青空と密約
露店を見終わると、その足で町の裏手の草原に向かった。
そこは木々に囲まれた広い場所で、花が咲き乱れているのだ。
リゲルにまだ会うこともなかった日、私は時折ここを訪れていた。今日は彼にもこの景色を堪能してほしくて連れてきたのだ。
リゲルは景色を前に、感じ入ったように、ほうと息を吐いた。
「僕、城のことは知っているつもりだったけど、こんな場所があるなんて知らなかった」
「そうかい」
私は微笑んで目を細めた。
「さっきの耳飾り、私がつけてもいいかい?」
リゲルは頷き、包みを渡してくれた。中から取り出したそれを、私は指先で丁寧に扱う。
じっとリゲルを見た。彼も穴があきそうなほどこちらを見ている。指先を彼の耳に伸ばすと、そこは仄かに紅潮していた。耳に触れると、びく、と彼が動く。
「じっとしていて」
私はささやき、イヤリングをつけてあげた。もう片方も同じようにつける。
改めて顔を上げた彼を見て、私はにっこり微笑んだ。
「うん、よく似合う」
彼は少しだけ視線を逸らしたが、やがて私を見て、口を開いた。
「ありがとう。……その、嬉しいよ」
はにかむように言うので、なぜか私は彼を衝動的に抱きしめたくなり、それをぐっと堪えた。
と、彼は嬉しそうに目を細め、空を見上げた。不意に鳥が飛んできて、彼の肩や指先に止まる。
私は遠い日に、湖で見た少年の姿を思い出した。あの日も彼は鳥に囲まれていた。鳥に愛されるという彼の性分は、一種の能力とさえ言えるかもしれない。
とにかく、目の前のそれは美しい光景だった。そして羽音の最中、彼は歌い出したのだ。
おいで おいで 無垢なる小鳥
白い翼で 光をはじき
草木は目覚め 腕を伸ばした
花はほころび 微笑んだ
見上げた先は 遥かな果て
届きはしない その先は
いつにもまして 澄み渡り
仰いだ先で お前は掴んだ
こぼれた空の 一滴
ばさばさと鳥が飛んでいく。
彼は「ああ」と嬉しそうに声を上げて、ぱたりと草むらに倒れ込んだ。
「空がこんなに青いなんて」
それがどういう意味だか分からなかった。分からなかったけれど、私は彼と同じ景色を見たくて、その隣に同じように寝転んだ。
確かに空は、抜けるように青い。普段は特に気にしないが、こうして見るとびっくりするほどの蒼さだ。陽射しが降り注ぎ、私達を照らしている。
こうしていると、自分の抱える重たい何かが、今だけはかき消されたような気がした。リゲルと二人で、いつまでもこうしていられたら、なんて思った。
不意に、草を踏み分ける足音が聞こえてくる。それがどこか物騒な色をしていて、私ははっとしたように身を起こした。
隣のリゲルも怪訝な顔をして起き上がる。
気づけば、三人の男が私達を取り巻いているところだった。
「誰だ」
私が目を鋭くさせれば、一人が口を開いた。
「お前を殺せと、命を受けた者だ」
私は片眉を上げる。相手が剣を引き抜いたので、こちらも抜き、青ざめるリゲルの前に立ちはだかった。
「私の後ろにいろ」
「僕……僕は平気だよ。分かるでしょ」
そうだった、彼は不死身だ。だからなんだと言うのだろう。
「けがをすれば誰だって痛い。お前だけが別ということはないだろう」
彼がハッとしたようにこちらを見つめる。
その時、敵が切りかかってきた。
私は思い切り、剣を受け止める。がちりと金属の重なる音がして、それを弾き返した瞬間、右から別の剣が襲いかかる。リゲルを突き飛ばし、剣を迎える。カン、カン、と音を鳴らしながら刃を交わし、相手に突き刺した。ぐあっと声を立てて一人が倒れる。
「後ろ!」
とリゲルが叫ぶ。彼が慌てて自らの口を塞いだ。それがなぜなのか分からなかったが、私は素早くかがみ込んだ。頭上を去った剣をよそに、相手の懐に飛び込み、素早く切り裂く。美しい草原が飛び散った赤に染まる。
最後の一人がすかさず飛び込んできたが、その剣も弾き返し、胸元をぐさりと刺した。
はぁ、はぁ、と肩を揺らして呼吸する。良かった、今回の相手は少し手強かったが、勝てないほどではなかった。
振り返ればリゲルは真っ青になっていた。
「……リゲル、大丈夫か?」
彼は頷いた。しかしそれ以降、その日は上の空で、ろくな返事をしてくれなかった。
*
ジールが襲われた。相手はおそらくバルバトスの部下だ。僕がとどめを刺さないので、直接刺客を寄越したのだ。
とにかく、僕はジールが剣を交えている姿を見て、恐れを覚えた。
戦う彼を見ながら――バルバトスに言われたことを思い出していた。舞踏会の最中、廊下に僕を連れ出し、彼は言った。
――――キーリングを殺せ。
今のすべてはきっと、あの一言に起因しているのだ。
僕は最初、バルバトスの言う通りに事を進めようとした。でも駄目だった。
僕がジールへ抱いたかすかな憎悪は、言葉で例えるなら、嫉妬やら、彼のやさしさへの苛立ちからきていた。
僕のそうした猜疑心やら憎しみやらは、共に過ごすうち、ジールの美しい眼差しや、やさしい微笑みに呑まれてしまったのだ。
僕はいつしか彼に焦がれた。屋敷で共に日々を過ごし、もっと一緒にいたいと願うようになった。
僕がバルバトスの言いつけを遂行したのは、舞踏会の晩だけだった。
ジールが酔っ払ったあの日以降、僕はバルバトスに言われたことを、無視しようと決めたのだった。
酔ったジールの愚行は、どこか恐ろしく、それでいて愛おしかった。額に受けた口づけの感触を、僕は今でも覚えている。その時に覚えた胸の苦しさも。
町に行ったあくる日、ジールが出かけるのを見届けてから、僕はこっそり家を抜け出すことに決めた。
外へ出るのは自由にしても良いが、召使いの一人を護衛につけるよう言い含められている。
だが今回の用事は、誰かに知られてはならないものだった。
案の定召使いに止められたが、僕は相手を振り切り、馬を駆って出掛けた。
向かうのはスペンサーの家だ。
とんとん、と家の扉を叩くと、スペンサーが顔を出した。
「おやまあ、これは珍しい」
「僕が来たら悪いか」
「そんなことは一言も言ってませんよ」
彼は言いながら、扉を開けて中に入れてくれた。
スペンサーは僕に茶を振る舞ってくれた。彼の紅茶は、ジールのそれより苦い味がする。僕は本題をいつ切り出すべきかと思いながら、紅色を口にした。
やがて紅茶も冷める頃になって、スペンサーが椅子に座り直した。
「それで、あなたの目的は? ただお茶を飲みに来たわけじゃないでしょう?」
わずかに細められた瞳は、こちらを探るような色をしている。僕はカップを置き、じっと彼を見つめ返した。
「ジールのことだ」
「だと思いましたよ。それで、内容は?」
「彼はバルバトスに狙われている」
スペンサーの瞳が、一瞬鋭くなった。
「バレたのですか?」
バレた? 一体何が? 僕が分からずに視線を返せば、彼は息をついて背筋を正した。
「失礼、失言でした。――で、なぜそう思うんです?」
「僕が直接、バルバトスに脅されたからだ」
今度こそ、スペンサーのまとう空気が険しくなった。
「バルバトスは僕に言ったんだ。『キーリングを殺せ』って。……僕、一度やろうとしたけどうまくいかなかった。それに今は、あれが間違いだったと分かる。どの口が言うんだって話だけど……僕はジールに死んでほしくないんだ」
「私にも似たような経験がありますよ」
「昨日、ジールが男達に襲われたんだ。彼は返り討ちにしたけど……もしまたバルバトスの刺客がやってきたら、彼じゃ勝てないかもしれない。――スペンサー、あんたにしか頼めないんだ」
僕は立ち上がり、精一杯言った。
「僕は戦えない。ジールの力にはなれないんだ。――だからあんたに、彼を守ってほしい」
「私が彼に力を貸すとして――あなたは引き換えに何をくれるんです?」
彼がそう言うと分かっていた。僕はあらかじめ用意していた答えを持って、椅子に座る彼に近づく。
その膝に片膝を乗せ、両肩に手を置いて、彼の二つの瞳を見つめた。できるだけ、自分が魅力的に映るように。
「僕が差し出せるものは、僕自身しかない。――この身体をあげるよ」
スペンサーが目を細める。
「あなた、私が偏執的なサディストだったらどうするんです?」
「それでも構わないよ。僕は色んな人の相手をしてきたんだ。少しぐらいいたぶられたって、訳ないさ」
「ほう、なかなかの覚悟で」
彼の右手が、僕の頬に触れる。彫りの深い顔立ちが、正面から僕を見据える。
「非常に魅力的な申し出ですが、その取引には応じられませんね」
僕はわずかに目を見開く。彼は至近距離で僕の顔を覗き込み、ささやいた。
「ジール君をもっと信じてあげて下さい。彼はあなたが思っているより強い。――それに、あなたが頼まなくたって……」
と、突然派手な音を立てて部屋の扉が開いた。
振り返れば、ぜえはあと息を切らしたジールが立っていた。
「おや、王子様のご登場だ」
スペンサーが呟く。ジールが僕らを見据えて、かっと瞳を燃え上がらせた。
「一体、これはどういうことだ!!」
言うなりつかつかと歩いてきて、僕の身をスペンサーから引き離す。
「リゲル! この男には気をつけろと再三言っておいたのに!!」
そう言って、僕を背に隠すようにして、スペンサーの前に立ちはだかる。
「やれやれ、あなたも大概ですねジール君」
「どういう意味だ。なんでお前がこの子と、一緒に、っ……!」
そこまで言って、ジールは言葉に詰まる。スペンサーが顔色一つ変えずに返す。
「一緒に、なんです?」
「……おかしいだろう、なぜ……あんな距離で……!」
「別に。落ち着いて理由をよく考えてみて下さい。それともその珍しく並ならぬ独占欲で彼は自分のものだと言い張るのですか」
「ば、馬鹿野郎!」
怒ったのかジールが赤くなる。僕は逃げ出したくなるのを堪え、二人を見ていた。
「とにかく、リゲルに手を出すな」
「一体どの口が」
「口を挟んでいるのはお前だろう」
肩で息をしながら、ジールは振り返る。その目が少し悲しげに僕を見るので、僕のないはずの良心が、ちくりと痛んだ気がした。
このままでは誤解されてしまう。それも覚悟の上だと心の中で息をついた時、スペンサーが口を開いた。
「彼はあなたを守ろうとしたんですよ」
僕はハッとして叫ぶ。
「スペンサー!」
「どの道知っておくべきです。いいですかジール君、あなたはバルバトスに狙われています」
ジールが訝しげにスペンサーを見る。
「この子は彼から、あなたを守ろうとした。その助太刀を頼むために、私と取り引きしようとしたんですよ」
「本当なのか、リゲル」
僕は俯いたが、どうにか口を開いた。
「……彼の言う通りだよ」
ほう、とジールは息をついた。
「騒ぎ立てて悪かった。――私はもう少し、きちんと話すべきだ。帰ることにするよ」
「そうして下さい」
ちらりと振り返れば、スペンサーはひらひらと手を振った。
その目が合図するように目配せしてきたので、僕は視線を返しておいた。




