令しているつもりはなくてよ」
にこ、と私は笑ってその場を後にする。後ろから鋭い視線を感じたが、気にもせずに長い廊下を抜けた。一度はけてから、玉座の間に向かうのだ。それも正面からではなく、裏口から入る。この裏口は催し物をする際に使われるが、今は別だ。ペドロが気づくころにはきっと手遅れで、もうすべてが始まっているだろう。私はおじさまからのやさしい言葉を待ち望みながら、ただひたすら足を動かした。
玉座の間に近づくにつれて、剣の音が響いてくる。
兵士の鋭い悲鳴を聞きながら、私は表情一つ変えず、開け放たれた裏口の扉から中を覗いた。そこでは丁度、最後の見張りが倒れたところで、床は血に染まっていた。
目の前にはおじさまと二人の部下がいる。部下の片方はリゲルを捕えていた。リゲルは必死で逃げ出そうと身をよじっていたが、がたいのいい部下の力に敵わないことは明白だった。瑠璃の目には怒りが燃えている。
床はところどころ血に染まり、四人ほどの死体が倒れていた。正面の扉には重たい閂がかけてある。
おじさまは私より先にここへ来て、裏口の見張りを部下と共に突破したのだ。そして他の扉に閂を掛け、示し合わせていた私以外、誰も入ってこられないようにしたのだ。私は入って来た裏口を閉じ、鍵をかける。
広間の真ん中には大きくて細長いテーブルがあった。白いテーブルクロスが敷かれたそこには、いくつかの花瓶が乗っていた。本当なら一刻後、そこにキャンディスの昼食が並ぶはずだった。
テーブルの傍に立ったおじさまが、私に一瞥をくれた。それがどんな意味か悟り、私は一歩踏み出す。自然と笑みが浮かんだ。
「おじさま、賢者の石はここです」
私は腕を後ろに回し、首元に隠していた首飾りを外した。おじさまに渡すと、彼は石を土台から外し、光にかざして見せた。石は赤く煌めきながら、おじさまの指に収まっている。
「よくやった、キーラ」
その言葉に、私は瞳を輝かせる。
「では、おじさま、」
「そうだな。お前を一人前の娘と認めよう」
彼は私が憧れてやまない、あの緑色の目でこちらを射抜いた。
「もうお前は自由だ。私の手を離れ、好きなところへ行くがいい」
「え……?」
「サーペンティンは呪われた一族だ。この血を持つ苦しみを、お前が分かるはずもない。――名乗りたいなら好きに名乗れ。だがこの先、お前と共に暮らすことはない」
「おじさま、そんなの――あんまり――あんまりだわ」
「まだ分からないのか? はっきりと言おう。お前はもう用済みだ」
一瞬、世界が歪んで見えた。それほどに衝撃的な一言だった。
「どういう、意味ですか?」
「賢いお前なら、とっくに気づいていると思ったが。――お前を育てたのも、社交界に出したのも、すべては姫の傍に近づけるためだった。一度ペドロが石を盗み、返却したことがあったろう。あの時姫君は私を疑ったが、結局罰を与えなかった。それはお前の存在があったからこそだ。今回もその存在が有利に働いた。事実お前は彼女との関係をうまく利用し、賢者の石を盗んできたのだ。十分な働きだ」
ひどいわ、と叫んだような気がする。ただ自分の声が震えて、もう何を言っているのかさえ、よく分からなかった。
その時、どん、と正面の横開きの扉が音を立てた。
「あけなさい! 中にいるのは分かっているわ!」
ヴィヴィアンだ。彼女は少し常識が通じないところがある。必死になっているのか、斧で扉を壊そうとしているようだ。がん、がんと扉が嫌な音を立てる。
「兵士達も呼んであるわ! この裏切り者! あなた達の城での生活は、もう終わりよ!」
私はおじさまに訴えるように視線をやった。彼は少しも動じていない。
「案ずるな、私には賢者の石がある」
「いい加減にしろ!」
叫んだのは捕まったままのリゲルだ。
「こんな茶番に付き合ってられるか! 僕をどうしようっていうんだ」
「お前はこの石の贄だ。お前は私の願いを奪った。今度こそその清算をさせてやる」
おじさまが言い、賢者の石を掲げて荘厳に告げた。
「遥かなる心の臓よ、時と宙の名に置いて説く。聞けよ、応えよ、言の葉の真意へと」
その赤い色が、めらめらと燃えたように見えた。
「紅き水の化身よ、命の根源たるものよ、我の願いをここに記す」
その時扉が音を立てて開いた。
ぜえはあと肩を揺らした、ヴィヴィアンが立っている。その後ろには二人の兵士もいた。
「捕まえて!」
彼女が叫ぶのと、おじさまが叫ぶのは同時だった。
「今度こそ、ナターシャを蘇らせてくれ! そして――私達をこの国の支配者に!!」
賢者の石が眩い輝きを放つ。皆が一瞬たじろいだ。
石はひとりでに宙に浮かび上がり、おぞましい紅を放ちながら光っている。皆の影が光を受けて伸びている。
うっと声を上げて、リゲルが気絶した。
皆が異変を悟る。次の瞬間、石の真下の床から太い茨が生えてきて、四方へ広がった。そのいくつかはヴィヴィアンに襲い掛かる。彼女はすんでのところでそれを避けたが、兵士二人は胸を貫かれ、あっという間に死んだ。
茨は止まらない。四方へ広がり、あちこちの扉を破壊して外へ進んでいく。ヴィヴィアンが叫ぶ。
「一体どうなってるの!!」
彼女は迫りくる茨に向って、斧を振るう。がきん、と音を立てて茨の破片が飛んだ。けれども他の茨が彼女に襲い掛かる。夢中で腕を動かしていた彼女は、突然はっとしたように顔を上げた。
「――姫様!」
そのまま茨をどうにかかいくぐり、扉の外へと走って行ってしまった。
茨はどんどん広がっていく。広間の上にはやはり、おぞましく光る賢者の石が浮かんでいた。
おじさまがリゲルを抱え上げる。テーブルの上に置いてある花瓶を地に落とし、リゲルをそこに寝かせた。花瓶は甲高い音を立てて破片となり、繊細な花々は無残に床に散った。そこにも茨が広がり、やがて美しいピンク色の薔薇を咲かせた。
すべては賢者の石の力だ。それが何か、おぞましいものだと嫌でも分かる。
おじさまはどこか満足そうに、笑みを浮かべて立っていた。これが彼の見た夢の最果てなら、どんなに恐ろしくてもいい、私も一緒に見届けたいと思った。
その時茨が伸びてきて、私を外へ押し出そうとした。
「おじさま!」
「キーラ」
彼の瞳が私を見据える。手を伸ばす私に、彼は告げた。
「お前にもう用はない」
言葉を失った私が最後に見たのは、遠ざかる彼だった。




