金貨の好きなねずみ4
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「なるほど? 賢者の石を私に売りたい、と」
もう空は黒く染まっている。闇夜の中、スペンサーはこちらを見ていた。それにしても背の高い男だ。
俺は何食わぬ笑みを浮かべてみせる。
「はい。今すぐお出しできます。勿論、対価を頂ければですが」
「ご冗談を。偽物を買わされるほど、私は馬鹿じゃありませんよ」
笑う彼を前に、俺は石を取り出した。
「どうぞこれをご覧ください」
スペンサーは左手を差し出し、それを受け取る。
「どこの商人もやる手です――、これは」
ほんのわずかに、彼の瞳が見開かれる。本物だと分かったのだろう。親指と人差し指で石を持ったまま、彼はじっとこちらを見下ろした。
「あなた、自分が何をしているのか分かっておいでで?」
「勿論。この事に関しては誰にも喋りませんからご安心を。ああ、売った後のことは保障しかねます。なにせ、商品は俺の手を離れる訳ですからね」
「つまり、口は割らないが責任も取らない、と」
「話が早くて助かります」
シルクハットの下の目が細められる。
「いいでしょう。――いくら必要だ?」
俺の胸を、歓喜の叫びが通り抜けていく。それを一片たりとも顔に出さず、よそ行きの笑みを浮かべて俺は答えた。
「金貨八百枚を」
「――大きく出ましたねえ。まあ構いません」
言いながら、彼はコートのポケットから袋を取り出した。
「前金です。中をご覧なさい」
投げられたそれを、俺は受け止め、中を覗いてみた。金貨の山に、大きな宝石がいくつか入っていた。反射的に唾液が出そうになる。
「少なくともそれで百枚の価値はあります。承諾して下さるなら家へご案内しましょう。残りをお支払いいたします」
ひひっと喉の奥から声が漏れそうになる。それをどうにか堪え、俺は袋を握りしめた。
「構わない」
「では」
そう言って、スペンサーは胸ポケットへ賢者の石を仕舞い込もうとする。
その手が、はたと止まった。
「――それは?」
ぎらりと、彼の目が光った。先ほどまでとは違う、何か衝動に駆られたような色をして。
俺がびっくりして顔を上げた瞬間、奴は右手で俺の首元を掴んだ。
ぎぎ、と彼の顔が俺の首元を覗き込む。
そこにはかつて俺が盗んだ首飾りがかかっていた。
「――ベス」
彼の呟いた名に、俺はびくりと反応する。
それに気づいたのか、かっと、スペンサーの目が燃え上がった。
「――こんな物、いらない」
彼が左手をぱっと開く。賢者の石は紅く煌めきながら、地面に落ちていく。
あ、と声を上げる俺の喉が、彼の右手でぐっと締められた。賢者の石が、きらきらと光るような音を立てて、転がるのを聞いた。
「私は、真実を探していた」
彼の口が、言葉を紡ぐ。
「ヘーゲル処刑場事件。そこで私の愛した娘は殺された。その真実を探ろうと手を尽くした」
俺はもう息もできず、どこかめらめらと燃える彼の眼を見ていた。
「唯一助かったヴィヴィアンは、何も見ていないと言った。炎しか見えなかったと。そこで石を拾ったと――。石は見たのだ、犯人を」
ぐぐ、と喉元が締め上げられる。
「私は石に尋ねたかった。私が愛した女を殺したのは、一体誰なのかと」
ああ、ベス。俺は誤解をしていたようだ。
「知るだけで良かった。そいつの存在を知るだけで。後はこの手で片をつければいいと」
俺はお前が、賄賂を受け取ったと思ったのだ。お前がお前の父親と同じだと。
スペンサーは俺の耳元で、低い声音でささやいた。
「あの娘とは町で出会った。馬の扱いに長けていた。無垢だった。服は汚れていたが、心は清かった。美しかった」
心臓がどくどくと音を立てる。他ならぬ少女の顔が思い出された。
「最初は親愛だった。今もそうなのかもしれない。もう分からない。確かめる術はないからだ。私は確かに彼女を愛していた。でも彼女は違った」
血の海の中、こちらを見上げたベスの、その瞳は何色だっただろうか。
スペンサーは滔々と喋り続ける。
「あの子には好きな男がいた。ならばせめて贈り物をさせてほしいと。どうか受け取って欲しいと。私の初恋だった、あの子に」
夜の闇が増していく中、記憶の中の少女は色鮮やかに蘇った。
「あの子は受け取ってくれた。そして言った。愛する男の元へ帰るのだと。どうか赦してくれと。彼もまた、私を愛してはくれないのだから、と」
ベス――ああ、ベス。俺は――俺は、
「お前だ」
耳の奥に、心の臓に、低い声が響いて渡る。
「お前がベスを殺した」
遠い記憶、振り下ろしたナイフの先で、彼女の目に俺が――俺だけが映っていた。
あの瞬間、彼女は俺のものだった。いいや、もっとずっと前から、そうだったのだ。
俺は気づかなかっただけ。
彼女が賄賂を貰ったと――薄汚れたねずみになってしまったと、俺は思ったのだ。
そうではなかった。ただ彼女は、この男から見返りのない贈り物を貰ったのだ。
そしてそれに、何も返さなかった。
なぜなら俺を、愛していたから。
「お前が生きていたら、どうしてやるかは決めていた」
ばっと喉元が離される。ひゅう、と息を吸い込み、呼吸を取り戻した俺の前で、奴は腰の剣を引き抜いた。
ああ、神様。俺はあなたを信じていない。でももし、この世にあなたがいるのなら。
これは本望です。俺があの子にそうしたように、彼が俺を殺すなら。
スペンサーの手が素早く動く。ふらりと体制を崩した俺を、長い金属は貫いた。
ぐしゃり。どこかで聞いた音だ。俺がかつて殺したねずみのものだ。
ああ、そうだ。あの日俺が刺したのは、ねずみではなかった。人間だった。汚らしい魂をしていたが、確かにひとだったのだ。
そうしてそこにただ、一雫の美しさが混じっていたというだけ。
俺の手から袋が落ち、ばらばらと金貨が散らばっていく。
俺もまた、ねずみではなく人間だったのだ。
だって今、気づいてしまった。殺意に似た、穢れた独占欲は愛だったのだと。俺はあの子を愛していたのだ。
ああ、神様。どうか俺を、あの子の元へ行かせないで下さい。地獄に落としてください。
あの子が今度こそ、馬鹿な男を愛さないように。そんなことすら、希う資格はないけれど。
「死ぬがいい――名もなきベスの恋人よ」
その声を聞きながら、俺はどさりと、金貨の中に崩れ落ちる。倒れたまま、自分の身体から流れ出す血を、まざまざと見ていた。その視界の先に、転がった紅い宝石が見える。
賢者の石はやっぱり、俺を裁くように見ていた。それはおぞましく、ひどく美しい色をしていた。




