かつての罪人1
ペドロ、と人は俺を呼ぶ。それが俺を表す名前だった。
始まりの記憶は孤独と空腹だ。国の外れのスラムにいた小さな俺は、よく食べ物を盗んでいた。
ある日町中に、外套を着た男がやって来た。そいつは蛇のような緑の目をしていた。
スラムの中では浮いた立派な風体。つまりは貴族。
そいつはここでしか売っていない、かぼちゃのパンを買って行った。店の男は裏ルートでかぼちゃを仕入れているのだという。黄色く、種も入ったかぼちゃのパンを、俺はかつてから食べてみたくてたまらなかった。そうして丁度貴族に買われたそれを、次の獲物にしようと企んだ。そして初めて失敗した。
スるところまではうまくいったのだ。だが男に気づかれ、逃げ道で追いつかれ、路地裏に連れ込まれたのだ。逃げる間も無く、ばん、と壁に押し付けられた。
「これは娘の為に買ったものだ。お前は命知らずだな」
「はっ、命なんてとっくにないと同じさ」
ぎろり、と緑の目が俺を睨む。見たこともないほど恐ろしい目だ。俺のふざけた気持ちは、すっと冷えていった。
「それは生を捨てたという意味か?」
男はこちらを見たまま言う。淡々と紡がれるその言葉に、俺はなぜだか戦慄し、しかしゆっくりと返した。
「そ、そうさ。俺は家族もいない。失うものなんてない」
「ならば、来い」
そう言って、踵を返すと男は歩き出す。
「お前の盗みの腕は見事だ。役に立つかもしれない。――そのパンはやる。私の元で働け。雑務を行い、命令に従えばいい。それだけだ」
俺はパンを持ち直した。パンはとても温かくてふっくらしていたが――俺はしでかしたことの代わりに、随分安く買われたものだと、そう思ったのだった。
彼の屋敷はびっくりするほど広かった。驚くことに、男は公爵の地位を持っていたのだ。俺はよく知らないが、公爵とは貴族の中でもいっとう偉いのだという。
彼は名をバルバトスといい、二人の娘と、冷たい目をした召使い達と共に住んでいた。少女達は俺と近い年で、見た目も性格も異なっていた。
一人はミルクティー色の長い髪に、男と同じ緑の瞳を持っていた。名をナターシャといい、やさしく美しい少女だったが、病気を患っていて、いつもベッドの上にいた。
もう一人は名をキーラと言った。赤茶色の髪に、少しつり目がちな瞳をしていた。公爵の前では微笑んでいたが、それ以外ではどこかつまらなそうな顔をしているばかりだった。
公爵は冷たい人間のように見えたが、娘のナターシャ愛しているのは明白だった。キーラに対するのとは態度が違ったし、何よりナターシャが笑みを絶やさなかったからだ。
俺は最初、二人を姉妹かと思っていたが、そうではないようだった。
俺の地位は屋敷の中でも一番下で、食べ物も質素だったが、それで構わなかった。
ただ生活していくうちに、二人の娘のことが気になり出した。年も近いのだ、当然だろう。そうは言っても、接することはほとんどなかった。キーラとは廊下ですれ違うくらいだし、ナターシャは部屋から出ることもないため、噂で聞いたことしかなかった。
召使いはほとんどまともに話してくれなかったが、ある日彼らがこそこそと、「キーラは拾い子らしい」と話しているのを聞いた。キーラは俺のような貧乏な生まれで、病気のナターシャの代わりに、社交界にデビューするよう育てられているのだと。
バルバトスの真の目的は王族と仲良くなることらしかったが、どうもその辺はよく分からなかった。
とにかく、キーラとバルバトスは血の繋がりがないのだ。
ある日、俺はりんごを片手でぽん、ぽんと飛ばしながら、屋敷の廊下を歩いていた。
ところが指先が拗れた拍子に、りんごを落としてしまった。
りんごはころころ転がって、廊下の外れの、開いたままの扉の中に入っていった。
ナターシャの部屋だ。その扉が開いているところを見たのは初めてだった。
俺は恐る恐る中を覗き込んだ。中は他の部屋と違って、穏やかな色の壁紙が貼られている。
「あら、あなたはだあれ?」
明るい声が降ってくる。俺はおっかなびっくりしながら足を踏み入れた。
「使用人です。それを拾ったらすぐ戻ります」
りんごを目で示しながら、急いで拾いにかかる。そのままさっさと出て行こうとすると、少女の声がかかった。
「待って、行かないで」
ベッドの上の少女と目が合う。
俺は困りきって口をへの字に曲げた。彼女と話したい気持ちはあったが、バルバトスに知られたらどうなるか分からない。
「ご主人様は厳しい方です。俺はあなたと遊べませんよ」
少女はむっとしたように考え込んだ。そして何かを思いついたらしく、わかりやすく目を煌めかせた。
「わたし、お腹が空いているの。そのりんごを切ってちょうだい」
「しかし、」
「わたしのお願いがきけない? それは大変ね、それこそバルバトスに怒られるわよ」
どこか明るい調子で言う。この娘はあの男を父親と呼ばないらしい。変わっているな、と思いながらも、どうも強情なお嬢様の言うことに、俺は「皿とナイフを取って来ます」と頷いた。彼女が本気で言いつけるつもりはないと理解していたし、もっと話したいと思えたのだ。
食堂から皿とナイフを拝借した俺は、りんごを切ってナターシャに渡した。
「あなたも食べるのよ」
と言うので、俺もしゃくりと口に入れた。なんだかいつもよりおいしく思えた。
それから俺は彼女と色々な話をした。部屋から出られない彼女に、外のたわいない話をしてやると、大層喜んだ。
そうして俺は、時折彼女の部屋に遊びに行くようになった。勿論、バルバトスにばれないように。他の使用人はいい顔をしなかったが、知ったこっちゃなかった。
俺は手作りのおもちゃをナターシャにあげた。木彫りの兵隊だ。ナターシャはそれを手にのせると、嬉しそうに目を細めた。俺はいつしか、敬語もなしに彼女と話すようになっていた。
「これは兵隊さ。あんたを……あなたを守ってくれるんだ。側に置いておくといい。いい夢が見られるよ、たぶん」
「とても素敵だわ。ペドロ、ありがとう。これは大切に、引き出しにしまっておくわね」
「……。俺は……あなたの側にいていいんだろうか」
「どうしてそんなこと言うの?」
「俺は、あなたとは出自も違う。俺が側にいたら、困らせるんじゃないか?」
「そんなことないわ!」
少女はやさしく笑った。髪と同じ色のまつ毛が、とても美しいと俺は思った。
「あなたはわたしのお友達よ! 一緒にいられて、わたしは嬉しいのよ」
にっこり笑う彼女に、俺はなんだか、救われたような気がした。
パン一つで雇われたこの身が、少しずつそれ以上の価値あるように思えてきたのだ。それは色もなく澱んでいた世界に、光が差してくる光景に似ていた。
実際、部屋には温かな色の光が差し込んで、俺たちをやさしく照らしていたのだ。
問題はその後だった。俺は数日後、突然バルバトスに呼び出された。
初めて出会った時のように、人気のない場所で壁に縫い付けられ、恐ろしい目で睨まれた。
「ナターシャに近づいたそうだな」
「…………」
「迂闊だった。お前があの子に近づくなど、考えもしなかった」
「お、俺はただ、」
「いいか、お前はスラムの出だ。身分不相応だということだ。薄汚れたお前がナターシャに近づくことは、断じて許さん」
俺の手はなぜか震えそうだった。以前睨まれた時とは違う、悲しみに似た感情が俺を蝕んだ。
「もし娘に手を出してみろ、ただじゃおかないからな」
バルバトスはただそう言い残して、去って行った。




