紡がれる陰謀
*
リゲルと喧嘩をした。はじめてじゃない。なんならベッドの上で殺し合いに似たことをした夜だってある。けれども、こんなに胸が痛むのは初めてだった。
彼に私がジェシカだと、伝えられれば良かった。でもそれは、何の解決にもならない。バルバトスに正体がバレる可能性が増えるだけだ。知らない方がいいこともある。リゲルの話によれば、恐らくバルバトスは私を危険人物と踏んでいる。だがそれと、私がジェシカとバレることは、また別問題である。なぜって、私の目的や動機が知り渡れば、いずれ兄にまで迷惑がかかるだろうことが、容易に察せられるからだ。
それに私は、家が襲撃されたあの夜、崖に落ちそうになった私の手を、リゲルが離したことを鮮明に覚えていた。再会した時は、酷い憎しみが湧き上がった。でも今は、ただ悲しみが残るばかりだ。彼はきっと、あの時そうでもしなければゴードンに殺されていたのだろう。分かり切ったことだ。けれどもその事実に思い至る時、私は何度目か知れない絶望を覚えるのだった。彼が選んだ答えは、今思い出しても恐ろしいものだった。
ともかく、だんだんと体調が落ち着いてきた私は、その日城での勤務が終わった後、兄の屋敷に行くことにしていた。姫君に恐れられ、悲しんだ兄の顔を私は忘れられなかった。彼をただ、慰めたいと願ったのだ。
夕方屋敷に行くと、召使いは静かに迎え入れてくれた。しかし屋敷にはどこか悲壮感が漂い、重たい空気が満ちているのだった。
左の廊下を進んだ奥の扉を開けると、窓辺に佇む兄の後ろ姿が見えた。
「――兄上」
私は声を掛ける。兄はゆっくりと振り返った。
「ああ、ジェシーか」
今日も相変わらず仮面をつけているが、声に元気がなかった。窓の外は夕焼けで染まり、兄の姿は黒いシルエットのように浮かんでいた。
「何をしに来たんだい」
「姫君のことを、もっときちんとお伝えするべきだと思ったのです。――余計なことかもしれませんが――姫君は、兄上の手紙を大層喜んでおりました。宝物のように、一つ一つ箱にしまっていたのです」
「そうだ。僕達はいい文通仲間だった」
兄は悲しそうに笑った。
「姫君の書く文章は柔らかくて美しかった。――でもあの人が見ていたのは、文字だけの僕だ。本当の顔がこんなに恐ろしいものだと、彼女は知らなかった」
「姫君は確かにあなたを恐れたのでしょう。でもあの人は、そのことに悲しんでいた。今も後悔しておいでです。どうかもう一度会って差し上げてください。」
「君はそんなことを言いに来たのかい? 僕があの人に会うことは二度とない。手紙も出さない。もう全部おしまいなんだ」
兄の声は震えている。彼を慰められるのは自分しかいないと、私は声を振り絞った。
「姫君はあの日から、ずっとあなたの返事を待っています。届いているはずでしょう、彼女からの手紙が。あなたにもう一度会いたいと書くのに、どれだけあの方が勇気を出したか」
「やめてくれ!」
彼は叫び、頭を抱えて床に頽れた。
「僕の――僕のこの顔を見ただろう。恐ろしい顔だ。あんまり醜い。鏡を見るたび、僕は絶望するんだ。ああ、十二年前、あの事件がなければ――僕の顔が綺麗なままだったら、どんなに良かったか。もう何もかもおしまいなんだ。何度会ったって、姫君は僕を怖がるだろう。あの人を傷つけるのは本意じゃない。幸せになってほしいんだ! 君には分からないのか!」
彼はかすかに震える自分の手を眺め、呟くようにこぼした。
「賢者の石――賢者の石さえあれば、」
「兄上!」
「姫君は嘘をついている。誰もこんな醜い顔の男なんか愛せない。愛せるはずもない。――すべて、すべて時を戻すことができたら。――父上と母上がいて、僕の顔が元のままだったら――そうしたら僕はどんなに幸せか。――あの石さえあれば!」
私は膝をつき、彼をぐっと抱きしめた。
「私が傍にいます」
兄が耳元で、泣きそうに小さく息を吐きだした。
「私がいますから。どうかそんなことを言わないでください。あの石を狙い始めたら、あなたはアズィム王子と同じになってしまう。どうか落ち着いてください。私がいるではありませんか。この世でたった一人の家族が」
「ああ、ああ、そうだったジェシー」
彼の仮面の下から、涙が零れ落ちた。
「ごめんよ。僕はどうしかしていたんだ」
兄が私を抱きしめ返す。ツンと鼻の奥が熱くなって、兄の肩に顔を埋めた。彼がおかしくなった気持ちが痛いほど分かって、だからこそ胸が苦しくなった。
「かわいいジェシー。どうか赦しておくれ」
「ええ、赦します。あなたは私の大切な人です」
がたりと、背後で音がした。見やれば、扉を開いたリゲルが立っていた。なぜ彼がここに? いや、そんなことはどうでも良かった。彼は目を見開き、酷く傷ついたような顔で私を見た。私はハッとして声を上げる。
「――リゲル!」
彼はぱっと、踵を返して走り出す。
「リゲル!!」
足音はあっという間に廊下の先へ消え、乱暴に扉を開け放つ音がしただけだった。
*
僕は走る。仮面の男の屋敷を後に、どこまでも走っていく。行き先なんて分からない。そんなものはどうでも良かった。
――――あなたは私の大切な人です。
扉を開けた時、それだけが聞こえた。ジールは仮面の男と抱き合っていた。固く腕を回し、顔を寄せて。二人の関係がどんなものなのか、聞かなくたって分かる。
僕は知らなかったのだ。
彼女の屋敷の中で、大切に守られ、そのやさしさを享受し続けた。彼女は僕に剣を向けた時もあった。でも今は、他にはないぬくもりをくれる特別な人だ。彼女のそれは真綿でくるむようなやさしさで、僕は時折その正体を知りたくなり、しかし踏み込むこともためらわれ、ただ胸を焦がすことしかできなかったのだ。
彼女にとって、きっと僕は弟みたいなものだったのだろう。本当はもっと特別な関係が良かった。でもそんな資格はないと分かり切っている。僕はただ、彼女を愛していた。男だろうが女だろうが、彼女が好きだった。
でもあの人が他の男を愛していると、知ってしまったのだ。
やりきれなくて、悲しくて、ただただ僕は走り続ける。
丘には木々が生え、森へと繋がっている。その森は遠い昔、ジェシカと遊んだあの屋敷に続いているのだ。あの家は焼かれた後、森に呑み込まれてしまったのだという。
僕はあの懐かしい日差しを思い出しながら、息を切らして足を動かした。
「リゲル!」
遠くから彼女が呼ぶ声が聞える。ああ、探しにきてくれたのだ。僕は木立の傍で、ふと足を止めた。
「ジー、」
その名を、呼ぶことはできなかった。誰かが背後から、僕の口を覆ったのだ。
僕は叫んだ。けれどそれは声にならなかった。誰かが僕を羽交い絞めにする。次の瞬間、拳が見えた。僕は久しぶりの暴力に怯えた。もうあの地獄から、抜け出したと思っていた。
暮れていく空の向こうを、黒い鳥が連なって飛んでいく。
「リゲル!? どこにいるんだ。帰っておいで!」
ああ、ジール。ごめんなさい。僕はやっぱり、あんたの傍にいられないみたいだ。
次の瞬間思い切り殴られ、僕は意識を飛ばした。




