かつての罪人5
そうしてある夜、警備に向かう途中、俺はある女に引き止められた。
暗闇の中、キーラは静かな目をしていた。いや、その静謐の中には煮えたぎる何かがあった。彼女は俺を柱へ追い詰めて、不意に口を開いた。
「ペドロ、私はずっと変わらない現状に耐えていたの。でももう、今日でおしまいにしようと思うのよ」
「な、何のことか分かりかねま、」
「ねえペドロ、あなたはキャンディスではなく、私の――サーペンティン家の部下だったはずよ」
唐突な物言いに、背筋を冷たいものが駆け抜ける。
「おれは、これから仕事なんです――邪魔をしないでください」
「邪魔? 邪魔なのはキャンディスよ」
暗闇の中で光る目に、俺は戦慄した。過去の記憶が蛇のように口を開け、今俺を喰らおうとしていた。
「ペドロ、言うことが聞けないの?」
ぐいと首元を掴まれ、恐怖にうまく声が出てこない。
「言ってみなさい、あなたのご主人は誰?」
「き、キャンディス様」
ぐい、と喉元が締め上げられる。
「違うわ。私よ、ペドロ」
「ちがう、ちが――俺は、おれは、」
「あなたの主人はキーラ。この私よ」
「き、きーら、キーラ様、どうか、許して下さい」
いつしか俺の頭は混乱と苦しみで沸騰し、許しを求める言葉だけが、口から転がった。
「ゆるして、俺はもう、俺は」
「私はずっと、王女になりたかったの。子どもの頃からよ。おじさまが私の花冠をキャンディスに被せた時だって、本当は悔しくて悲しくてたまらなかった」
そんなことがあったなんて俺は知らなかった。俺にはキーラの気持ちなんてどうでもいい。それなのに。
「おじさまも王女様には頭が上がらない様子だわ。ナターシャもいなくなったし、あとはキャンディスさえいなくなれば全部うまくいくの。彼女が邪魔なのよ」
「で、で、でも、あの人は、あなたにやさしくしてくれた、はずだ」
「だから何だって言うの? あの偽善者ぶった態度も、底抜けのやさしさも、全部私は嫌いだったの。ずっと機会を窺っていた。――今夜、あなたがとどめを刺すのよ、ペドロ」
今の俺を支配しているのは恐怖だけだった。普段なら一人の少女相手に畏怖することなんてなかっただろう。だが相手はキーラだ。俺の恐ろしい記憶の根源にいるのは――リゲルでもバルバトスでもなく、キーラだった。
「お、れ――俺は」
「さあ、行きなさい。私のことは誰にも話してはいけないわ。いいわね?」
そう言って、キーラは再び闇の中へ消えていった。
俺は歩く。武器である槍を持って。暗闇の中、俺を邪魔する者はいない。当然だ。俺は三騎士の一人なのだから。
時折ふと疑問が浮かぶ。
俺は一体何をしている? なぜこんなにもぶつぶつと何かを呟きながら、槍を握りしめているのだ?
そんな想いも、暗闇の中を歩いているうちに、すべて泥のような思考に呑み込まれ、どろどろと溶けていく。キーラは俺の主人であり、彼女の命令は絶対だった。
――――今夜、あなたがとどめを刺すのよ、ペドロ。
ぐらぐらと視界が揺らぐようだ。俺はそれでも歩き続け、俺が見張りをするはずだった部屋の、扉を開いた。何かが俺を突き動かしている。幼き日の恐怖と同じ、得体の知れない何かが。
王女キャンディスは眠っていた。静かな青が、白い部屋を満たしている。カーテンの隙間から流れ落ちる月の光。
俺はじっと王女を眺めた。どれぐらいそうしていただろう。濁った思考は倫理を掻き消していく。
幼い頃、見上げた光景が重なった。俺を見下ろす、キーラの瞳も。
――――自分の価値を思い知りなさい! 誰もあなたを必要としていないってこと!
――――ナターシャは本当はあなたを愛してなんかいないのよ!
――――あなたにだって分かるでしょう!? ナターシャの一番はおじさまなんだから!
俺は槍を振り下ろす。その瞬間、誰かが叫んだ。
「ペドロ!」
それは扉を開いたジルウェスタ―の声だった。その声で目覚めたのか、王女の瞼が開く。
見開かれた二つの瞳が、俺を映した。
その瞬間、すべての真実が蘇った気がした。混沌は遠くへ去り、現実が目の前に立ちはだかる。
俺の手から、ぽろりと槍が落ちた。槍はベッドの上から落ちて、床にからんと転がる。
俺はとうとう崩れ落ちた。
床に膝をついたまま、子どものように声を上げて泣いた。
本当は分かっていたはずだった。ナターシャはバルバトスを、家族として大切に思っていた。でも俺のことも友人として、愛してくれていたのだ。
王女様も同じだった。きっとヴィヴィだってジルウェスタ―だって同じだ。だから余計、自分のやったことが信じられなくて、俺はもう、赦しを乞う気にすらなれなかった。このまま死んでしまった方がましだと、そう思ったのだ。




