蛇の目を持つ男2
それからも私と彼女は、たびたびつまらない会話をした。そのたびに、私は彼女を憐れんだ。大人になっても、彼女が幸せになれないことは分かっていたし、私は彼女を愛せなかった。
私は私に流れる、呪われた血を嫌っていた。それはナターシャにも流れていた。私はおろか、母親さえもあの子を嫌った。祝されなかった生命だ。彼女が無邪気に駆けまわっているのを見ると、現実がどこか破綻しているように思えてならなかった。彼女は生まれてきてはならない子どもだったのだ。
ある日、私はナターシャを森へと連れ出した。彼女と出かけることは何度かあったが、町を越えて遠くへ行くのは初めてだった。ナターシャは嬉しそうな様子で馬車の席にちょこんと座っていた。
「バルバトス、どこへ行くの」
「遠くだ」
「遠くって、どこ? エレオノーラのいるところ?」
「そうかもな」
ガタガタと馬車は動いていく。空は暗い。
やがて馬車は森のはずれに差し掛かった。私は御者に賃金を渡すと、ナターシャと降りて、共に道なき道を歩いた。
どこまでも続く木々は黒々と伸び、私達を冷たく見下ろしている。
ナターシャ・サーペンティン。それは誰にも望まれない存在だった。私はサーペンティン家の繁栄を望んでいたが、それはこんな形ではなかった。私は着実に何かを築き上げてきたはずだ。だがすべてはどこかで狂ってしまった。ナターシャは私には定義できない、おかしな存在だった。母親にも愛されず、ただただ憎まれた不憫な子ども。私でさえ彼女を愛せない。それどころか彼女の存在は、今後の展望を前にして、邪魔でしかなかった。私は部下を切り捨てるように、彼女を捨てることに決めたのだ。
森の奥深くに行くにつれ、辺りは鬱蒼とした空気に包まれる。それでもナターシャは、朗らかな表情をして進んでいく。新鮮な光景に、心を躍らせているようだった。すっかり暗くなった空から、はらりはらりと白いものが落ちて来た。
「あっ、何かが顔に当たった!」
「雪だ」
憐れな少女に私は教えてやった。都合の良いことだ。今夜は凍えるだろう。彼女は雪の中で、あてどなく彷徨い、死の床につくのだ。
「これ、雪って言うの? 素敵ね!」
「ナターシャ」
私は彼女の頬に両手を添え、覗き込んでやった。
「私とかくれんぼをしよう」
「かくれんぼ!」
ナターシャはきらきらと目を輝かせた。無理もない。私が彼女と遊ぶのは、はじめてのことだったから。
「以前召使いとやっていただろう。やり方は分かるな? 数を数えて、私を見つけるんだ。百までにしよう。十を十回数えるんだ」
「十を十回? そんなに長いの?」
「ああ。長く数えた方が、わくわくするだろう?」
「そうね!」
無邪気に彼女は笑う。そうして、私に背を向け、両手で顔を覆うと、数えだした。
「いーち、にーい――」
私は彼女を一瞥すると、その場を後にした。高い声が森に響いている。彼女はまだ百まで数えられない。だから十を十回繰り返すのだ。雪は冷たく辺りを覆っている。やがて彼女の声は遠ざかり、とうとう聞こえなくなった。
それからしばらく歩き続けた。既に月は昇っていた。帰りの方角は分かっていた。森のはずれへ行って、どこかで馬車を拾えばいいのだ。ナターシャは運良く誰かに拾われるか、もしくは凍えて死ぬだろう。私にとってはどちらでも良かった。彼女がいずれ、すべてを忘れることを望んでいた。私の家に、娘は必要なかったから。
「みいつけた!」
突然響いた声に、私はぎょっとして振り返った。木の傍に、雪に塗れたナターシャが立っていた。
幻でも見ているのではないかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「――なぜ、」
絶句するわたしの前で、少女は朗らかに言った。
「なぜって、探してって言ったでしょう」
にっこりと、緑の瞳が笑う。
「どこにいても見つけるわ。だってあなたは、たった一人の家族だもの」
失念していた。雪が降っていたから、足跡を辿ってくれば見つけられたのだ。どうしてそんな簡単なことに気づかなかったのだろう。なぜ? 私がこんな初歩的な間違いを犯すはずがなかった。
――――なぜ。どうして。何故?
分からない。何も分からなかった。今胸に溢れるこの感情の名前さえも知らない。私はただ片手で顔を覆った。
「どうしたの、バルバトス?」
雪がしんしんと降っている。
「ねえ、なぜ泣いているの?」
冷たい風が吹いていた。私はいつもただ、向かい風に耐えていた。でも今、この子がいる。寄り添った彼女は、どこか温かい。
私は今更ながら、自分の過ちの大きさに気づいたのだ。
私はエレオノーラに振り向いてほしかったのだ。あのヒステリックな女を、愛していたとは思えない。ただ他にはない情が湧いていた。メリーウェザーの名を呼ぶ唇で、ただ一言私の名を紡いでくれればそれで良かった。それだけで良かったのだ。
私は何をどこで間違えたのだろう。気づくのが遅すぎた。欲しかった愛はもう得られない。だがここに、自らの娘がいる。幼く無垢な、私の家族。守るべき生命。
私は何をしようとした? 雪の最中に自らの娘を捨て、殺そうと――。なんと恐ろしいことだろう。それなのにナターシャは、私を探してくれた。こんな父親を見つけ出した。
「ねえ、泣かないで」
雪が降り続けている。ナターシャの声が、小さく、けれども確かに私の名を呼んだ。
私はそうして、とうとう本物の家族を手に入れたのだ。
私が涙を流したのは、後にも先にも、その一度きりだけだった。




