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かつての罪人3

屋敷は一気に陰鬱とした空気に包まれた。もともと口数が少なかったバルバトスは、さらに静かになり、しかし目つきは以前よりかすかに鋭くなったようだった。

キーラの乱暴はやんだ。だがそれよりも、俺はナターシャがいなくなったことの方が悲しくて、心が空っぽになったような気がした。


バルバトスの雰囲気は以前より一層険しくなり、彼が返り血を浴びて帰ってくることも増えた。屋敷はどこか灰色の空気をまとい、それから九年もの月日が流れた。

千五百十七年――十六歳のある日、バルバトスが俺を呼び出して、こう言った。

「私はお前を見つけた日、いつか役に立つかもしれない、そう言ったな。――その時が来た」

嫌な予感を覚える俺に、彼は言った。

「盗め」

「な、何を」

「賢者の石だ」

世界がひっくり返ったような感覚だった。だって遠い昔に――この屋敷へ来た日に、俺は盗みから手を引いたはずだった。今思えばありがたいことだ。でも今さら盗みを働けなんて。それもあるかもわからない、「賢者の石」を。

「あの石は人の手を渡る運命にある。今までもたびたび人の手を渡り、盗まれては再び王家に戻ってきたのだ。――場所なら目星がつく。王からやっと聞き出すことができた。『一番』になった介があるというものだ」

彼は声色一つ変えずに俺を見下ろす。

「いくつもの事例を調べて考えた。奇跡の力が実在するかもしれないと」


俺はぞっとした。彼の瞳や言葉から、すべて本気なのだと伝わって来た。

「私は王の護衛、三騎士の一人だ。今や騎士は二人だが。忍び込むまでは私が手配する。あとはお前がやれ。寝室の、本棚の中だ。それ以上は分からないが、情報としては十分だろう」

「こ、断ると言ったら」

「ナターシャを蘇らせると言ったら? それでもお前は断るか?」

俺は絶句した。そのまま男を見上げていたが、いつしか乾ききった喉で、「やります」と答えていた。


賢者の石を盗むのは、思ったより難しくなかった。というのも、バルバトスが手下を増やし、王の周りを固めていたからだ。王の部屋の見張りさえ、彼の息のかかったものだった。もちろん、そうでない者たちもいた。特にスペンサーに気をつけろ、とバルバトスは言う。あいつは何を考えているか分からないから、と。

バルバトスは夜の散歩でもどうかと、部屋から王を連れ出した。歳を取った王もまた病気で、世継ぎのキャンディス王女が次の支配者になるとの噂だった。


そうして俺は、息のかかった見張りの間を通り抜け、誰もいない寝室を難なく物色することができた。本棚はベッドから少し離れたところにあり、美しい装飾が彫り込まれていた。扉を開けて中の本を片っ端から確認する。どれも難しそうなものばかりだ。礼儀作法や貴族の家系図などもあり、お貴族サマめ、と思いながらも本を棚に戻す。

その過程で一冊、妙な本があった。分厚いのに、見た目よりも軽いのだ。俺はそれを手に取る。どうやらそれは、本の形をした箱で、表紙が蓋になっているとわかった。開いてみれば、中に四角い空洞があり、血のように紅い宝石が隠されていた。


――――これだ。


俺は石を手に取り、固く握りしめた。そうして本を元に戻すと、何事もなかったかのように部屋を抜け出したのだ。


手にした石を渡せば、バルバトスはわずかに目を細めた。そうして何やら部下に手配させ、屋敷から離れた場所にある、小さな神殿へと俺を連れ出した。そこはもう使われていない、寂れた廃墟のような場所だった。バルバトスは中へ入り、俺についてくるように促した。円形の空間は、高い壁に囲まれている。そして床の中心には、不思議な紋様が描かれていた。

「魔法陣だ。古い書物に則って描いた。石が暴走した時のためだ」

などと彼はいう。その時、彼の部下が、誰かを引っ張ってくるのが見えた。


「離せ……!」

叫びながら、魔法陣の中ににごろんと投げ出されたのは、後ろ手を縄に縛られた少年だった。切りそろえられた髪に、ぞっとするほど青い瞳をしている。

「賢者の石は気まぐれだ。力の発動条件は誰にも分からない。だが一つ分かっているのは、贄を必要とすることだ。だから今回は、それ(・・)を用意した」

当然のごとく言うバルバトスに、俺はぎょっとする。

「ちょっと待ってください、俺はそんなこと聞いてな、」

「言ったはずだ、お前はもう共犯者だと。お前も見届けるんだ」

言葉を失う俺の横で、彼は床の真ん中に石を置いた。

「よく見ていろ、ペドロ」

そして円陣から離れたかと思うと、腕を前に差し出し、何かを呟いた。

「遥かなる心の臓よ、時と宙の名に置いて説く。聞けよ、応えよ、言の葉の真意へと」


「やめろ!」

叫んだのは少年だ。

「あんた達貴族は、いつもおかしなことばかり! いい加減縄を解け!」

彼は懸命に叫んでいたが、その瞳には恐怖が押し隠されているようだった。俺は彼を助けるべきだった。けれど一歩も動けなかった。

「ナターシャを生き返らせる」バルバトスはそう言った。俺はあの子が蘇るなら、なんでもいいと思ってしまった。どこかでこれが間違っていると知りながら、とうとう止めることができなかったのだ。


バルバトスは呪文のような何かを呟き続けている。

少年は彼に話が通じないと悟ったのか、俺の方を見て叫んだ。

「そこのあんた、助けてくれ!」

俺は食い入るように少年を見た。

動くこともできなかった。ナターシャが戻ってくるなら――俺は、俺は。

少年は尚も声を張り上げる。

「賢者の石は危険だ! 何が起こるか分からない! 早くそいつを止めて!!」

動けない俺の前で、バルバトスは最後の呪文を言い放つところだった。

「紅き水の化身よ、命の根源たるものよ、我の願いをここに記す」

ごう、と風が巻き起こる。

「いやだ!!」


バルバトスの声に、少年の叫びが重なり、その響きを搔き消した。

「ナターシャを――私の娘を、」

「お願い、助けて!!」


がしゃん! と大きな音がした。バルバトスのそばにあった燭台が、突風に煽られて倒れたのだ。焔はみるみるうちに円陣に沿って燃え上がる。このままでは石が燃えてしまう。そう思った瞬間、かっと辺りに光が満ちる。俺は思わず瞼を閉じ、薄く開けた。

眩いばかりの光は、円陣から溢れ出している。少年が悲鳴に似た声を上げた。

彼は苦しみ出し、身をよじって叫ぶ。あまりの恐ろしさに、俺は一歩後ずさった。だがその光景から目が離せない。

おかしな光景だった。床に描かれた印、その中だけで焔は燃えているのだ。めらめらと、赤く、紅く。

「助けて!」

はっと俺は我に返る。あの少年が円陣の中で叫んでいる。

「熱い……あつい、誰か!」

少年はみるみるうちに燃えて行く。体は焔に喰われ、その白い手も舐めるようにして呑まれていく。駆け寄ろうとした俺は、バルバトスに行く手を阻まれた。

「なぜ邪魔をするんです! 行かないと!」

「行ってどうする、死ぬだけだ」

「人殺し!」

俺は叫ぶ。バルバトスは顔色一つ変えなかった。

「そんなに死にたいのか? では行くがいい、共犯者。あの炎の中に、飛び込めると言うならな」


俺は、円陣の前に立った。足が震えている。出来損ないの足め。どうして動けない。――駄目だ、駄目だ、俺は行けない。眩しい。ああ、ごめんなさい。

焔の眩しさに、俺の中の何かが貫かれ、おかしくなっていく。

生理的に浮かんだ涙の膜の向こうで、少年の最後の声が聞こえた。

「助けて、たすけて……ジェシカ……!」

ああ、嗚呼、なんてことだ。恐ろしい。俺は一体何をしている? 何もせず、ただ人が死ぬのを見ているだけだ。人殺しだ。俺は、バルバトスと同じ。人殺し。


そうしてどれくらい経っただろう。長く思えたが、実際にはそうでもなかったのかもしれない。焔は少しずつ収まり、ぱちぱちと音を立てていたかと思うと、消えていった。

中には焼け焦げた少年が転がっている、はずだった。俺は目の前の光景に、唖然として立ち尽くす。少年は無傷だった。白い四肢と髪が、傷一つなくそこにあった。服も燃えていない。おかしな話だ。

少年は静かに身を起こすと、所在なさげに手を眺めた。その青い瞳が、だんだんと大きく見開かれる。

「あ、ぁあ、」

彼の唇はわななき、悲鳴とも言えない叫びが漏れる。

「ああ、あぁあ……!」

そうして響く絶叫。

少年も俺も、何が起こったのかは分からなかった。けれど悟ったのだ。彼が焔の中でも死なない体を、手にしてしまったと。


バルバトスが円陣に入り、少年の胸ぐらを掴んだ。

「どういう訳だ。なぜ私の願いは叶わず、お前は生きている」

「し、知らないよ! 聞きたいのはこっちだ!」

「……失敗したんだ」

男は舌打ちしそうな勢いで言った。

「私の願いは拒まれた!」

だん、と少年を床に放り投げると、バルバトスは告げた。

「やり直しだ」

ひく、と少年の目元が動く。

「やり直そう、ナターシャが生き返るまで。お前の身体はもう普通ではない。石が何かしら作動したと言うことだ。であれば、儀式を繰り返せばいつかは奇跡は起こる。幾らでもやり直そう。何度も、何度でも」

かた、という音にバルバトスは振り返る。

かがみこみ、石を拾い上げた俺と、彼との目が合う。

次の瞬間、俺は走り出した。

「待て! ペドロ!」

叫び声を振り切るように足を動かす。


呆然としている見張りの隙をつき、外に飛び出すと、そのまま走った。走り続けた。


もうたくさんだった。こんな恐ろしい実験に付き合ってられない。誰かに、このことを伝えなければならない。俺が言えることではないけれど。これ以上、過ちが起こってはいけないのだ。王に伝えれば、ふさわしい罰を与えてくれるかもしれない。



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