名もなき令嬢
人混みの中で近づけば、キーラは分かりやすく顔を輝かせた。私は彼女の相手はしても、その気持ちを受け入れる気はまったくなかったので、わざとらしく皮肉を言った。
「キーラ嬢。牢屋暮らしで少しは反省しましたか」
「伯爵。わたしを囚人のように言うのはやめてちょうだい。あそこは貴族牢だったし、私はもう自由の身よ。あなたと踊る権利もある」
「姫君の恩赦に感謝することです。彼女はあなたに友情を感じていた。あなたが今ここにいるのはそのおかげです」
「それはよく分かっているわ。――伯爵、あなたは勘違いをしている」
「勘違い?」
「私は十分姫君を大事に思っているわ。そしてあなたのことも」
「またその話ですか」
「あなたが拒むなら、踊るのはやめるわ」
どこか切なげに彼女は言う。私はため息をつきたいのを堪えた。ここでやめれば、さらにややこしい事態になるとなんとなく理解できた。私の代わりにペドロに近づかれては、たまったものではない。
しらけた顔で手を差し出せば、それでも彼女は健気に微笑んだ。少し哀れに思ったのに知らぬふりをして、私は彼女と踊り出す。
広間には華やかな音楽が流れている。キーラはやはり、緑のドレスを着ていた。彼女のまとうのはいつも緑で、毎度違う装飾が施されたものだった。
貴族の間では、バルバトス・サーペンティンの緑の目は、呪われた血の証だと言われていた。サーペンティンはもともと、関わったものを破滅させる呪われた家系という噂があるのだ。私はそんな迷信に興味はない。バルバトスが私の家族を殺したのは、目の色など関係なく、彼の意志によるものだ。
とにかく、そんな噂がある緑色を、キーラが好んで纏うのには、何か理由があるような気がした。だがそこに踏み入るほど、彼女と親しい訳ではない。
そんなことを考えながら踊っていると、いつかと似た、誰かの熱視線を覚えた。ちらりと広間を見やるが、その視線の主が誰なのかは分からない。
「伯爵」
切なげにキーラは告げる。
「あなたはいつも、誰かを探しているみたいだわ」
絡められた指に、力が込められる。
「一体誰を?」
誰を? そんなのは私にも分からない。私の心は一度、家族が殺されたあの日に死んだのだ。前世の私がずっと探し求めていた家族。それは今世で与えられ、ばらばらに破壊された。唯一兄が生き残っていたことは救いだが、私の心の一部は、あの血まみれの日に置き去りにされているようだった。スペンサーが言うように、今の私はジェシカの亡霊のようなものなのかもしれない。
キーラの言うように、探しているとしたら、一体誰を。もう戻らない父と母の幻影か――あるいは遠い日に私を裏切った、小さな男の子かもしれない。
ぴたりと音楽が鳴りやんだ。踊りも止まる。私は静かに目を細めて彼女を見た。
「気は済みましたか」
「あなたって、本当に残酷な人だわ」
キーラは泣きそうに笑った。
「ええ、とっても満足よ。あなたと踊れて、私とっても幸せ」
「私はあなたがペドロに乱暴を働いたこと、赦しません」
「ええ、ええ。そうね。でもやさしいあなたは、また踊ってくれるのでしょう」
「それは脅しですか?」
「そうよ」
「ならば仰る通りにしましょう。でも今夜はこれで」
「いいわ」
そう言うと、キーラはそれ以上すがることもせず、優雅に引き下がった。そこらで見る女性より、よっぽど聡明な身のこなしだった。だが彼女がした過ちは赦されない。
そして彼女がペドロに近づく可能性が少しでもあるなら、もしもそれを止められるならば、私は何度だって彼女と踊るだろう。
キーラの目立つ赤茶色の髪と緑のドレスは、人混みの向こうに消えていった。
不意に、会場の向こうからどよめきの声が上がった。
なんだと見やれば、漆黒のドレスをまとった少女が立っているのだった。人々はそのドレスの色に驚いているのではなく、彼女の繊細な雰囲気に見とれているのだった。
しなるような背に、白磁の肌。白い髪を美しく結わえ、顔を黒いレースで隠している。まるで喪に服している人みたいだが、そのドレスはどこか豪奢で、夜を具現化したような美しさがあった。黒い手袋の少女は、顔を隠していても分かる美しい身のこなしをしている。
人々がざわめきだす。貴族の中にはさっそく前に出て、踊りを申し込む者もいる。だが少女はすべての誘いを断り、まっすぐにこちらへ歩いてくる。何かの間違いではないかと思ったが、彼女は確かに、私に向かって進んでくるのだった。
私の目前まで来た少女は、それまで閉じていた口を開いた。
「――――せんか」
「え?」
「わ、わたしと、踊って、いただけませんか」
今まで私はたくさんの娘に踊りを申し込まれてきた。だがその少女たちとは雰囲気が違う。よく分からない眩しさを覚えながらも、断る理由もないので、私は手を差し出した。
「私で良ければ、喜んで」
ぱあっと、少女の口が笑みを作る。目元は見えないけれど、彼女が喜んでいるのがよく分かった。私の手の上に、少女がおそるおそる指先を乗せる。私は少女の腰に手を添える。ぴくりと彼女は動いたが、静かに背筋を伸ばし、じっとこちらを見た。やがて、滑り出すように私達は踊り出した。
流れているのはワルツだ。
くるりくるりと彼女が回るたび、ドレスの裾が花のように膨らみ、軽やかに揺れた。私のマントも翻る。私の服も黒いのだから、遠目から見れば、二匹の黒蝶が舞っているように見えるかもしれない。ともかく、彼女の踊りは美しかった。広間からほうとため息がこぼれる。私と彼女の動きはぴったりと合っていた。私の意図を汲んだように、彼女の身は動き、脚は軽やかにステップを踏んだ。絡めた指先から、平熱にしては熱い体温が伝わってくる。踊りながら、どんな会話をするべきか思案した。他の令嬢には、どこの出身か、城へ何をしに来たか、そんな探りを入れることができた。けれどもこの謎の少女には、なぜかそれができなかった。彼女が顔を布でおおっていたからか、はたまたその他をよせつけない雰囲気に呑まれたからか、自分でも分からない。私はいつしかたわいもないことを口にしていた。
「不思議です。あなたとの踊りは心地よい。――以前会ったことが?」
「……あなたがわたしを見るのは、初めてでしょう」
少女は困ったように微笑んだ。
「でもわたしは、あなたを知っています」
実のところ、そういった令嬢は多い。だが彼女の場合は、そもそもどんな人間かすら分からないのだ。私が令嬢たちに探りを入れているように、彼女もまた、私の秘密を探りに来たのかもしれない。だとしたら、誰かに頼まれたのかもしれない。一体誰に。
「何を考えているのですか」
「あなたがスパイではないかと」
あはは、と少女は明るく笑う。泣きそうでいて、どこか嬉しそうだ。まるで笑い飛ばせることが、嬉しいというような響きだった。
「スパイなんかじゃないですよ」
「それでは、一体?」
ぐ、と距離を縮める。私は牽制したつもりだったのだけれど、少女は小さく息を詰めた。見れば、レースの下から覗く肌が、薄っすらと赤く染まっていた。
「わたしは、……わたしは、名乗るほどのものでは、ありません。でも一つ聞きたいことが、」
一体どんな秘密を尋ねてくるつもりだ? と私は身構える。けれどもその唇から紡がれたのは、拍子抜けするような言葉だった。
「わたしの、恰好、変じゃないですか」
私はぱちぱちと瞬きする。それほどに、その質問はどこかずれていた。おかしなところなど何一つない。それどころか、この場にいるどの令嬢よりも、際立って美しかった。
「変じゃないですよ。――とても綺麗です」
少女の唇がかすかにわななき、何かを堪えるように、きゅ、と引き結ばれる。私は困惑する。何かを間違えたのだろうか。
「失礼しました。私は何か、失言をしましたか?」
「……いえ、その、」
「あなたはとても綺麗だと、伝えたかっただけです。本当ですよ。黒いドレスがよくお似合いです。今日ここにいる、誰よりも美しい」
「――、っ――、そうですか」
少女がわずかに俯く。その耳は赤くなっていた。そこでやっと合点がいく。これはもしかしなくとも、照れているのかもしれない。
その時だ、城の鐘がゴーンゴーンと鳴った。
十時を知らせる鐘だ。少女がハッと顔を上げる。私はもっと遅くまでここにいなければならないが、彼女は違うらしい。
「――わたし、帰らなければ!」
驚いた私の腕の中から、少女はするりと抜け出した。
「待って、お嬢さん!」
ふわりとドレスの裾が翻る。彼女は駆け出し、人混みを縫って外へ扉の向こうへと飛び出した。廊下の先には、長い階段があるはずだ。だが私がそこへ辿りついた時にはもう、彼女の姿はなく、馬車が音を立てて走り出したところだった。
その後も二時間ほど城にいて、家に帰ったのは遅い時間だった。
コートを掛けて応接間に入ると、リゲルがソファで本を読んでいた。彼はこちらに目もくれずに口を開いた。
「――舞踏会は楽しかった?」
「ああ」
「またキーラと踊ったんでしょう」
「よく分かるな」
「彼女のこと、気に入ってるの?」
「まさか。――それより、面白いことがあったよ」
私は微笑みかけたが、どうにも彼と視線が合わない。
「謎めいた令嬢と会ったんだ」
「ふうん、どんな人」
「顔も名前も分からないが――かわいらしい人だったよ」
「…………」
口をつぐんだリゲルに、私はやさしく近づいた。
「リゲル」
「何」
「本がさかさまだ」
はっと顔を上げた彼の手から、私は本を取り上げると、静かに閉じて返した。
「お前、本当は眠いんだろう。もう寝なさい」
「……僕は、」
「それともなんだ? こんな遅くまで起きて、私を待っていてくれたのか?」
「べ、別にそんなんじゃないよ」
目を逸らす彼は、恐らくその言葉とは裏腹に、私を待っていたのだろう。見ているとなんだか温かい気持ちになって、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとうリゲル。おやすみ」
彼にやさしく笑いかけると、私はさっさと寝室へ向かった。閉じた扉の向こうから、くそ、と小さく呟く声が聞こえた。




